胸を張って
エズメについて回って、屋敷の間取りを知り、使用人がどう働いているかを見て回るのも日課だ。そして、午前と午後に食事に響かない程度のおやつが出る。夕方に風呂に入り、夜はグラントリーと一緒に食べる。もっとも、グラントリーも10日おきには飛竜便で出かけてしまうので、いないときは使用人の誰かと一緒だ。
屋敷はどこにでも行ってもよかったから、アリーシアは少しずつ出歩く範囲が広くなった。だんだんとエズメにくっつかなくても歩けるようになったアリーシアを、屋敷の誰もが温かい目で見守っていた。
そんな生活が一カ月ほど続き、悪意のない生活にも少しずつ慣れたころ、屋敷からそう遠くないところにある竜舎をやっと見学させてもらえるようになったのだ。そしてすぐにまた、グラントリーは定期便のため竜に乗って出かけることになっていた。だが出かける前に、グラントリーは少し困った顔をしていてアリーシアの元にやってきた。
「アリーシア。ちょっと面倒なことになった」
「面倒なこと?」
アリーシアはグラントリーの言葉を繰り返した。お仕事のことはわからないけれど、困ったこともちゃんと話をしてくれるのは嬉しい。
「アリーシアが落ち着くまでと引き延ばしていたんだが、この婚約の話を持ってきた王女殿下がアリーシアを城に連れてきてほしいと言い出してね」
「お城」
アリーシアは一応形としては貴族だし、この国には王様がいること、そしてジェニファーがデビューしたのも王城だということは知っている。知ってはいるが、それが自分にかかわってくるとは思ってもみなかった。
「私の婚約者である以上、いずれは社交の場に出なければいけないこともある。だが、アリーシアはまだデビューもしていないし、ゆっくりやっていけばいいと思っていたんだが」
わざわざ言い出すということは、ゆっくりしていられなくなったということなのだろう。
「王女殿下はもうすぐ18歳の誕生日を迎えられる。それに合わせて、隣国へ輿入れすることになるが、その前に私が幸せになるところをぜひ見たいと仰せでな。迷惑なことだ」
迷惑だなんて、王族に対していってはいけないのではないかとアリーシアはドキドキしたが、不思議なことに、普段ならすかさず『坊ちゃま』とお叱りが入るところ、ヨハンもエズメも何も言わなかった。
「アリーシアを一目見れば納得するというのなら、いずれお茶会にでも誘われるだろう。その時は私も一緒だから、心配しなくてもいい。ただ、心づもりだけはしておいてほしい」
「はい」
はいという以外に何が言えるだろうか。
そんな厄介な一言を残して飛竜便の定期便のために飛び立っていった。
「また10日間いなくなってしまいますねえ。お寂しいですか?」
アリーシアは少し悩んで首を横に振った。
「ホホホ。坊ちゃまががっかりなさいますね。ホホホ」
エズメは愉快そうに笑ってどこかに行ってしまったが、アリーシアはなぜエズメが笑ったのかよくわからなかった。グラントリーはとてもいい人だが、アリーシアにとってはまだ、婚約者というより、飛竜便の事務所の「若」なのだ。つまり職場の上司みたいなものなので、一緒にいるとまだ少し緊張する。
「さ、それではお茶会とやらのために、服を仕立てないとなりませんねえ」
「あんなにたくさんあるのに?」
七日間毎日着替えられるくらいたくさん用意してもらったのだ。
「あれは普段着ですし、アリーシア様はこのひと月で少しばかりたてよこに伸びておられますからね。一つくらい、ドレスを仕立てておきましょう」
アリーシアは自分の手をかざして手首を眺めてみた。どこが伸びたのか自分ではわからないが、棒のようだった手首にほんの少し肉がついたような気がするのは確かだ。かぼそくて消えてしまいそうだった自分の存在感が増しているような気がして、アリーシアはそれが嬉しい。
そうこうしているうちに仕立ての人がやってきた。この日ばかりはエズメだけでなく使用人のうち若い女性全部が集まってきて、ああでもないこうでもないとアリーシアの服について意見を述べた。仕立ての仕事の人は驚いていたが、
「お屋敷の人みんなに大切にされているお嬢様なんですね」
と張り切ってデザインを考えてくれた。
「まだ成長しそうですから、たくさんは作らないほうがよろしいでしょう。サイズ調整ができるように、ゆとりを多めにとって」
裕福な伯爵家なのだから、一度着ておしまいということもできるだろう。だが、一度に与えすぎるとアリーシアが委縮してしまうということをエズメも知っていたから、少しずつアリーシアを慣れさせていこうとしているようだった。
その時強めのノックの音がした。女性は全員アリーシアの部屋に集まっているので、男性の使用人だろう。
「なんですか、女性が真剣に仕立てで悩んでいるときに無粋な」
