凶賊と黒い悪魔(後編)
「サイノメさん。遊ばなぁい?」
「悪いな。間に合ってる」
「もう、つれないわねぇ」
甘ったるい声で客引きをする娼婦を、いつもの如く適当にかわす。
娼館が建ち並び、昼間なのに薄暗い路地裏を、黙々と歩き続けた。
鼻に付く香水の匂いを纏わせ、胸元を大きく開けた娼婦達が、卑猥な笑みを浮かべて通りすがりの男達を誘う。
この街に来たばかりなのか、だらしない笑みを浮かべた若い男が、娼婦と腕を組んで娼館に入って行く。
『奈落の底』と呼ばれる犯罪者の溜まり場の街に住む女が、表の連中のように甘いわけがない。
大抵が詐欺や何かの犯罪を犯して、ここへ逃げて来た連中だ。
搾り取るだけ搾り取られて、気づけばそこに転がる奴らと同じ末路を辿るだろう。
「……」
地べたに腰を下ろし、抜け殻のように生気のない表情で、娼館を見つめる男を見下ろす。
娼館から出て来た、大柄で強面の男がこちらに近づいて来る。
「あっ、サイノメさん。すんません、すぐにどけるんで。おい、邪魔だ! 払う金もないのに、店の前をうろつくんじゃねぇよ」
俺に何度も頭を下げながら、用心棒の大男が浮浪者の腕を掴んで、力尽くでその場をどかせようとする。
その様子に興味を無くした俺は、その場を足早に立ち去った。
手管に長けた女郎蜘蛛から抜け出すか、アイツのような末路を辿るのかはさっきの男次第だが、俺には関係のない話だ。
娼館の建ち並ぶ裏通りをようやく抜け、闇市場へと入った。
地面に風呂敷を広げて、怪しげな風貌をした商人達が、気味の悪い笑みを浮かべながら商売をしている。
とある商人の傍には、魔装具らしき物が並べられているが、乾いた血糊がついたままだ。
「お客さん、安いよ~。今日一番の掘り出し物だよー。あっ、旦那様。おひとつ、どうですか?」
入手経路を隠す気もないようで、通り過ぎる人達に声を掛けている。
弟子のザヴァンが、屑の山賊共と魔狼の亜種を使って手に入れた装備も、おそらくこの辺りで売られてるのだろう。
「ヘッヘッヘッ。旦那様、良い物がありますよぉ~」
闇市場を通り過ぎようとした所で、別の商人に声を掛けられた。
俺の道を塞ぐよう前に立ち、手に持った商品を次々と進めて来る。
「興味ないな」
「あっ、それでしたら。これ何かは、どうでしょうか? 今朝取れたばかりの一級品で、旦那様の様な腕利きの用心棒には、是非お勧めのお品でしてねぇ」
「……」
背後から奇妙な気配を感じて、素早く後ろへ手を回した。
「あっ」と言う驚いた声と同時に、後ろにいた男の手首を掴んで捻る。
「イテテテテ!」
「盗む相手を間違えたな」
探索職業が狩人なのか、気配を消して忍び寄って、俺の懐から財布を盗むつもりだったのだろう。
「次はもっと上手い奴と、手を組むんだな」
若い男の腕を放してやると、俺に商品を進めて来た商人へと顔を移す。
商人が青ざめた表情を見せると、苦悶の表情で手首をさする若い男と一緒に、路地裏へと消えていった。
俺以外の連中だったら、腕を斬り落とされていただろうから、まだ運が良かったかもしれんな。
「またヘマをして。明日の朝には、路地裏に転がってるかもしれんがな」
この街に、表の世界のような法律はない。
犯罪者を取り締まってくれるような、迷宮騎士団がうろついているわけでもない。
自分の身は自分で守り、信じるのは己のみ。
カモにするのは分が悪いと思ったのか、先程まで俺に纏わりついていた視線が、消えていくのが分かった。
しばらく来ないうちに、新入りがまた増えたみたいだな。
闇市場を抜けて、目的の場所へと辿り着く。
『古本屋』と書かれた、ボロい看板の建物へ入る。
壊れかけの扉を開けると、煙草をふかしていた老人と目が合う。
細長い煙管の吸い口を咥えた老人が、俺を見て笑みを浮かべた。
「フェッフェッフェッ。珍しい客が来たのぉ。一年振りかのぉ?」
「もうボケたのか、老師。一ヶ月ぶりだ」
「そうじゃったかのぉ。フェッフェッフェッ」
読んでいた分厚い本を机の上に置くと、座っていた椅子から腰を上げる。
茶を淹れようとしてるのか、義足の右足を引き摺りながら、ぎこちない動きで歩いて行く。
「サイノメ。良い毒が手に入ったんじゃ。どうじゃ、試してみるか?」
「いらねぇよ」
怪しげな小瓶を楽しそうに振りながら、それを茶に淹れるような素ぶり見せた老師。
