娘は一人じゃない
「ふむ。理由はいくつかある」
ジェニファーが父親のほうを祈るような面持ちで見ている。彼女にとって納得できる理由ならいいが、そうでない気がした。
「一つ。フェルゼンダイン家は外国との交易ルートを持っている。それがうちの商売と重なるんだ。うちの商会にはプラスになる」
「そんな商売のために娘を売るような真似は」
「黙れ」
ハリエットの抗議は切り捨てられた。
「二つ。向こうは次男なので跡取りは不要だそうだ。ジェニファーに男子が生まれたら、バーノン家の名を引き継がせることができる。これはオリバーと条件が同じ」
アリーシアも知識としては知っている。高位の貴族は、領地に合わせていくつも爵位を持っていて、息子に引き継がせることができるが、息子に子ができなかったら、その爵位はまた親に戻せばいいだけなのだ。
バーノン子爵家のように、一つしか領地がなく爵位も一つの場合は必死に跡取りを探すこととなる。もしジェニファーに子ができなかったら、誰か遠縁の者に爵位が行くはずだ。
「待ってください。私も会場であの方を見かけましたが、とても婚約者を捜しているようではありませんでしたわ。普通は積極的に声をかけて回るものです。ましてジェニファーに興味があるようなそぶりは見えませんでした」
父親はハリエットの物わかりの悪さを嘆くかのようにかすかに首を横に振った。
「三つ。強制ではない。強制ではないが、間に王家が入っている」
「王、家?」
「あの方の怪我の原因になった事故を知っているか」
「なんとなくは聞いたことはありますが」
ハリエットはそう言うが、アリーシアは貴族としての教育が始まる前に使用人に落ちてしまったので、これらの話はまるでわからなかった。
「フェルゼンダイン家は聖竜を守る家。その聖竜のいるところに友だちを引き連れてお遊びで潜入したのが王女殿下だ。グラントリー殿は、暴れる聖竜から王女をかばう際に怪我を負ったという」
「その王女は今度隣国に嫁ぐことが決まっているはずですわね」
それはアリーシアも慶事として使用人たちのうわさで聞いたことがある。まるで別世界のお話だなと思ったものだ。
「その通りだ。自分だけ幸せになるわけにはいかないから、ご自身が嫁ぐ前に、怪我を負わせてしまったフェルゼンダインの次男にもぜひ縁談をとのご厚意だそうだ。これも会場でジェニファーが目立ったおかげだろう」
ハリエットはハッとしてジェニファーのほうを見た。ジェニファーも顔色が悪くなっている。
「私、王女殿下に真っ先に話しかけられたの。他の高位の令嬢もいる中で。失礼にならない程度の受け答えはできたと思うけれど」
「その時にはもう、目をつけられていたんだろうな。私としてはよくやったとしか言いようがないが」
めったにない父親の褒め言葉だが、ジェニファーはまったく嬉しそうではなく、ちらりとオリバーに視線を向けた。王族にも認められた美しさの結果として、慕っているオリバーとの婚約がなくなってしまうのは、ジェニファーにとっては不本意なことであるのに違いなかった。
父親は肩をすくめた。
「うちが断れば、他の家に打診が行くだろう」
「それならば!」
断ることができるのであればという希望がハリエットからもジェニファーからも感じられた。
「なぜ断る。うちには利が多い。ジェニファーにしても、裕福な伯爵家に嫁ぐことができるのだぞ。ハリエット。爵位が大好きなお前にも嬉しい話だろう」
心底不思議そうな父親に、ハリエットは唇を噛み、ジェニファーは途方に暮れたような顔をした。
「ジェニファーはずっとオリバー様と一緒になると信じてきたのです。いまさら他の人にしろと言うのは、この年の娘には酷なことです」
ハリエットが代弁したが、アリーシアは父親と同じことを思った。あれだけアリーシアの母親を下賤の者と蔑んでいたのだから、ハリエットにとっては身分が何よりも大切ではないのだろうか。
「オリバー様はどうなるのですか」
ジェニファーが問いかける。確かに、婿入りのような形で子爵家に入る予定だったのだから、ジェニファーとの縁談がなくなったら、オリバーはどうするのか。
