第5話 小百合トリップ
どうしてこうなったんだろう…。
退屈な午前の授業をこなし、遂に待ちに待った昼食時間を迎え、そわそわふわふわとした雰囲気が占拠した教室…から一歩踏み出してしまった事が運命を左右したのか。
小百合の右手には今、あの、瀬野明日香の肩が抱かれていた。
東校舎2階の階段を慎重に降りる2人。小百合はいつにもなく気を遣って明日香を労る。
いつもは意識もしない階段が、今日はどこまでも長く続いている様な気がした。
特に会話が起こりそうな気配もなく、というより、小百合が持ち前の低コミュ力を存分に発揮して会話を発生させないでいると、ようやく1階にたどり着いた。
東校舎には両端の2ヶ所に階段があるが、幸運にも保健室のある場所は今降りてきた階段からすぐそばだった為、小百合は隣に密着する明日香に、抱え込んでいるこの緊張感を悟られない様演技を続けるには好都合だった。それでも正直ギリギリの距離なのだが。
心がしわくちゃになりながらも、時間にしてほんの5分ほどの長い旅路が終わりを迎えようとしていた。
昼休憩の時間ということもあり、保健室周辺には人影がまったく見受けられず、シーン、という擬音がこれほどぴったりな状況はなかなか無いだろう。
明日香を支える右手が疲れた疲れたと悲鳴を上げていたが、次のステージである保健室を前にすると、そんな弱音を吐いている場合では無い。こうして小百合は緩みかけていた心のハチマキをギュッと締めなおした。
よしっ!と、表面上には現れていない内なる闘志をメラつかせドアに手を掛ける。
ガラガラガラー…
気合とは裏腹に静かに引き戸を開ける小百合。こういう時でも気はとても小さい。
「先生…いらっしゃいますか?…」
震えがまだ残る声で呼びかけるが、言い終わる前に既に不在であるとおおかたわかってしまう。
それほどの静けさで、寒々しい空気感だ。
小百合にとって唯一の希望として期待していた保険の先生の不在は、まるで崖から垂らされた一本の命綱を無情にも断ち切られた様な、そんな絶望にしか例えようが無い心境に陥らせた。
しかし、いちいち落ち込んでもいられない。小百合はガックリと肩を落としたい所を堪え、今になって段々と心情が感じ取りづらくなってきた明日香を連れて足を踏み入れた。
カーテンが閉められたほぼ正方形のこの部屋は、普段は白を基調とした明るく清潔感のある空間だが、いつもここにいる
主人がいないとなると途端に頼りなく、どんよりとしたものへと姿が変わっていた。
頼れる人は自分自身だけ。改めてそう自分に言い聞かせて小百合は動き出す。
「ま、まずは…ベッドに腰掛けようか…」
壁に頭をぴったりつける形で配置された2つの簡素なベッド、とりあえずその内の入口から近い方に明日香を連れて行く。足取りはもうしっかりとしていた。
少し入りすぎていた抱き寄せる力を緩めながら、壊れ物を扱う様、丁重にベッドに腰を下させると、かかっていた重みよりも遥かに大きい荷が降りた気がした。
胸を撫で下ろす小百合。だがまだまだここからだ。
「よし…じゃなくて、えと…まだどこか辛いですか?」
これまで歩いてきた短い人生の経験から、手探りで道筋を考えて行く。
「はい…あと少しだけ…」
言葉数が少ない明日香からあまり上手に情報を引き出せない小百合。己の会話スキルの未熟さを呪った。
とにかく保健室中を見回し、何か状況を打破できるものを探すが、何もわからないままでは当然何もわからない。
再び思考回路がショート寸前にまでなりそうなほどもたつき、頭が求めていないのに口から言葉が出ていってしまう。
「あ、えと、頭痛薬は…いやもしかしてお腹がとか…いやでも間違って変な薬飲んじゃったら…でも何もしないのもダメで…あぁ…」
あっちを向いてはああだ、こっちを向いてはこうだ、混乱が混乱を呼び小百合の身体の何もかもが渋滞した。
その時。
小百合の身体は動きを止めた。いや、止められた。
袖口がぎゅっと強く握られたからだ。
小百合だけわちゃわちゃしていただけの静かな空間だったが、その時、確かに音が無くなった。