それを、適当にあしらいながら『魔導書』と表紙に書かれた本を見下ろす。
「老師。この本はどうした」
「おお。この前うちに来た魔導士が、親切にも置いて行ってくれたものじゃよ。フェッフェッフェッ」
「親切ね……」
適当に本を観察すると、渇いた血糊が付いている事に気づいた。
どう見ても、曰くつきの本だな。
日本茶の入った湯呑が、俺の前に置かれる。
「元宮廷魔導士とか言っておったが、昔に比べると最近の若い連中は、随分と腕が落ちとるのぉ」
「老師に喧嘩を売って、生き残れる連中の方が少ないだろう」
老師の腰に提げた刀がただの飾りでない事は、この街に長く住んでる連中にはよく知られた話だ。
街の者達からは『狂人シフ』と恐れられ、普段からとち狂ったような言動が目立つボケ老人とは裏腹に、居合術に関して右に出る者はいないと言われた剣豪の一人だからな。
この古本屋には、値段がつけられないような魔導書がゴロゴロと転がってるから、恐らくその噂を聞きつけた新入りが、老師から本を奪おうとして返り討ちにあったのだろう。
魔法を専門にしない俺には大した興味のない本ばかりだが、その道の連中からすれば宝の山にも見えるからな。
「読みたい本があると言うから、1000万セシリルで読ませてやろうと言ったら、いきなり襲い掛かって来たのじゃよ。こんなか弱い老人に、大勢で寄ってたかって襲ってくるとは、恐ろしい話じゃよ」
「それは返り討ちにする。どこぞのボケ老人の方が、俺はよっぽど恐ろしいと思うがな」
「フェッフェッフェッ。本当じゃのぉ。それで、今日はどうしたのじゃ?」
「借りた金を返しに来たんだ。久しぶりに、大きな仕事が入ってな」
闇ギルドから手に入れた、誰の物か分からないギルドカードを投げる。
今の俺には使い道が無い品だが、大金を持ち運ぶのは便利だからと、持ち歩いていたギルドカードだ。
ギルドカードには手をつけず、老師が呆れたような顔で俺を見る。
「律儀な奴じゃのぉ。ワシに弟子入りした奴で、真面目に金を払いに来たやつなぞ、お前が初めてじゃわい」
「老師に借りた金を踏み倒すとは、なかかか度胸のある連中じゃないか」
「まったく恩知らずな奴らじゃわい。死体になった奴からは、金を搾り取れないからのぉ。フェッフェッフェッ」
「そうだな……」
裏の世界で、長生きできる奴の方が少ないだろう。
大抵は身の丈に合わないことをして死ぬか、よくて迷宮騎士団に捕まって、奴隷として死ぬまで重労働を課せられるかのどちらかだ。
「お前も、随分と有名になったもんじゃのぉ」
「そうか? 大した事はしてないと思うがな。老師の教えがよかったのだろう」
「そうじゃろ、そうじゃろ。フェッフェッフェッ」
サクラ聖教国製の煙草をふかして、楽しそうに笑う老師を見つめながら、昔の事を思い出す。
目を閉じれば、あの忌々しい事件がすぐさま脳裏に浮かび、古傷の右目が疼く。
今なおはっきりと、あの紅い悪魔の高笑いが耳に残っている。
『紅豹鬼』と呼ばれた、化け物女の笑い声が……。
「ニャハハハハ!」
闇ギルトから依頼された護衛任務の最中に、仲間の凶賊達と運悪く奴らに遭遇したのが、あの日だった。
上級者迷宮に棲む竜達が大暴れした後のような、見るも無残な光景。
理不尽な暴力に倒れた、物言わぬ骸達の中心で楽しそうに笑う豹人の女。
燃えるような紅い髪と、爛々と輝く2つの紅い眼。
全身を返り血で真っ赤に染め、当時は最強とも言われた凶賊の組織を、一夜にして壊滅させた獣人。
『紅豹鬼』の名にふさわしい、獣人の皮を被った化け物。
たまたまその場にいた俺は、その光景を震えながら見つめることしかできなかった。
「エンジェ。コイツら、弱すぎだにゃー」
俺から素手で奪い取った剣を乱暴に放り投げると、近くにいたもう一人の獣人に声を掛ける。
「確かに、それには同意せざるを得ませんね。珍しく、お師匠様からの特別な任務と聞いてましたので、少しは期待してたのですが……。これなら、本国にいる者達を相手に、訓練した方がマシでしたね」
「ヒッ!」
黒い忍装束を来たもう一人の豹人と目が合い、思わず小さな悲鳴を漏らしてしまう。
苦無と呼ばれる短剣の先には、新鮮な赤い血が塗られている。
俺の右目を奪った獣人に近寄られて、今なお血を流す右目を手で抑えながら、慌てて後ろに下がろうとする。
