過去
すみません、昨日と投稿の順番が逆でした。
入れ替えてあるので、昨日の投稿からお読みいただければと思います。
混乱させて申し訳ありません!
「アリーシア自身が母親のことを何も聞いていないらしいんだ。近所で調べてみても、やはり何もわからない。あんた、アリーシアのところに診察に行ってたんなら、何か知っていることはないか」
「その前に、アリーシアが父親のもとで幸せだったかどうかを教えてくれ」
医者はグラントリーをまっすぐに見た。その目は、アリーシアのことを心から気にかけている目だとグラントリーは判断した。そして、首を横に振った。
「やっぱりな。あの野郎、セシリアの死に際に頼まれたことを無視しやがって……」
医者が悔しそうに膝の上でこぶしを握った。
「今回、元はアリーシアの姉との縁談だったが、妹のアリーシアのほうをあの家からは引き離さなければと、思わず行動してしまうほどに不遇だったと思う」
グラントリーは正直に話した。
「なら、アリーシアを幸せにしてくれる気はあるんだな」
「もちろんだ」
そこでやっと力を抜いて話し始めた。
「あの子に呼ばれて母親を見に行ったのがおそらく母親が亡くなる半年ほど前のことだと思う。弱って寝ついていたが、何かの病気というわけではなく、強いて言うなら気候が合わなかったのと、無気力、と診断した」
「無気力、とは?」
グラントリーはいぶかしげに聞き返した。
「言葉通りさ。生きる気力がなかった。暑さに弱いらしく、食欲がないまま痩せてしまったが、希望があればまた食欲も戻っただろう。だが、最愛の旦那が一年以上会いに来ない、しかも生活費も来なくなったらしくて、もう捨てられたと思ったんだろうな」
医者は肩をすくめた。
「娘のために頑張れと励ましたが、よほどあの旦那が大事だったらしくてな。そうそう診察代も用意できるものではないが、アリーシアは頑張って用意して、ちょくちょく呼びに来た。そのたびに家の中の物は減っていき、あの子の腕は細くなっていった。俺を呼ぶより、そのお金で少しでも母親と自分が食事したほうがいいと言ったんだが」
グラントリーはその話を聞いて喉の奥が詰まるような気がした。なんのことはない、あの子爵家に行く前から、アリーシアが我慢する生活は始まっていたのだ。
「すまないが、母親についてはアルトロフ出身だということ以外はまったく知らないんだ。ものすごい上品な人で、本国では貴族か相当のお嬢様だったんだろうなということは感じたが」
「その情報はかなり価値がある。つまり、しぐさや話し方か?」
「ああ。ゆっくり丁寧で、少し癖のあるセイクタッド語を話す。穏やかでしとやか。自然に敬語が出てくるような人だったよ」
グラントリーとライナーは顔を見合わせて頷いた。
「旦那のほうはどうなんだ?」
「旦那か。ハロルド・バーノン。子爵」
医者は吐き捨てるように言った。
「俺は最後の瞬間に立ち会っただけだ。苦しんでいるから何とかしろと引っ張り出されて、普通なら断るところだが、患者がセシリアときたら行かないわけにはいかないだろ。俺の患者なんだし」
町で貴族相手ではない医者をやっているということは、そもそも貴族によい印象を持っていないのだろう。
「セシリアは衰弱してもう命の火が消えそうだった。それなのに旦那が帰ってきて嬉しそうに微笑んで。旦那は旦那で、衰弱して見る影もないセシリアをそれは大事そうに抱きかかえて。まるで仲のいい恋人同士のようだったよ。それならなんで二年も金を渡さずに放っておいた?」
その問いには誰も答えられなかった。
「その時アリーシアが帰って来たのさ。嬉しそうに、銀貨と飴を握りしめてな」
医者は自分のこぶしをじっと見つめた。
「その時、あいつが何をしたかわかるか? 久しぶりに再会した娘が母に駆け寄ろうとするのを突き飛ばしたんだぞ。アリーシアは部屋に転がって、その拍子に銀貨と色とりどりの飴が床に広がってな」
「それはアリーシアが働いた駄賃として、俺が渡した銀貨に違いない」
「そして私が気まぐれで分けてやった飴か」
グラントリーはポケットからさっきつかみきれなかった飴を取り出した。医者は眉を上げた。