この瞬間が来るまでは無数の想いの波が交錯し、濁りばかり目立っていた脳内が、今ではまっさらで穏やかな、透明感で占められていた。
そのまま不思議と落ち着いた仕草で明日香に振り返るが、伏し目がちの顔からはその表情が伺い知れない。でも、まだしっかりと袖口が握られている。
「ありがとう…そしてごめんね」
明日香が声を振り絞る様にぽつんと言うとまた、静寂に包まれた。
芸術品として価値のありそうな、水晶の様な瞳、その表面がかすかに潤んでいる。だが、その理由までたどり着くには相当な時間を必要とするだろうと思えた。
やっとクリアになった頭でさえも、投下された「ごめんね」の意味を解き明かす事が出来そうになかったからだ。
握られた袖口と明日香の顔を交互に見つめ、なだめるように優しく語りかけた。
「どうしたの瀬野さん?私の方こそ謝りたいぐらいだよ。ごめんね…しっかり者じゃなくて全然…」
本心が溢れ出る。
自分一人では何も出来ないし頼りないと、痛いほど思い知らされたから。
しかし、聞き終わる前に遮る様に明日香は立ち上がった。必死の表情だ。
「違うの!…私、嘘ついてたのっ!…」
「ただ…私…赤井さんと…と、友達になりたくて!つい…」
「天と地がひっくり返る様な」とはこういう時こそふさわしい言葉なのかもしれない。これ以上ないほど身に染みた。
明日香の予想だにしない鋭い切り口の告白に、逆に静まり返る心。だがしかし、耳から入った言葉が頭へと満たされて行くに連れ、小百合の白い肌は濃く赤みを帯びていった。
「とととトモダチ!!!?え!?瀬野さんが私なんかと!?」
正直なところ、嘘がどうとかは、もうどうでも良かった。むしろ明日香の身体に異常ないならそれで良い。
やはり小百合の一番の注目点は「友達」だった。
頭の中の辞書や経験から「友達」について引っ張り出しはするものの、並べられたもの全てポジティブでプラスな意味だった。そもそも感覚で分かりうる答えだが。
小百合が自問自答を繰り返していると、まだ普段のクールさはどこへ置いてきたのかと思える明日香が続けた。
「なんかじゃないよ!赤井さんだから友達になりたいんだ!」
小百合には縁遠い、熱い言葉が突き刺さる。まるで青春ドラマだ。だからこそ信じ難いと感じるのかもしれない
「…でもやっぱり、そこまでの熱意で迫るほどの事、私してないよ?そもそもまだ話した事すら無いのに…」
疑り深い性格が強く強く根を張っている小百合。自らに自信が備わってないからこそ疑問に思ってしまうのだ。
記憶を辿っていっても、たどり着くのは桃子や母さん達ばかり。
小百合に結びついている人間関係の糸は、その強靭さは目を見張るものがあるのだが、本数で見るととんでもないくらい少ない。もちろん明日香の糸も無かったはずなのだが。
考えるほどに闇の中に深く落ちていく「謎」。
もう答えが欲しいと、詰め寄りたくなった時だった。
「覚えていないの?…ほら、ここの入学試験の日…」
明日香がくれた「入学試験」のワードを脳にはめ込んだ瞬間、ポッカリと空いていたノイズがかかったモノクロの記憶が、途端に不完全ではあるが鮮やかな色彩を纏って蘇ってきた。
しかしながら、戻ってきた鮮明な記憶はというと、必ずしも小百合を喜ばせたりキャッキャ言わせるものでは無かった。
「入試かぁ………うぅ………」
ざらざらとした記憶のかけらが身体の中を撫でてくる。
辛い思い出なんてそのまま持ってたって辛いだけだ。
そういう訳で記憶に目隠しをしていたのだが、この人生の岐路、ターニングポイントを目の前にして勇気を持って解放しようじゃないか。小百合はハイになりかけていた。
あれは今から約1ヶ月前、3月初旬にしては少し肌寒く、しかし陽が照れば暖かく、まだ春と冬がえいえいと綱引きをしているような日だった。
とにかく小百合は緊張していた。一から百まで緊張していた。
入試という人生の道を決定づけてしまう一大イベントを前にして固くなるのは皆同じなのだが、そうだとしても、小百合のそれは度を超えていた。
「小百合ちゃん!それシャーペンじゃなくてお箸だよ!」