しかし、後ろにはすぐ壁が有り、退路を塞がれた俺の前に来た黒い忍装束の獣人が、苦無を振り下ろした。
「モモイ様から、伝言です。闇ギルドに伝えなさい。二度目はないと」
失禁してる事も忘れて、その場を立ち去る化け物達の背中を見送る。
俺の目の前には、地面に刺さった1本の苦無。
一目見て業物と分かる苦無には、奴らと出会った日付と『エンジェ=シバサクラ』の名が刻まれていた。
たまたま俺は、生かされただけだ。
闇ギルドに事を伝えるための生き証人として。
事の全てを報告してからの闇ギルドの対応は、不気味なくらいに早いものだった。
稼ぎが良いからと、ヴァルディア教会から依頼されて、闇ギルドが取り仕切っていた人身売買は、すぐ取りやめになったと聞く。
以降、ヴァルディア教会の幹部連中からいくら大金を積まれても、闇ギルドは仲介役を一切受け付けなくなったらしい。
「……」
闇ギルドへの報告を済ませてから、俺はこの街で生気の抜けた、抜け殻のような生活をしていた。
昼間でも薄暗い路地裏で、壁に背を預けて何をするでもなく、地面に転がる苦無を見つめ続ける日々。
若い頃から下手に剣術の才能があったせいで、驕り高ぶっていたのもあるだろうが、あの化け物共に全てを正面から叩き潰されて、完全に心が折れてしまった。
これからどんなに努力しようとも、あんな化け物共に俺が叶うわけがない。
そんな事を、毎日のように考えていた。
「坊主。こんなとこにいると、風邪をひくぞ」
「……」
声を掛けられて思わず顔を上げると、初めて雨が降ってることに気づいた。
雨が降りしきる中、番傘と呼ばれる竹と和紙を組み合わせた、サクラ聖教国製の傘を差した老人。
義足の老人が腰を下すと、地面に転がる苦無を興味深そうな顔で眺めている。
「ふむ……。珍しいモノを、持っておるのぉ……。これは……。お主、どこでこれを?」
「見つけたぞ、シフ」
「なんじゃ、お主らは?」
腰を上げた老人を取り囲む武術者達。
見覚えのある凶賊も何人かいる。
碌でもない連中なのは、間違いなかった。
男達が避けてできた道から、魔導士の格好をした青年が歩み出て来る。
老人の脇に抱えた魔導書に、青年の視線が移ると、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「探しましたよ、シフ。それが、例の魔導書ですね? それをどうやって手に入れたかは知りませんが、それを私に譲って欲しいのです。もちろん、タダでとは言いませんよ」
「ようやく、親玉の登場かのぉ。お前の手下共に、しつこくつきまとわれて、流石に面倒だと思ってた頃じゃわい」
「部下達の非礼は、私が代わりに謝ります。荒事を得意とする者達なので、少々気が短い所がありまして」
青年魔導士が、頬を指でかきながら苦笑する。
「気が短いどころか、夜道を背後からいきなり襲う連中に、まともな交渉ができるとは思えんがのぉ。古狸が雲隠れしてから、ヴァルディア教会も随分と腐敗したのぉ。どうせお主も、馬鹿な宰相達に取り入る為に、この魔導書を欲しておるのじゃろ?」
「こちらの事情を知ってるのなら、なおさら御協力をして頂けると、助かるのですが……。言い値で買いましょう」
「フェッフェッフェッ。最初から払う気もないくせに、よく言うわい。周りにいる者から、殺気が漏れておるぞ」
老人の言葉に青年の笑みが固まり、頬をかいていた手が止まった。
脇に持っていた魔導書を胸元に移動させると、老人が楽しげに笑う。
「そんなに欲しいのなら、くれてやるわい。ほれっ」
無造作に老人が放り投げた魔導書に、周りの者達の視線が上がる。
青年が両手を広げ、慌てて宙に舞った魔導書を受け止めた。
「あっ……」
いつの間に投げられたのか、青年の喉元には苦無が深々と刺さっていた。
呆けたような表情で、魔導書を抱きしめたまま、魔導士の青年が膝から崩れ落ちる。
「き、貴様ぁ!」
慌てた様子で我に返った取り巻きの連中が、義足の老人に襲い掛かった。
次々と俺の周りに、血の雨が降り注ぐ。
いつの間に腰の鞘から抜かれたのか分からぬ刀の刃が、目にもの止まらぬ速さで相手を斬り裂いていく。
「……」
宙に散る赤い桜吹雪に、思わず俺は我を忘れて、見とれてしまっていた。
凶賊でも、これ程までの剣豪がいただろうか?
