ライレーリアの沈黙
ノール・イグニスがケイネンハイム大公領に現れたという報告は無事にライレーリアのもとへ届いた。
その報告が届いた直後のライレーリアの表情は言葉に表せないほどの凄まじさであり、怒りや憎しみを僅かも隠せていなかった。
「どうしてアイツが生きている!?」
発狂したかのように叫ぶライレーリア。
傍に控えるのはセイリオスただ一人で、他の者は席を外している。といっても、席を外すように命じたのはライレーリアであり、セイリオスを一人残したのもライレーリアである。このことから、平静ではない姿を見せても良いと思えるほどにライレーリアはセイリオスを信頼していることが見て取れた。
「アイツとは?」
「ノールよ! 死んだと思っていたのに、どうして今になって、それもこんな時に――」
セイリオスが尋ねるとライレーリアは頭を抱えるながら答える。
その様子から、ノール・イグニスという存在がライレーリアのコンプレックスの元なのだと、セイリオスはすぐさま読み取った。
劣等感か何かか、それは比較され続けてきたせいなのか、それが原因でノールに対して感情的になっているのだろうとセイリオスは考える。
実際、セイリオスの読みは当たっており、ライレーリアはノールに対して強い劣等感を抱いていた。
それほど歳の離れていない兄であるノールとライレーリアは常に比較され続けてきた皇子と皇女という男女の違いもあるので、皇族でも求められる役割は違うのだが、そういう部分とは違う根本的な部分の人間としての質でライレーリアは常にノールと比較され続けてきた。
ノールとライレーリアは腹違いの兄妹。ノールの母親の方が家格は下で、ライレーリアの母親の方が身分は上。しかし、皇族の中での格はノールの方がライレーリアの上に位置する。
皇帝の権力が弱い帝国の中で皇族としての格上と言ってもたいしたことではないのだが、それでもライレーリアにとっては面白くない。
ノールは内乱の鎮圧などに活躍し、軍事の才を認められていた。それに比べてライレーリアは何をしているのかと言われる。何もしていなかったわけではなく、戦の勉強をしていたのだが、その成果を披露する時は無かった。その機会は既に評価を得ていたノールへと任されていたからだ。
それならばとライレーリアが政の勉強をし、学んだことを実践しようとした矢先に、ノールが内政で成果を上げる。その結果、ライレーリアは何をしていたのかとノールの下に扱われる。
能力だけでなく、容姿や性格も評価された。人々が言うにはノールは涼やかな美男子で人柄も申し分ない。対してライレーリアは常に眉間に皺を寄せた少女で、性格も顔と同じで神経質で気難しいと言葉を交わしたことも無いどころか姿を見たことも無い者たちに言われる。
その程度の事かと思う者もいるかもしれないが、我慢の限界というのは人それぞれであり、何がそれを刺激するのかも人それぞれである。ライレーリアにとっては、繰り返し周囲の人々に言われるノールとの比較が、最も苦痛を与える言葉であり、それを口にしたことでライレーリアが傷ついても、『その程度のことで――』と思う者がライレーリアにとって最大の敵であった。
――ただ、ここで複雑な感情が生じてもいる。
常日頃からノールが自分より上だと聞かされていたライレーリアはノールに対して、自分よりも遥かに優れた人間であると思っていた。自分より優れているのならば、きっと何か高い目標を持っているはずで、自分なんかよりも遥かに良い未来を見据えて動いている筈だという、ノール・イグニスという人間に対しての過剰な期待が有り、きっとノールが今の帝国の体制を変えて、皇族が皇族として確固とした地位を築いてくれると思っていたが、そんな期待はライレーリアの勝手な期待である。
当のライレーリアは、ノールが何とかしてくれると思っていたが、ノールにはそんなつもりは毛頭ない。ノール自身も境遇に不満が無いわけでもないが我慢ができないような環境でもなく、皇族でありながら内乱鎮圧に使える道具としての扱いにも不満が無いわけでもないが、それを理由に反旗を翻すほど、帝国の体制に対して不満があるわけでもなかった。
そんなノールの考え方は妥協であり諦めでもあったが、それ自体が絶対に悪いわけでもない。妥協と諦めが結果的に、その社会に生きる人々を守ることにも繋がるからだ。だが、ライレーリアはそれが許せなかった。
自分より優れていると世間的に評価されているはずの輩が、決して良いとは言えない現状を良しとして、そんな現状に甘んじているなどライレーリアには許せなかったのだ。
自分が自分より上に位置すると認めた相手が、自らを低い位置に置くということは、それは自分を貶めることだ。ライレーリアは自分が上と認めざるを得ず、自分より上に行くと思っていたノールが自分から低い地位に甘んじているのは、ノールを自分より上と認めた自分を貶め、侮辱しているとしか思えなかった。
ノールなら――という自分の思いを裏切ったノールをライレーリアは許せなかった。だから、自分を裏切ったノールを罰するために、ノールをアドラ王国侵攻の先鋒となるように画策したのだ。
ライレーリアはノールの思い通りに軍を動かせないように貴族連中を侵攻軍の中枢になるように計らった。それ以外にもイグニス帝国の世論が王国侵略に傾くように民衆を扇動したりもした。
その結果、ノールはノール自身が思い描く、理想の編成で王国へ攻勢をかけることができずに、王国侵攻は失敗し、その結果ノールの評価は地に落ち、対して、ノールが侵攻を口にしなければいけない状況にあった中で、それに反対の立場を取っていたライレーリアは評価は上がることになった。それは人生で初めてライレーリアがノールより上に立った瞬間だった。