近くの使用人がそっとドアを開け、外の人と話すと慌ててエズメのところにやって来た。
「エズメ様、大変です! 招かれざる客が! いえ、王女殿下がいらしたそうです」
「んまあ。先触れもなしに。しかも坊ちゃまがいない時を狙ってきましたね。いいでしょう。受けて立ちます」
エズメは腕まくりせんばかりの勢いだった。
「アリーシア様は、一番自分が元気になる服に着替えて、この部屋を出ないでお待ちくださいませ」
そしてちゃっかり仕立ての話をまとめると、仕立て屋と他の使用人と共に嵐のように部屋を出て行ってしまった。
アリーシアは大好きなオレンジの服に着替え、不安な時にいつもするように、北の国の本をぎゅっと抱きしめた。そしてそのまま本を開いた。
その本はおとぎ話の本だと母親からは言われていた。おとぎ話なのにそれなりの厚さなのは、おとぎ話だけれど、北の国の子どもはこれで文字と大切なことを学ぶのだということらしい。
「竜……」
アリーシアが竜が好きなのは、この本のせいだ。北の国は北東部に高い山脈が壁になっており、その山脈が水と山の恵みをもたらすのだという。それを守っているのが山脈を飛び交う竜だ。
その竜のお話が書いてあるのだ。
アリーシアも、父が来なくなる少し前に外に出ていて竜が空を飛んでいるのを見た時は驚いて母を庭に引っ張ってきたものだ。今となっては飛竜便がすぐそばにあったからというのが理由だとわかるが、その当時は普段静かな母も興奮して大喜びだった。
「故郷でもたまに竜が空を飛んでいるのを見たものよ。セイクタッドが聖竜の国だとは知っていたけれど、こんなに身近なものだとは知らなかったわ」
母がこんなに喜ぶのだから、竜はよいものなのだろう。そしてよいものを大事にしている国もきっとよい国なのだろうと、そう思った自分がいたことを思い出す。
グラントリーはお茶会か何かに呼ばれるかもしれないが、自分も一緒だからと言ってくれた。主人がいないときに王女殿下が来てしまったのには驚いたが、グラントリーと、それからお屋敷のヨハンとエズメを信じて待とう。アリーシアは胸に抱えた本をもう一度ぎゅっと抱きしめて、そっと枕元に置いた。
トントンとドアを叩く音がした。
「エズメです。よろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
ドアはノックされるもの、許可はアリーシアが出すもの。それもこの一か月で教わったことだ。入って来たエズメは、怒りなのか少し赤らんだ顔をしていた。そしてその目の奥には、アリーシアを心配する色が見える。
「アリーシア様……」
「私が出たほうがいいですか」
エズメは立ち上がったアリーシアの手を両手でぎゅっと握った。温かい手だ。
「王族が来たのに、顔を出さないのかとそれはお怒りで。いえ、たとえお怒りでも、グラントリー様になにか影響があるわけではありません。だからアリーシア様が出ないとはっきり言ってくださればそれでいいんです」
グラントリーがいない今、婚約者としてグラントリーの屋敷に滞在しているアリーシアが今はこの屋敷の主なのだ。いくらエズメやヨハンが有能でも、立場としては使用人に過ぎない。
一カ月前、自分の人生がもうどこにも逃げ出すところがないと絶望していたアリーシアに、居心地のよい場所を与えてくれたこの屋敷の人たちが困るところは見たくなかった。
「私、出ます」
「でもアリーシア様。まず体を作ってからと思い、家庭教師もつけていなかったですし」
つけておけばよかったという、エズメの後悔が感じられた。
「身分の高い方にする挨拶は、二年ほど前に教わりました。なんとか思い出してみます」
アリーシアはエズメの手を握り直し、ドアのほうを向いた。
一時でもジェニファーと一緒に学んだことを思い出そう。だが、一番大切なのは母の教えだとアリーシアは思う。バーノンの家で、どんなに母のことをけなされようとくじけなかったのは、母の気高い優しいあり方を信じていたからだ。母が国もとでどのような家に育ったのかは教えてもらったことはなかった。だが、母は言った。
「アリーシア。あなたは私の自慢の娘よ」
大好きで尊敬する母の自慢がアリーシアなら、アリーシアはたとえ王女の前でも凛と立てるはずだ。
「私の顔が見たいなら、見て帰ったらいいと思います」
アリーシアのいたずらっぽい表情を見て、エズメはクシャっと笑った。
「そのアリーシア様のかわいいお顔をエズメが最初に見たと坊ちゃまに言ったら、きっと悔しがることでしょうよ」
お茶会用のドレスは今日仕立てることが決まったばかりだ。それならお気に入りのオレンジの普段着で会いに行くしかない。
「行きましょう」
胸を張って顔を見せに行こう。