俺の目指すべき剣豪が、まさかこんな所にいたとは……。
これ程の武術者なら、もしかしたら奴らにも。
その場から一歩も動くことなく、腕のたつ用心棒達を血溜まりに沈めると、老人が刃を鞘に収める。
「フェッフェッフェッ。か弱い老人一人に、無礼な奴らじゃわい。坊主も、そう思わんか?」
地面に落とした傘を、老人が拾おうとする。
気付けば俺は、無意識のうちに傘を拾い、老人に手渡していた。
「爺さん。その剣術を、どこで覚えたんだ?」
「ほぅ。急に元気なったのぉ」
「爺さん。教えてくれ! その武術はどこで」
「フェッフェッフェッ。まあ、暇潰しに教えてやらんこともないが、まずはそいつの持ってる魔導書を取り上げてくれ。一応、それは預かり物でな……。それにしてもこれは、随分と良い仕事をしておるのぉ」
俺が置いていた苦無をいつの間にか手に取り、まじまじと見つめながら、老人が先へ行こうとする。
慌てて魔導士の青年から魔導書を取り上げると、俺も老人の後を追った。
アレが、シフとの初めての出会いだったな……。
「どうした、サイノメ。気味の悪い笑みを浮かべて」
物思いに耽っていた俺を、老師が煙草を吹かしながら見つめていた。
「ん? 老師と初めて会った事を、思い出してな」
「フェッフェッフェッ。そういえば、あの日も……雨が降っておったのぉ」
煙草盆に煙管の灰を落とすと、窓へと視線を動かした。
老師の視線を追うようにして、いつの間にか降り始めていた雨を、窓から眺める。
「雨は嫌いじゃのぉ……。昔を思い出して、古傷が疼く」
そう言って老師が、義足のついた膝を手で摩る。
老師も昔、迷宮で凶賊として暴れていた頃に、『黒い悪魔』と呼ぶ何者かに襲撃されて、片足を失ったらしい。
『黒い悪魔』と言えば、迷宮で罪を犯した者の前に現れる、都市伝説ならぬ迷宮伝説のような賞金稼ぎだ。
そいつにあったら最後、恐怖と絶望を与えられ、二度と迷宮に潜れぬ身体にされるという。
まあ、子供が迷宮で悪さをしないように、親から教えられる定番のお伽話だがな。
老師は多くを語らぬが、相手が魔物でなく獣人であったのは間違いない。
しかし、全盛期は竜すらも恐れなかった老師を倒した獣人がいるってのが、俺には信じがたい話だが。
俺からすれば、噂でしかない迷宮伝説よりも、実際に遭遇した『紅豹鬼』と出会う方が、よっぽど怖いな。
「……」
昔を思い出してか、俺の右目も妙に疼くような気がする。
やはり、この雨が原因かもしれんな。
止まぬ雨を窓越しに眺めながら、再び昔を思い出す。
片目を失ったことで、俺は剣の道が完全に閉ざされたと思っていた。
だが、目の前にいる老人は片足を失ってもなお、一流の剣豪としてその高みを生き続けている。
視覚に頼らない剣術があると老師から聞いた時は、小さな光明が差した気分がした。
老師のもとで、徐々に気力を取り戻しながら、再び剣術の道を歩んだ。
今ではそこそこ名の知れた凶賊になったが、俺の目指すべき剣術の完成形には、いまだ到達していない。
不意に壁に掛けられた時計が目に入り、約束の時間が近いことに気づく。
「すまんが老師、人と会う約束をしていてな。今日はここいらで、おいとまさせてもらうぞ」
「なんじゃい。もういくのかい。忙しない奴じゃのぉ」
「今やってる仕事が終われば、少しはゆっくりするつもりだ」
席を立つと老師に別れを告げ、店を後にしようとする。
「サイノメ。傘を持っていけ」
「いや、いい。老師に借りを作ると、高くつくからな」
「……サイノメ。その仕事は、やめておけ」
「……?」
いつもと違う声色に、思わず後ろへ振り返る。
視線の先にはおどけて笑うのではなく、普段と違う真剣な表情で、俺を見つめる老師がいた。
「ヴァルディア教会の連中も、もう終わりじゃ。奴らは少々、派手にやり過ぎた。今のうちに、手を引いておけ。貧乏くじを引く前にな」
俺の仕事がヴァルディア教会の依頼だと言うことは、既に気づかれていたか。
だが、それよりも……。
「俺が死ぬとでも言いたいのか、老師」
「……」
煙草を吹かしながら、老師が無言で俺を見つめ続ける。
老師は下手な情報屋よりも、闇の世界に精通していた。
含みのある言い方をする時は、おそらく俺の知らない情報を、何か掴んでいるんだろうが……。
「フッ……。いつも死と隣り合わせなのが、凶賊の仕事だ。それに俺は……奴らに借りを返すまでは、まだ死ねん」
「そうか……。それがお前の進むべき道なら、ワシは止める事はできんのぉ。次は、いつ会えるかのぉ……」
どこか寂しげな笑みを浮かべる老師に、妙な違和感を覚えながらも、約束の時間に遅れるからとその場を立ち去ろうとする。
「老師……。この前、良い茶葉を見つけたんだ。今度は、ゆっくり茶でも飲みながら、昔話でもしよう。じゃあな」
「……さよならじゃ。サイノメ」
濡れないように外装を頭から羽織ると、雨の中を小走りに駆け抜けた。
* * *
「……」
あまりの長い時間に、また思考がいつの間にか飛躍していたことに気づく。
自ら視界を閉ざした事で、何も聞こえぬ真っ暗闇の世界だけが、俺の周りに広がっている。