いつもの真百合のものとは少し違う、本気が混じるツッコミが小百合を突き抜けた。
朝食のフレンチトーストの味など既に消え去り、というか食べたかどうかもわからない朝食の後、家族3人で持ち物の最終チェックをしていたが、小百合の気持ちはたかぶりすぎていた。
母2人からビシバシとツッコミを受けて、入試前から気が滅入る。10割小百合のおっちょこちょいが原因だったが。
「小百合〜もうちょいリラックスしようや♪」
千百合はそう言って小百合の肩を揉んでいたが、身体がこわばっているからか、その感触は無に等しいものだった。
それからは母達の操り人形となって準備を終わらせ、成功のおまじないと言って2人からぎゅっとハグをされた。
その感触を感じる余裕は無い。
しばらくして桃子と一緒に学校という名の戦場に向かった。
「小百合、ちょっとガチガチすぎるよ流石に〜」
学校へ向かう道中も、桃子の心配をよそに頭に浮かぶのは試験の失敗の事ばかり。全てが追い込まれていた。
学校へ着くと空気が一段とピリッとしており、それがまた小百合のほとんどない余裕を削ぐのに拍車をかける。
受験票を無くさない様、ポケットに入ったそれを握り続けたせいか、汗を吸ってくちゃっとしていたが気付くはずもなかった。
玄関周辺にいるたくさんの受験生をなるべく目に入れないために、普段よりも伏し目がちに歩き靴箱で靴を脱ぐと、正面の壁の掲示板には試験教室の案内が張り出されていた。
願書を提出する際学校単位でまとめて発送するため、幸運にも桃子と同じ教室で受けられる事が分かると、少し肩の力が抜けていた。それでもまだ動きはぎこちない。
すると、安堵したのも束の間、桃子の携帯が鳴り出した。
嫌な予感。小百合の予想は不運にも的中する。
「母さんから電話来ちゃった!もうこんな時に〜」
本当にそうだそうだ。桃子の言葉に無自覚にうんうんとうなずいたまでは良かった。
「ごめん小百合〜、ここで電話はまずいから先に教室に行ってて〜」
片手で形式的に申し訳なさそうに手を挙げると、駆け足で外へと戻っていった。
え?え?え?と戸惑う小百合を尻目に出ていった桃子。その後ろ姿をポカンと見つめていると、何故か瞳を覆うものがぶわぁっと滲んでくる。涙だ。
とっさに目をごしごしとこすり、これ以上こぼれないように誤魔化そうとするが、それをすればするほど目前の心配事が小百合の心を埋めていき、涙と共にあふれそうになった。
右を見ても左を見ても知らない人ばかり。
足も地面に張り付いたまま一歩も動かない。
途方に暮れて立ち止まっていると、教室に急ぐ受験生の肩がぶつかってしまった。
ごめんなさい!と、振り向きざまに謝った見知らぬ人に何も言えずにいると、持っていたはずのしわしわの受験票が手元からひらりと落ちていくのが見えた。
あっ!と、瞬間的にしゃがんで手に取ろうとするが、人がそこらじゅう行き交うこの場所では至難の技だった。
ひらひらと人の間をすり抜けていく受験票を、なりふり構わず両膝をついて追いかけていく小百合。
しかし人混みを分けても分けても手に届かない小さな紙。
「待って…待ってよ…」
消え入りそうな声で精一杯手を伸ばす。
千百合と真百合がこの日のためにと買ってくれた下ろし立てのストッキングは、膝の部分が薄くなり擦り切れる間際。
涙がとうとうあふれそうだった。
「これ、あなたのものなのかな?」
ようやく動きを止めたその紙を、細くしなやかな指が拾い上げた。
膝立ちのまま、不格好にもその救世主の元へにじり寄る。
「あああ、あり…がとう…ございます…」
「ほら、もう安心だから泣かないで」
癒しそのものでできている様な声で小百合を慰めるその女性は、ポケットから取り出したきちんと折り目がついているハンカチで、目尻から今にもこぼれそうになっていた大粒の涙を拭った。
そのハンカチを手にしている綺麗な指の持ち主へと、すすすーっと小百合の視線は導かれる。
じりじりと見上げていったその先、校舎の蛍光灯をバックにまるで後光が差している様な神々しいシルエット、
そして輝く銀色の髪…銀色の…髪???
