義母再び
それでもその後、アリーシアは順調に回復しているように見えた。
グラントリーの屋敷に招かれざる客が来たのは、アリーシアが出歩くのにも支障がなくなってきた頃のことだった。
「約束もなしに押しかけられてきても困ります。改めて主人のいるときにお越しくださいませ」
「娘に会うのに約束がいりまして?」
突然やってきたのはアリーシアの義母と義姉だった。アリーシアの体調も回復し、ようやっとグラントリーが飛竜便の仕事に戻ったところを狙ったかのような来訪だ。
馬車で玄関まで乗り付けてきた二人は、玄関口でヨハンに阻まれていた。一見賑やかな雰囲気に、うっかり顔を出しそうになったアリーシアをエズメが慌てて止めた。
「アリーシア様は顔を合わせないほうがようございます」
エズメがそんなことを言ったのは王女の来訪以来のことで驚いたアリーシアだったが、来訪者の声を聴いて動きが固まった。
「私たちは王女殿下の勧めによって娘に会いに来たのです。私たちをないがしろにすることは殿下をないがしろにするのと同じですよ」
「奥様……」
この何年かずっと聞いていた声であり、二度と聞きたくない声でもあった。
「娘と言うなら、その娘に奥様と呼ばせているのはなんででしょうかね」
エズメの声は小さかったが、屋敷の使用人は皆同じ意見だったに違いない。二階の階段の近くにいたアリーシアには、ヨハンの落ち着いた声がよく聞こえてきた。
「ではうかがいましょう。アリーシア様にどのようなご用事でしょう」
「直接言うわ」
「では主のグラントリー様がいるときにまたおいでくださいませ」
慇懃に追い払おうとしている気配が感じられた。ほっとしたアリーシアだったが、おそらくアリーシアに聞かせようとした義姉のジェニファーの声に思わず階段を駆け下りそうになった。
「そのグラントリー様にかかわることだからわざわざ来てあげたのよ」
バーノン子爵家はアリーシアをグラントリーに差し出したことで、王家が勧めた縁談という義務を果たしたはずで、いまさらアリーシアとグラントリーにかかわる理由はないはずだ。だが、アリーシアはグラントリーにかかわるということをどうしても聞き逃せなかった。
「エズメ」
「いけません」
「でも、グラントリー様にかかわることなら、私、話を聞かないと」
エズメの制止を振り切ってアリーシアは階段を駆け下りた。そんなアリーシアの姿を見つけた義母はいつもアリーシアを見るときのように見下した表情を浮かべた。久しぶりに会った義母と義姉は、何も変わってはいなかった。
「あらアリーシア。元気そうね」
「奥様」
「まあ、なんてこと。いつものようにお義母様と呼んでくれていいのよ」
お義母様などと呼ばせたことは一度もなかったが、いまはそんなことを言ってもどうしようもない。
「グラントリー様にかかわることと言うのは何ですか」
「この家では客にお茶の一杯も出さないのかしら」
アリーシアの性急な問いに答えず、義母のハリエットはやれやれとばかりに肩をすくめた。
「ヨハン」
「アリーシア様」
いけませんよと言おうとして、ヨハンはそれを飲み込んだ。
「ただし私とエズメも付き添いますからね」
アリーシアにとっては願ってもない申し出である。
「では応接室にご案内いたします」
ヨハンはしぶしぶ招かれざる客を応接室に案内し、エズメはお茶の手配をした。
やがて応接室で、緊張の会談が始まった。椅子に座るアリーシアの後ろにエズメとヨハンが守るように立った。
「アリーシア、ずいぶん太ったのではなくて?」
義母がアリーシアをじろじろと眺めてそう言った。
「アリーシア様はやせすぎでしたからねえ。まるで満足に食事をとらせていないかと思いましたよ」
「そんな訳はないわ。それに、この家の使用人は礼儀がなっていないわね」
エズメは謝らないし、義母も引かない。かばってもらったことは嬉しかったが、アリーシアが代わりに頭を下げた。
「奥様、申し訳ありません。それはともかく、グラントリー様にかかわるというお話を聞かせてください」
頭を下げることなどどうということもない。それより、気になることを早く話して帰ってもらいたかった。