他の武術者であれば、戦闘中に目を瞑り物思いに耽るなど、致命的な攻撃の隙を作っているようなものだ。
だが、今の俺は長い訓練の末に、敵が間合いに入れば無意識のうちに相手を斬り裂ける程に、居合切りの感覚が身体に染みついている。
むしろ、わざと隙を見せる事で相手を誘う時もあるが、今回の相手は一筋縄ではいかないようだ。
視覚を閉ざしたことで、それ以外の研ぎ澄まされた感覚が、遠くにいる狐人の位置を白い人型の霧として映し出している。
既に戦意を失った仲間達は、今にも消えそうな薄い霧のような形でしか見る事ができない。
右目を失った事が切っ掛けなのか、「目を閉じた時に、老師が薄く白い霧として見える」と話した時には、酷く驚かれたものだ。
ここまではっきりと人型を捉えれるようになるまでは、気の遠くなるような厳しい訓練をしたが……。
しかし、肝心の奴の気配が全くしない。
視界で捉えれる範囲にいる生き物なら、間違いなく見つけれる俺の感覚が、ここにいるもう1人の獣人を捉えきれずにいた。
こんな事は、初めての経験だ。
まるで幽霊を相手してるかのような、この世から存在を消したかと思うような、異常な気配の消し方だ。
本気を出したという事だろうが、どれ程の研鑽を積めば、これ程の技術を身につけられるのやら。
だが、奴は間違いなく、近くにいるはずだ。
相手の気配を捉えられない事に、焦る己の感情を抑え込みながら、いつものようにその時を静かに待つ。
「……ッ!」
握った刀が無意識のうちに鞘から抜かれ、相手を斬り裂こうとする。
手元に感じた手応えと、何度聞いたか分からない金属音。
目を開けた先には、黒い忍装束を着た賞金稼ぎが、静かに俺を見つめていた。
先程の金属音は、逆手に持った苦無で弾いた音だろう。
『ふむ。まだ、諦めてはいないようですね』
「……」
俺には分からぬ言葉で、猫族の賞金稼ぎが何かを呟く。
赤く光る右目に見つめられて、俺の頬を汗が流れ落ちた。
相手の動きを、一瞬たりとも見逃さないように集中しながら、刃を鞘へと静かに仕舞う。
再び俺が居合切りの構えを作ると、それを待っていたかのように、賞金稼ぎが足音をたてず歩を進める。
円を描くように、ゆっくりと俺の周りを歩く。
俺の刀が届かない、ギリギリの範囲で。
『……』
「フー……」
静かに息を吐く。
何度目か分からない、俺と賞金稼ぎの睨み合いがまた始まった。
息の詰まる様な攻防が始まってから、どれくらいの時間が経ったのだろうか……。
キメラとの一騎打ちをした時を超えているのは、間違いない。
相手が俺の間合いに入れない以上、後はどちらの集中力が先に切れるかの勝負だ。
これくらいの根競べで負ける程、俺の神経はやわでは無い。
呼吸を整えながら、いつもの感覚に戻る為に、目を再び閉じようとする。
『何か隠し玉があるのかと思って、様子見をしてましたが……。どうやらここが、あなたの限界のようですね。では、そろそろ終わらせましょう』
「ッ!?」
隠す気も無い殺気を突然に放たれて、目を見開く。
すると、俺の正面に立っていた賞金稼ぎが、不用心に1歩前へ踏み込んだ。
初めて耳に入った、賞金稼ぎの土を強く踏む足音。
それと同時に、間合いに入られた事で、当然のように反応した俺の身体が、鞘から刃を抜き放つ。
横薙ぎに振り抜いた刃の先から、激しい金属音が聞こえた。
『……』
「……」
今までと同じように弾くだけかと思えば、逆手に持った苦無で、俺の刀をしっかりと受け止めていた。
何となく予想はしていたとはいえ、俺の居合切りが完全に見切られていた事実に、大きな衝撃を受ける。
今度は力比べという事か……。
負けてなるものかと力を込めると、相手の瞳が縦長に変化した。
『……』
「グゥッ……」
やはり力も、コイツの方が上か。
相手の苦無が、俺の刀をゆっくりと反対側に動かしていく。
片手で持っていた刀を、慌てて両手に持ち変えたが、拮抗するどころか押し負けてしまっていた。
まるで牛人の闘牛士と力比べをしてるような感覚に、もはや渇いた笑いしかでてこない。
こんな小さな身体に、なぜこれ程の力が……。
『……』
「……ッ!」
黒い忍装束の獣人が、更に前へと踏み込んで来た。
相手の苦無が刃の上を滑ると、互いの刃先が触れた部分から、小さな火花が飛び散る。
手の届く範囲まで近づくと、賞金稼ぎの縦長の瞳が俺を見上げた。
『これで、終わりです』
黒い忍装束の獣人が、異国の言葉をポツリと呟くと、強烈な殺気が放たれる。
刀を仕舞う事もできず、相手の近づく様子を見守ることしかできない状況に、自分の死を覚悟した。
『お師匠様からの特別な任務と聞いてましたので、少しは期待してたのですがね……』
まるで期待を裏切られたような、その目が……。
あの時に会った、黒い忍装束の獣人と重なる。
失望。
『エンジェ=シバサクラ』の顔とその言葉が脳裏によぎった瞬間、俺の中にあった恐怖が憤怒へと変わった。
口内に鉄の味がする程に歯を食いしばると、片腕を刀から離して素早く懐に入れる。
懐から例の苦無を取りだすと、それを横薙ぎに振るった。
『ッ!?』
なぜか予想以上の驚いた反応をして、賞金稼ぎが大きく身を逸らす。
好機!