「そうだ。それだった。そんなきれいな包み紙の飴はここら辺では売っていないからな」
やはりあの日だったのだと、ライナーとグラントリーの気持ちが一致したが、医者は怒りに震える声で話を続けた。
「それをあいつは! そんな飴を買う金があったら、なぜセシリアに食事をとらせなかったのかと責めたんだ。なんでそばにいなかったのかと。そんなの、あいつが生活費を寄こさないから、アリーシアが働きに出ていたからに決まっているだろう!」
竜を怖がらない、かわいい小さな女の子に気まぐれに飴をあげただけだった。だがその日その女の子は、父親が自分の味方ではないと知ったのだ。
「こんなもの、と言ってあいつは落ちた飴を一つずつ踏みつぶしていった。母親が亡くなったとも気づかず、その飴を食べさせたいと願う娘の目の前でな」
医者の声は沈痛だった。エズメが目に涙をためて肩を震わせているが、グラントリーは、その当日確かに自分とアリーシアの人生は交わっていたのだという事実と、自分が何もできなかったのだという事実に打ちのめされていた。
「どうあっても絶対実家には戻さない」
そう誓うしかなかった。その時、トントンと性急なノックの音が応接室に響いた。
「なんだ」
グラントリーの苛立たしげな声にエズメがドアに向かう。
「大変です。アリーシア様が!」
なにがあったのか聞く前に、グラントリーは走り出していた。その後にライナーやエズメ、そしてためらいながらも医者が続いた。
「アリーシア!」
入室の許可も何もないまま、グラントリーはアリーシアの部屋に飛び込んだ。アリーシアのいるはずのベッドには誰もおらず、ベッドの下には色とりどりの飴が飛び散っていた。
「アリーシア?」
小さい声で呼びながら部屋を見渡すと、窓のカーテンの下にアリーシアがうずくまっていた。
「アリーシア、どうした?」
「お母様、お母様」
アリーシアは震えながら母親を呼んでいた。胸がギュッと締め付けられながらもグラントリーはそっとアリーシアの腕に手をやると、アリーシアはびくっとし、背中の痛みにうめいた。
「お母様はどこ。お母様は」
「アリーシア。君の母親はもう」
アリーシアはグラントリーの声を聴いて父親と勘違いしたのか、腕に縋りついた。
「お父様。お母様に会わせて。連れて行かないで。お母様に会いたい」
縋りつくアリーシアにグラントリーは何も言うことができなかった。
「あいつはセシリアを、墓に入るまで誰にも触らせなかった。アリーシアにすらだ。アリーシアは、死んだ母親の顔を見ていないんだ」
医者が部屋の入口でつぶやいた。そして部屋に散らばった飴を見て顔をしかめた。
「セシリアが死んだ時と同じ状況だ。おそらくこの飴が、セシリアが死んだときのつらさを思い出させるんだろうよ」
「坊ちゃま。エズメにお任せを」
エズメはグラントリーに縋っていたアリーシアの手をそっと外し、自分に寄りかからせる。エズメの柔らかい体に触れたアリーシアはふっと力を抜いた。グラントリーは自分よりもエズメに頼るその様子に歯がゆい気がしたが、この一カ月、仕事を理由に、アリーシアとはほとんど交流してこなかったのも確かだと肩を落とした。
あの家から救い出したことで、いろいろ済んだ気になっていたが、実際はそうではなかったのだ。
「すみません。取り乱したみたい」
アリーシアの小さな声がした。
「あの日飛竜便の事務所でグラントリー様に会ったことも、ライナーがうちで働くんだって言ってくれたこともちゃんと覚えています。それが生きていく希望だった。いつか飛竜便で働けるということが。けれどあの日、私は母と父と両方失くしたんです」
空虚な瞳で語るアリーシアに、父親は生きているではないかと言う者は誰もいなかった。生きていても、父親という存在をアリーシアは失ってしまったのだから。
「いいことがあっても、長続きなんてしない。希望を持てば持つほど、たくさんなくなっていく」
そんなことはないのだと言いたかったが、どんな言葉も今のアリーシアには届かないような気がして、優しくアリーシアを揺らすエズメの隣で、グラントリーはなすすべもなくそれを眺めるしかなかった。