「仕方がないわね。アリーシア。この縁談は王女殿下がジェニファーを認めて勧めてくださったものだということは承知しているわね」
「はい」
その縁談を嫌がって拒否したのはジェニファーだということは、義母の中で自分たちに都合よく書き換えられているのだろう。
「バーノン家の令嬢をということで、あなたがジェニファーの代わりに婚約者となったわけですが、その必要がなくなりました」
その必要がなくなったとはどういうことだろうか。まさか、オリバー一筋のジェニファーが心変わりをしたというのか。アリーシアはジェニファーのほうに目をやったが、ジェニファーは平然とした顔をしているから、そうではないのだろう。
「あなた、背中に怪我をしたそうね」
「お見舞いもいただきませんでしたが、どこからそのことをお聞きになりました」
ヨハンがすかさず口を挟んだ。
「王女殿下から直接うかがったわ」
ハリエットは自慢そうに顎をそらした。アリーシアの後ろでヨハンとエズメが顔を見合わせた。アリーシアも不思議に思った。バーノン家は子爵家である。貴族とはいえ、気軽に王族と話ができるような立場ではなかったはずだ。
「ひどく醜い傷だそうね」
エズメが何か言い返しそうになったが、またアリーシアを謝らせることになると思ったのか、結局我慢したのが感じられた。
「王女殿下はグラントリー様に幼い頃から兄のように遊んでもらったそうよ。だからこそ縁談がないのを心配して、うちのジェニファーに話が来たらしいのだけれど」
義母は楽しそうに口の両端を上げた。
「醜い傷のある娘を、グラントリー様に勧めたくはないのですって。もうバーノン家との縁談は気にしなくていいとおっしゃったわ。断っても何のおとがめもないそうよ」
あまりの言い草に、誰も何も言えなかった。アリーシアに傷がついたのはいったい誰のせいなのか。王女をかばったからできた傷ではないかと、エズメとヨハンは思ったに違いない。
だがアリーシアはすとんと納得してしまった。もともと身分差のある縁談だった。ジェニファーがグラントリーを怖がるから、バーノン家の予備の娘としてここに来たが、その必要がなくなったらここにいる理由がない。
アリーシアはそっと肩に手をやった。背中の傷はまだ少し痛む。エズメは一文字に跡が残ると言った。傷のある娘。アリーシアは、これからそう言われ続けることになるのだ。
「王女殿下をかばったためにできた傷でございます。その恩をこのような形で返すとは……」
ついにヨハンが怒りを口に出した。
「あら、王家からのお詫びの礼金はバーノン子爵家にもう来ていますよ。アリーシアはまだバーノン家の娘ですからね。殿下に文句を言うのは筋違いよ。それに」
義母は口の端をゆがめ、とても貴婦人とは思えないような顔で笑った。
「殿下のおっしゃっているのは、竜の傷ではないわ。それよりずっと醜い傷がそれはもうたくさんあるそうね。私たちは見たことはないけれど」
「それは!」
あなたがたがやった事でしょうとエズメは言おうとしたに違いない。だが、違うと否定されればそれまでだ。
「お父様も戻って来いとおっしゃっているわ。アリーシアには裕福な商人との縁談を考えるそうよ。お前にはそのくらいがちょうどいいわ。それまでの間くらい、うちで面倒を見てもかまいません」
ハリエットはそう言うと立ち上がり、小さなかばんから何かを取り出し、アリーシアのほうに放り投げた。とっさによけたそれは、床に転がりくるくると回って止まった。たった一枚の銀貨だった。
「それで辻馬車でも拾って帰ってくるといいわ。ジェニファー。帰るわよ」
「はい」
ついてきた割にはほとんど何も言わなかったジェニファーがやっと口を開いたと思えばそれだけである。先に部屋を出た義母に続こうとしたが、ジェニファーは一度立ち止まると、体半分だけ振り向いた。
「戻ってこないで」
小さな声だった。
「お前をオリバー様に会わせたくないの。お母様はああいったけど、アリーシア。二度と帰ってこないで」
目も合わせずにそれだけ言い捨てると、ジェニファーはさっとドアを開けて出ていった。