その場から離れるように、全力で走る。
セングが弄っていた荷物袋から、離れた所に転がる小瓶が目に留まり、素早く拾った。
「ここで、剣の道を終わらせるくらいなら……」
今なら、あの時のセングの気持ちも理解できる。
逡巡は一瞬だった。
赤い液体の入った小瓶の蓋を開けると、口を開けて一気に飲み干す。
口の中から、鼻へと鉄臭い匂いが充満する。
正に、血の味だ。
赤い液体が喉を通り、胃の中へと入って行く。
「グウゥ!?」
火傷するような、あまりの熱さに、思わず喉を手で押さえた。
それだけでなく、体中がどんどん熱くなる……。
血が沸騰してるかのように、身体が燃えてるかと錯覚する程に、身体が熱い!
心臓が破裂するような、胸の苦しさに耐え切れず、思わず胸元を掴む。
身体の中で何かが暴れまわる感覚に、膝を折りそうになりながらも、歯を食いしばって踏ん張る。
「グォオオオオオオ!」
身体を仰け反り、思わず獣のような咆哮を上げてしまう。
視界が、血のように赤く染まった。
「フゥー……フゥー……」
ゆっくりとだが、赤く染まった視界が霞んでいく。
手元を見ると、腕から赤い霧のような物がでていた。
まるで、俺の身体が燃えてるみたいだ。
「これが、夜叉の血か」
体内に熱を帯びた感覚と、身体の奥から際限なくみなぎる力。
右目に違和感を覚え、眼帯に触れる。
「フフフ……クククッ!」
眼帯を外すと、更に視界が広がった。
昔に比べれば視力は酷く落ちているが、ぼんやりと周りを見渡す事ができた。
持っていた刀を握りしめると、その場で素振りを始める。
「これは、凄いな」
羽のように軽くなった身体。
それでいて、風を切る音が今までとは比べものにならない。
この身に感じる異常なまでの身体能力の向上。
今の俺なら、奴らにも……。
「だが、その前に」
本来の倒すべき相手に身体を向け、一気に駆け出した。
まるで風になったかのような速さで、目的の人物へと最接近する。
『……』
瞑想をしてるのか、瞼を閉じて静かに立つ、黒い忍装束の賞金稼ぎ。
今のこの速さなら、コイツの首を跳ねるのも容易いだろう。
「終わりだ、賞金稼ぎ」
流石の賞金稼ぎも反応できないようで、あっという間に距離を詰めた。
手の届く距離まで近づくと、刃を横薙ぎに振るおうと構える。
『やはり、その小瓶に入ってたものは』
突然、両瞼が開かれた。
まるで俺の接近を予期していたように、血のように紅い2つの眼が、俺を見据える。
『夜叉の血を覚醒させるための薬、だったのですね?』
「なっ!?」
強烈な殺気と同時に、目の前に巨大な火柱が上った。
身の危険を感じて、その場から慌てて飛び退いたが、思った程の熱を感じず首を傾げる。
本物の火ではないのか?
火傷の後が見えぬ手元に、疑問を抱きながら視線を上げた。
燃え盛る巨大な炎が四散すると、見覚えのある獣人が再び現れる。
『なるほど。ようやく合点がいきました……。貴方だったのですね。お師匠様が、私と戦わせたかった相手は』
思わず唾を飲み込む。
なんという気迫だ。
全身に無数の針を突き刺されたような殺気。
まるで、竜と対峙してるかと錯覚するような……。
『禁薬の力を借りたとはいえ、人の身でありながら、夜叉の血の完全解放に成功できる者がいたとは、驚きですね』
賞金稼ぎの身体には、俺と同じように炎が纏ったかのような、赤い濃霧が見える。
これは、夜叉の血に覚醒した者にのみ見せる幻なのか?
黒衣の賞金稼ぎが不意に目出し帽を外すと、思っていたより幼い顔が現れた。
端正な顔立ちの少女が、嬉しそうに微笑む。
異国の言葉故に理解はできぬが、その表情から先程までとは違う感情が読み取れた。
歓喜。
一目見てわかる。
俺と同じ、強者を求む武術者の顔だ。
『レイナ。これより、一切の瞬きを禁じます。括目して、全てを見届けなさい』
『はい、お姉様!』
離れた所にいた狐人が、元気よく奇声を発した。
黒い猫族の少女が、逆手に持っていた苦無を持ち変える。
居合切りの構えを崩さぬまま、相手の動きを警戒していると、なぜか苦無を懐に仕舞った。
「……?」
『貴方の信念を折るために、私はあえてこの技を選びます』
何も手に持たぬ素手の状態で、賞金稼ぎが構えを作った。
見覚えのある構えに、思わず鼻で笑ってしまう。
舐められたものだな……。
居合切りの俺に対して、闘牛術で挑むだと?