「あっ………」
「銀色の髪」をきっかけに、封印していた辛い過去の回想から舞い戻った小百合。
目の前には瞳をキラつかせて、小百合が真の意味で明日香の事を認識してくれる事を今か今かと待ち望んでいた。
「どう?思い出せましたか?」
目の前にしゃんとして立っている明日香と回想の銀髪お姉さんがぴったりと、寸分違わず重なり合った。
奇跡の再会劇としてこのまま感動のフィナーレを迎え、拍手が鳴り止まないままエンドロールが…もちろん流れて来ない。流れるはずが無い。
「あれ?ちょっと待って瀬野さん…」
小百合にはひとつ腑に落ちない、とても大きな疑問を見逃す事ができなかった。
「確かにそこで初めて会った、ていうのはわかったよ…」
「でも…それと友達がどうのって…関係あります?」
ぎくっ!と、音が鳴った訳では決して無い。
そういう訳では無いが、絶対に聞こえた。
小百合にそう思わせるほどに、明日香の表情はぎこちない笑みを湛えていた。
眼差しのみで、真意を聞き出したいと切に訴える小百合。その力強さに目が泳いでしまう明日香。
形勢逆転した。
「あぁあぁ…うぅ…」
諦めの境地に到ったのか、明日香がガクッとうなだれた。
「………ぃかったから……」
「もう一回言っていただけますか?聞こえづらくて…」
意地悪でもなく、真剣に聞き返した。
「か、可愛かったから!!!」
「困ってる姿が保護欲をかき立てて…」
「あの後やって来た安井さんの袖をギュッと離さないでついて行く姿…とっても良くて…もっと見たくって!」
口から出る言葉を拾っていくほど、瀬野明日香という少女のイメージがガラリと変わっていった。
引いてしまったとか後ずさったとか、そういう変化では無い。確かに戸惑いはした。だけど悪い意味はない。
あの明日香が、あの格好良い明日香が、あの高嶺の花の明日香が、こんなにも焦ったりどぎまぎしたりあわあわしたりする事があるんだと、みんなが知らないであろう隠れた一面を垣間見れて、正直嬉しかった。
「ふふっ…うふふ…あはは!」
笑いがこみあげてきた。我慢出来なかった。
まだまだうろたえている明日香を見つめると、ただただ笑いが湧き出して止まらない。
「もう!赤井さん笑わないでよっ!」
「だってだって…瀬野さんがそんな…ねぇ…ふふっ!」
知らぬ間に距離感がぐぐっと近づいていた。
まさにこれは「友達」の距離感なのかもしれない。
桃子ぐらいしかはっきりとした友達がいない小百合にはまだ確信は持てていなかったが、それでもこれが「友達」なんだと思えた。
「こんな回り道しなくたって、教室で声を掛けてくれれば良かったのに…皆から憧れられてる瀬野さんなら誰だって成功するよ」
「憧れなんて…私、そんなに凄くないよ…」
やっと落ち着いたのか、冷静な明日香に戻っていく。
しかし、いつもの凛とした強さはなかった。
「不器用だから、こういう風にやっちゃったんだ…」
「改めて謝るね…嘘をついてごめんなさい…」
深々と頭を下げると、やはり銀色の髪がさらりと美しかった。
「全然気にしてないよ…でも」
「でも」という所で区切ると、明日香の表情が少し曇り掛けたが、もちろん小百合は暗い事を言うつもりは少しもなかった。
影の者として長く長く生きてきた小百合の渾身の一撃が放たれる。
「…私で良ければ友達になってください!」
瞬間、薄暗い保健室に明るさが戻った様な、暖かみが帰ってきた様な。
小百合も明日香も頰が赤くなっていた。
なんの特別でもない昼下がり。
2人が踏み出したそれぞれの勇気の一歩。
形は違えど大きな大きな一歩。
ひとつの狭い部屋の中で、無限に広がる可能性が生まれた瞬間だった。
…でも「保護欲」って私、ペットか何かかな?
よくよく振り返るとどこか笑えてくる小百合だった。




