たったこれだけ
戻って来た屋敷は、抜け出す前と何もかも変わっていた。勝手に家を出るなどということがあったら、確実に非難するだけでなく扇を振り下ろしたであろう義母は力のない目でアリーシアをいまいましげに眺めるだけだったし、そもそも義姉とは顔を合わせなかった。
コルセットをきつく絞めて意地悪していた侍女たちはおどおどとアリーシアと目を合わそうとしない反面、今まで遠巻きにしてかまいもしなかった使用人たちの視線は感じる。
迎えに来た父は無言で何も伝えなかったので、おそらく昨日の伯爵の訪れでなにかあったのだろうとアリーシアは思う。だが、まるでガラスの向こうからそれを見ているようで、自分には何も関係ない気持ちがした。部屋に戻ると、母からもらった本を胸に抱えて椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
そのうち、誰か来たのか屋敷がざわざわとするような気配がした。部屋の扉がバタンと開いて、義母がつかつかと入り込んできた。その後ろに侍女も続く。
アリーシアは椅子に座ったまま本をぎゅっと抱え込んだ。義母が部屋に来るのは人目につかないように扇を振り下ろしに来るときくらいなので、反射的に体がすくむ。
「なんてことかしら。外出したままコートも脱いでいないなんて。メイジー、とにかく一番ましな服に着替えさせて」
メイジーとは普段アリーシアに意地悪をしている侍女だが、困ったように手を揉み合わせた。
「一番ましと言っても、ちゃんとしたドレスはお嬢様が昨日着ていたドレスしかありません。後は普段着が二枚ほど」
義母は行儀悪く舌打ちをしたが、そもそもそれしか用意しなかったのは義母なので、誰に文句を言うわけにもいかない。
「いまさらこの子にお嬢様なんて言う必要はないわ。それにしてもまだ数か月あると思ったら、もう迎えに来るなんて礼儀知らずにもほどがあるわ。まだオリバーにも連絡していないというのに」
イライラと部屋を行ったり来たりすると、義母は足を止め、メイジーに指示を出した。
「二枚のうちましな方に着替えさせてすぐに連れてきて」
「はい」
扉を閉めて出ていくと、部屋にはアリーシアとメイジーの二人だけになった。アリーシアは今朝の父との会話で心から理解できたような気がしていた。アリーシアがどんなに我慢しても、状況などよくならないのだ。それならもう我慢する必要はない。
「コルセットなら、着けませんから」
そもそもコルセットなどなくてもやせっぽっちのアリーシアの服はぶかぶかだ。
「お嬢様」
「気持ち悪いからお嬢様なんて呼ばないで」
普段言い返さないアリーシアが言い返したことにメイジーはむっとしたようだ。肩をすくめると、義母から頼まれた仕事をあっさり放棄した。
「なによ、いい気になって。じゃあ知らないわ。そのままで行ったらいいじゃない。どうせどっちの服を着たってみすぼらしいのに違いはないんだから。奥様と旦那様が応接室でお待ちよ」
メイジーはプリプリと部屋から出て行ってしまった。
「行きたくない……」
アリーシアの中でほんの少し盛り上がった反抗心は、侍女のメイジーに言い返すだけで消えてなくなってしまった。いっそのことこのまま動かなかったらいいのではないか。そうしたらまた扇で叩かれるのだろうか。アリーシアは飴をくれた女の子を思い浮かべた。
「ごめんね」
飴を捨ててしまって。楽しそうな家族の住むあの家には、アリーシアと母の思い出すら存在することが許されないような気がして気が滅入った。迷惑をかけたくないから、飛竜便の事務所に行くこともできない。耐えても耐えても、待つ人も帰る場所も、行くところでさえも存在しないのなら、アリーシアはこの世界のどこにもいる必要はないのではないか。
「寒い」
芯から冷えた体はなかなか温まらない。アリーシアは椅子の上で本を抱えながらいっそう体を縮こまらせた。
どれだけ時間がたっただろうか。部屋の前の廊下から焦ったような人の声が近づいてきた。
「お待ちください!」
義母の声だ。
「これも主の命ですので。お嬢さん、案内してくれますか」
「は、はい」
だが義母に応える声は男性のものだった。アリーシアは眉をひそめて、記憶を呼び起こそうとした。男性の硬質で怒りさえ秘めたその声は、どこか聞き覚えのあるものだったからだ。それに母だけではなく、今日はまったく顔を合わせていない義姉の声もする。
「こ、ここです」
「ありがとう。失礼する」
トントンという力強いノックの音と共に、部屋のドアが開いた。アリーシアは入っていいと許可などを出してはいないが、この屋敷の人で許可をとろうとする人などそもそもいない。本来のアリーシアなら、何が起こるのか警戒して頭を巡らせ、誰が入ってきても反応できるように緊張していたことだろう。だが今日のアリーシアはあまりにも心が疲れ果てていて、誰が入ってこようともう気にもならないのだった。
ドアを開けた人がベッド以外何もない部屋を見て息を飲む気配がしたが、その人の気配は静かにアリーシアに歩み寄り、止まった。
「お前! まだ着替えもせずに、だらしない! それに座ったままで礼儀がなっていないわ! 客人ですよ。ご挨拶を」
義母の叱責が立て続けに入るが、アリーシアはそれにこたえるのも億劫で、ただ本を抱え続けてわずかに体を揺らすのみだった。
「奥様。かまいません。お嬢様はこれから私どもの主となる人なのですから」
男の人はそういうと、アリーシアの足元にすっとひざまずき、かすかな声で呼びかけた。
「アリーシア様」
アリーシアはのろのろと男の人のほうを向いた。片膝をついてアリーシアを温かい目で見ているのは、アリーシアがよく知っている人だった。アリーシアの口元がかすかに動いた。
「なぜ?」
飛竜便のライナーがそこにいて、アリーシアの問いかけにただ頷いて見せた。
「お前は!」
「奥様」
ライナーは片手をすっと上げて義母の言葉を止めた。
「この様子では、もしかして当家との縁談の話を聞いていらっしゃらないのでは?」
縁談とは何のことだろう。アリーシアが首を傾げると、ライナーはやはりなというように頷いた。
「お前。先ほどハロルドが馬車で迎えに行ったはずです。その時に何も聞かなかったというの?」
アリーシアはやっと心が現実に戻って来たような気持ちになった。
目の前にはなぜか飛竜便の事務所のライナーがひざまずいていて、ドアのところには目を吊り上げた義母がいる。開け放たれたドアの向こうでは、廊下から姉が半分だけ姿を見せ、気まずそうに下を向いていた。そして自分は義母に何かを聞かれている。父親と話したか?