無手でも愚かと思うぐらいなのに、殺気を剥き出しにして闘うその武術は、俺にとっては最も相性が良い相手だ。
夜叉の血に覚醒していない、先ほどまでの俺だったら、まだ奴にも勝機はあったかもしれんが。
「悪いが今の俺に、勝てる者はいない……。これは驕りではない、確信だ」
目を閉じずとも、全ての感覚が異常に鋭くなっているのが分かる。
例え死角から攻め込まれても、今の俺なら斬れぬものはない。
『アクゥア=ヤミサクラ、参る! いざ尋常に、勝負!』
「来い、賞金稼ぎ!」
愚かなその選択を後悔する間もなく、お前の命を断つ。
恐怖すら乗り越えた、今の俺こそが、最強の武術者だ!
小娘が駆け出すと、遠くから一直線に、俺へ向かって走って来る。
その動きに呼応するように、賞金稼ぎの身体を赤い霧状の炎が覆い始めた。
燃え盛る炎がみるみると大きくなり、賞金稼ぎの全身を包みこむ。
もはや賞金稼ぎの姿は見えない。
火竜が吐き出したような、巨大な火の玉が地面を這うようにして、こちらへ迫って来る。
本物の炎ではないはずだが、あの中に入ればただではすまない事は分かる。
奴を確実に屠る為に目を閉じ、神経を研ぎ澄ませた。
炎球の中に、白い人の形が揺らいでるのを確認し、柄を強く握りしめる。
「ここだァッ!」
俺の間合いへと飛び込んだ火の玉を、神速の如き速さで一刀両断した。
目の前に迫った炎が上下に割れ、霧のように四散する。
完璧だ……。
これ以上ない、完璧な一振りだ!
終に、完成した。
俺の……究極の居合切りが。
「クックックッ……」
思わず笑いが込み上げ、振り抜いた刃の先へと視線を動かす。
刀を抜く前と同じ、一切の鮮血が付いてない刃が目に入り、それを静かに見つめる。
『振りましたね?』
奴の声が、なぜか下から聞こえた。
視線をゆっくり下に落とす。
すると、血のように紅く光る2つの眼光が、俺を見上げていた。
姿勢を低くくした状態で、目の前にいる賞金稼ぎに、思わず語りかける。
「お前、何をした?」
『お師匠様から教わった技の1つに、気当てというものがあります。今のは、それを応用したもの。私も、夜叉の血を完全解放してすぐの時に、お師匠様にしてやられた技です。貴方の居合切りは、完璧でした……。私の放つ、殺意の塊を斬った事を除けば』
「……」
『我らヤミサクラ家は己の気を操り、相手に気取られることなく闇を歩く術を、重点的に鍛えます。気を消すことに長けてるのならば、気をあえて放出するのも得意とします。居合切りの熟練者とはいえ、初めて夜叉の血を完全解放すれば、鋭すぎる感覚に振り回されると思いましたが、案の定でしたね。夜叉の血を使うことができても、それを扱う為の訓練をしてなければ、無意味です。さて……』
異国の言葉だから言ってる意味はよく分からんが、一杯喰わされたのは間違いないようだ。
目の前の少女が俺を見上げ、背筋が凍り付くような微笑を浮かべる。
『貴方の信じる神への祈りは、すませましたか?』
賞金稼ぎの両目が大きく見開かれ、2つの真紅の眼が縦長に変化すると、強烈な殺気が目の前の少女から放たれた。
極限まで殺意を抑え込んでいたのか、先程までとは比べものにならない、巨大な炎の柱。
それが俺すらも飲み込み、視界全てが真紅に染まる。
「フッ。黒い悪魔か……」
底の見えない賞金稼ぎに、思わず乾いた笑いがでてしまった。
老師の語った昔話が、ふと脳裏によぎる。
刀を両手に持ち直し、正眼に構えた。
「今日は厄日だな」
もはや逃げるつもりもない。
いや、この化け物から、俺が逃げる事は不可能だろう。
それなら……。
賞金稼ぎが移動した様子がないので、おそらく奴の位置は変わってないはず。
相手が見えなくとも、奴が手の届く範囲にいるのは間違いない。
刀を振り上げると、燃え盛る炎の中へ向けて、迷うことなく刀を全力で振り下ろす。
「ウォオオオオオオ!」
咆哮する俺の刃は、予想通り空を斬った。
全身を炎に包まれた、黒衣の賞金稼ぎの顔が目の前にまで迫り、俺の胸に強烈な衝撃が走った。
奴の膝が俺の胸にめり込み、肋骨を砕いていく。
あまりの速さに、痛覚がついていけなくなってるのか、それとも俺の感覚がおかしくなってるのか。
やけに冷静な思考のまま、俺は宙を空高く舞う。
俺の身体が少女から離れていき、視界が天井へと移る。
あれは……。
視界に入ったものをすぐに理解できぬまま、俺は地面へと叩きつけられた。