そこまで考えて、アリーシアはぞっとする。さっきから背中を這いずっている不安の正体がわかった気がした。まさか。
「うちにはもう一人娘がいるだろう」
「あなた!」
ハリエットが悲鳴のような声を上げた。
「オリバーはずっと商会の仕事を学んできたんだ。その時間を無駄にするわけにはいかないだろう」
ジェニファーだってずっとオリバーに嫁ぐ日を夢見て、自分なりに努力してきたのだ。アリーシアはジェニファーのことは大嫌いだが、その時間を無駄にすることについてはどうでもいいのかと父親の思いやりのなさに悲しみを隠せなかった。
「アリーシア。そんな格好は今日でやめて、明日からきちんと貴族令嬢の振る舞いを学べ」
アリーシアは首を横に振った。オリバーの元に嫁ぐなど絶対に嫌だ。ハリエットが憎々しげにアリーシアをにらむが、かまってなどいられない。
「私には貴族の生活は無理です」
「できていたではないか。セシリアのあの家では」
父親には、母との思い出のあの家のことを語るなと言いたかった。いつでもしとやかな振る舞いをと母に教えてもらい、母と二人で父親の訪れを楽しみに待ったあの日々のことを。
「もうあの家はありません。このお屋敷には貴族の振る舞いを教えてくれる人もいません」
家庭教師の話ではない。父、義母、義姉、誰一人も貴族としての振る舞いができているようには思えない。貴族どころか、人としての振る舞いさえできていない。意図しない皮肉にハリエットの顔がゆがむのが見えた。
「バーノン家の娘として生まれたからには、家の役に立て。それが貴族というものだ」
父親とオリバーは言うことを言ったからか、席を立った。
「オリバー様!」
思わずジェニファーが引き留めたが、それも仕方がないことだろう。オリバーはどうでもいいというような顔をしていたのに、ジェニファーに呼び止められた途端悲しい顔を作った。そう感じ取ったアリーシアはますますオリバーが嫌になる。
「ジェニファー。君は私より高位の貴族になるんだ。私も寂しいけれど、君の幸せを祈っているよ」
既に自分は思い切ったのだと、ジェニファーをあっさりと切り捨てる言葉をオリバーは残しただけだった。部屋を出ていく二人のすぐ後にアリーシアも続いた。義母と義姉と同じ部屋にいたら何をされるかわかったものではない。それに、アリーシアだって今の話をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
「お父様!」
久しぶりに呼びかけたアリーシアの声に、父親は立ち止まった。
「無理です。私は成人したら家を出るつもりです」
「それは許されない」
「なぜ? 私はずっといらない子どもだったでしょう」
母が亡くなったあの時から、父にとって私はいらない子になった。この家に来てよかったことなど何一つない。だが、アリーシアの血を吐くような叫びにも父親は眉をひそめただけだった。
「セシリアはお前を頼むと言った」
最後の母の言葉だ。覚えていたとは思わなかったアリーシアは、逆に怒りで体が震える思いだった。その言葉を聞いていたのなら、なぜ今まで放っておいたのだ。
「今まで一つもかまわなかったくせに! 私のことを少しでも思うなら、この家から自由にさせてください!」
「駄目だ。お前はオリバーに嫁げ」
嫌だという前に、オリバーがそっとアリーシアの手を取った。
「アリーシア。いつかこんな日が来ると思っていた。きっと私が幸せにするから」
振り払おうとした手は思いがけず強い力で抑え込まれた。アリーシアは身震いした。
「オリバー。もう一仕事しないと」
「ええ」
父親の声にやっとオリバーが手を離すと、二人は玄関のほうに消え、やがて屋敷を出た気配がした。
「逃げないと」
あと四か月など待っていられない。今すぐにこの家を出ないと。
皆が寝静まった頃、母親からもらった北の国の本と着替えだけを持ってそっと部屋から出ようとしたアリーシアの顔は絶望に染まった。部屋の前には、見張りがいた。
「家から出すなという、旦那様の言いつけです」
逃げるという選択肢も失われてしまったアリーシアには、静かな諦めだけが残った。