「いえ、馬車では一言も話しませんでした」
「あの人は何のために……」
あきれたような義母の後ろで、義姉がきっと顔を上げた。
「あなたはね、オリバー様のところには嫁げなくなったのよ」
「オリバー様?」
この状況でオリバーがどう関係するというのだろう。
「フェルゼンダイン侯爵家の次男には、うちの娘ならどちらが嫁いでもいいんですって。アリーシア」
義姉が口をゆがめて微笑んだ。
「よかったわね。私の代わりに、あなたがあの仮面のグラントリー・シングレア伯爵に嫁ぐことになったのよ。そして私はオリバー様の元に嫁ぐの」
アリーシアは自分が下賤の者だと思ったことは一度もない。だが、世間的に、いわゆる庶子の立場が低いのは知っている。とても伯爵家に嫁げる身分ではない。突然の情報におろおろとするアリーシアを守るようにライナーがぴしゃりと言い切った。
「若がそれでいいとおっしゃっている。この話はこれで終わりです」
ライナーは立ち上がると、てきぱきと指示を出した。
「では、若の希望で、本日からアリーシア様にはうちの屋敷に来てもらいます。ご存じの通り、うちは特殊な仕事をしているので、いろいろ学ぶべきことが多いのですよ」
アリーシアに聞かせようとしているのだろう。突然のことで戸惑うアリーシアに伝わるように簡潔に説明してくれている。
「すべてうちで用意しますので、アリーシア様は大事なものを持ってきてくださればいいです。おい!」
ライナーの声で、廊下で待機していたと思われる使用人が二人ほど入って来た。
「さあ、アリーシア様。指示だけ出してください。何をお運びしますか」
アリーシアは突然のことで戸惑ったが、胸の本だけをまたギュッと抱え直した。
「これだけです」
ライナーがアリーシアのほうだけ見て、冗談だよなと口の端を片方だけ上げてみせた。
義母が焦ったように口を出す。
「伯爵家がそろえてくださるとおっしゃってるのなら、伯爵家にふさわしいものを揃えてもらった方がいいでしょう」
「そうですね。アリーシア様がそれでいいとおっしゃっているのなら」
部屋に入ってきた使用人は何も持たずに部屋を出ることになった。
「ではアリーシア様」
相変わらず本を抱えてぼんやりしているアリーシアにライナーが声をかけ、椅子から立たせると背中をそっと押した。
応接室には結局行くことはなかった。玄関ホールでは既に帰り支度の済んだグラントリーが待ち構えていたからだ。昨日の黒いコートではなく、温かそうなグレーのマントを羽織っている。
「ひっ」
小さいが、義姉がひるむ声がする。今日は仮面を見ても逃げ出さないようになんとか踏ん張っているようだ。
昨日ジェニファーを見ていたように、グラントリーはアリーシアのほうをまっすぐに見つめていた。昨日は冷たいと思った青い瞳がなぜか温かく感じる。
「アリーシア、と呼んでもいいだろうか」
「は、はい」
アリーシアは小さい声で返事をした。グラントリーは満足そうに頷いた。
「私はグラントリー・シングレア。あなたの夫となる男だ」
そしてアリーシアを歓迎するかのように両手を広げた。なんとなく引き寄せられるような気がしてふらふらと前に出ると、グラントリーは愉快そうに口の端をほんの少し上げた。芝居がかったしぐさでマントの端をつかみ、アリーシアを胸に抱えた本ごとその中に巻き込んだ。突然強い力で引き寄せられたアリーシアは驚いて固まってしまった。
「アリーシア嬢は、シングレア家で大切にお預かりする。それではこれで」
腰に回された手は、片手なのにまるで重さを感じてなどいないかのように軽々とアリーシアを持ち上げ、そのまま荷物のように運ばれていった。