地面を激しく転がり、ようやく身体が仰向けの状態で止まる。
「……」
見事なまでに、俺の完全敗北だな。
天井に広がる光景を見ながら、物思いに耽っていると足音が聞こえた。
黒衣の賞金稼ぎが、俺の方へ歩み寄って来る。
『勝負は、私の勝ちです』
「……」
俺のそばまで近づくと、黒衣の賞金稼ぎが俺を見下ろす。
腕を上げようとするが、思ったように力が入らず、震える手を見つめる。
妙に身体が重く感じ、力が抜けていくような奇妙な感覚だ。
「グッ、ゴフッ!」
砕けた骨が、内臓に突き刺さったせいだろう。
言葉を喋る事すらままらない程に、吐血をしてしまう。
『夜叉の血の完全解放は、器が完成されてない者には、諸刃の剣でしかありません。禁薬の力で、強引に肉体の限界を超えたとしても、それは一時的なものです。私が止めを刺すまでもなく、自ら器を壊した貴方の命は、そう長くはもたないでしょう』
夜叉の血が解放された時とは真逆で、急速に己の身体が衰えていくのを感じながら、懐へと手を伸ばす。
例のモノを懐からようやく取り出すが、手に力が入らず地面へと転がる。
重傷を負ってるのに、痛覚がえらく鈍くなってる時点で、妙な違和感をもっていたが。
おそらく、例の薬の副作用だろう。
ヴァルディア教会の腐った連中が、まともな物を寄越すはずがないからな。
まあ、そんな事だろうとは思ってたさ。
『これは……。先程の』
少女が苦無を手に取り、それを真剣な表情で観察していた。
『ふむ……。そういうことでしたか。見覚えのある苦無に疑問を持ってましたが、貴方がお師匠様の言っていた、例の凶賊なのですね?』
「……」
俺を見つめる少女から視線を外し、天井へと再び視線を移す。
地下なのに、まるで夜空に輝く満天の紅い星々に、思わず苦笑してしまう。
クックックッ……なるほどな。
万が一、コイツに勝てたとしても、最初から負け戦だったわけか……。
まったくヴァルディア教会の連中も、よりにもよってとんでもない化け物共に、喧嘩を売ってくれたな。
俺が見つめる先を、黒衣の少女も見上げる。
『本来、我がヤミサクラ家は、表の歴史に顔を出さぬ一族。神獣であるモモイ様の眷属として、サクラ聖教国を影より支える存在です。それ故に、この戦いも我ら一族の……記憶の中にのみ残ります』
「……」
視界がぼんやりと霞んでいく。
服を着てるはずなのに、身体が妙に寒い。
気付けば、指先の感覚が無くなっていた。
「サヨウナラ」
拙いヴァルディア語であったが、別れの言葉がはっきりと耳に入り、黒衣の少女がいる方向へと顔を動かす。
『できることなら……。貴方とは凶賊としてでなく、良き武術者として、手合わせを願いたかったです』
何を言ってるのかは分からないが、その言葉に悲しみを感じたのは、俺の気のせいだろうか?
視界も大きく歪み始め、去りゆく少女の背中を見送った。
その後、大量の黒い塊が落ちてくる。
落ちて来た連中は、俺への興味をなくしたのか、地面に転がる俺の横を素通りして行く。
耳も遠くなってきたのか、大勢の人が歩く足音が、徐々に小さくなってくる。
酷い病魔に蝕まれたように、指先だけでなく腕や足の感覚もなくなってきた。
死ぬ時は、もっと怖いもんだと思ってたんだがな……。
命の灯が燃え尽きようとしても、恐怖は感じない。
あるのは、今までにない満足感だけ。
悪党らしい最後だが、死ぬまでに己の本当の限界を知る事ができた。
それで充分だ。
凶賊という道を選んでまで、俺が本当に知りたかったのは、それだったんだからな。
老師でさえできなかった事を、俺は成し遂げたのだ。
人の身で夜叉の血を解放するのは無理だと言ってたが、どうやら物知りの老師にも間違いがあったようだな。
クックックッ……。
人の身で、夜叉の血を解放できたと知れば、老師も驚くだろうな。
惜しむらくは、その姿を見た老師が、悔しがる様子を見れなかった事だけだな。
ゆっくりと目を閉じる。
老師シフよ。
悪いが、先に逝かせてもらうぞ。
悪党が最後に行く先は、地獄が相場と決まってる。
次に会う時は、地獄でゆっくりと、酒でも酌み交わそう。
「……」
妙に眠気も強くなってきた。
どうやら死神のお迎えも近いらしい。
心臓の鼓動音すら聞こえない真っ暗闇の中で、その時を静かに待つ。
なあ、シフよ。
やっぱり、世界は……。
広か……た。