そして王国侵攻に失敗した後、ノールは消息不明となり、ライレーリアにとって自分を苦しめていた存在は消えてなくなった。これからはノールと比較しての自分ではなく、ありのままの自分を評価してもらえる筈だとライレーリアは思うのだったが――だが、そうはならなかった。
ノールがいなくなったからといってライレーリアに目を向ける者が増えるようなことは無かった。むしろ、ライレーリアに目を向ける者が減る有様。
結局の所、ライレーリアはノールの添え物であり、ノール・イグニスという人物とセットでようやく日の目を見る存在だったということをライレーリアに自覚させただけだった。
ライレーリアが劣っているわけではない。だが、ライレーリアだけでは取り立てて話題にするほどの価値も無い。多少は能力があっても所詮は第七皇女。話題にするべき皇族は他にいくらでもいた。
現実を知ったライレーリアが抱いたのは怒りだった。
それは自分を蔑ろにする者たちへの怒りであり、そんな風に自分を相手にしない者たちを見返すためにライレーリアはノールが失敗したアドラ王国の征服を自分が果たすために行動を起こした。
誰にでも分かる形でハッキリと自分がノールより上であり、自分が価値ある存在であることを知らしめるために。そして、行動を起こした結果が今の状況である。
「ノール・イグニスを始末するべきでしょう」
セイリオスはライレーリアの思いを汲み取り、ライレーリアが言葉に出来ない思いを代わりに言葉にする。
セイリオスはライレーリアとノールの関係について詳しくは知らないが、推測はしていた。そして、その推測は事実とほぼ同じ物であり、詳しくは知らなくともライレーリアのコンプレックスに関して押さえるべき点は把握できていた。
「兄なのですよ?」
「それは帝国の皇子のノール・イグニスであり、傭兵のノール・イグニスとは別人では?」
そんな言い訳が通るわけがないとライレーリアはセイリオスに反論しようと思ったが、どういうわけか上手く言葉が出ない。まるでセイリオスの言葉が正しいと心が訴えているようで、体が思い通りにならない。
「殿下は口になさらなくても構いません。全て私がやっておきますよ。殿下は全て終わってから、自分は何も知らなかったと言っていただいて結構です」
「しかし――」
「王になる者が肉親の情を気にして判断を誤ってはいけません。そもそも肉親であるならば、殿下の成功を喜ぶのが筋であるはず。それなのに、殿下の王国征服を阻むかのように敵になるなど、それが家族に取る態度として正しいのでしょうか? 私の見た所、ノール・イグニスは殿下の成功を妬んでいるのではないでしょうか。もしくは、この機に乗じて殿下の功績を奪いに来たか――」
そんなわけはないとセイリオス自身も思うが、それを口にする必要は無い。そんなことを言ったらライレーリアをその気に出来ないからだ。ライレーリアをその気にさせるためなら、セイリオスはどんな嘘でも口にできる。
「私は詳しく存じませんが、同じようなことは今までもあったのでは? ノール・イグニスは本来ライレーリア様が受けるべき称賛を奪ってきたのではありませんか?
きっと今までも、貴女が受けるべき栄誉を奪ってきたのではないかと私は思うのです。自分の評価が不自然に低いと思ったことは? 奴の評価が不自然に高いと思ったことは? 同じことをしている筈なのに何故か奴だけが認められるようなおかしいことはありませんでしたか? 全て奴が貴女を貶めるためにしたことなのでは? そんな奴のために慈悲をかける必要がありますか?」
セイリオスの言葉にライレーリアは過去の記憶がよみがえる。
それはノールと比較されてきた過去だった。
「リギエル将軍を動かしましょう」
過去の記憶に囚われそうになるライレーリアにセイリオスは優しく語り掛ける。
「彼ならば、ノール・イグニスを倒してくれるはずです」
ノールの強さはライレーリアも承知している。自分が選んだログドー将軍やレガード将軍も悪い人材ではないがノールには劣る。唯一ノールを上回れる可能性があるのはリギエルしかいないことも承知していたが、だからと言ってリギエルを動かすことはできない。
躊躇うライレーリアに対して、セイリオスは背中を押すように繰り返し提案する。
「使える最強の駒を使って殿下を悩ませる厄介な存在を消し去りましょう」
「しかし、それをしてしまうと――」
リギエルは西部でアロルドの進軍を阻んでいる最中だ。
ここでリギエルを動かせば、西の守りはどうなるか分からないとライレーリアは思う。対してセイリオスはリギエルを西部から動かしたら絶対にアロルドは帝国の守りを突破して王都まで乗り込んでくるだろうと考えていた。
ライレーリアを勝たせるならばリギエルを動かすべきではないとセイリオスは理解しているが、セイリオスは帝国やライレーリアを勝たせたいわけでもないので、そんなことは口にはしない。
「西部の守りはレガード将軍でも問題ないとは思いませんか? ヴェルマー侯爵軍などという山の向こうからやってくるような蛮族同然の連中と、殿下が煮え湯を飲まされてきたノール・イグニスのどちらを優先するべきかわかるでしょう?」
セイリオスはあえて帝国にアロルドたちの情報を伝えていないので、ライレーリアや帝国の面々はアロルドの強さについて知らずにいる。他の帝国に寝返った貴族たちもアロルドに対しては良い感情を抱いていない者も多いのでアロルドについて評価するようなことを帝国の者たちには言っていない。
その結果、帝国はアロルドとヴェルマー侯爵軍について過小評価をするに至り、その戦力を正しく測れてはいなかった。
「しかし、ノールがどういうつもりか分からないだから、軍を動かすのは性急であるような——」
「そんなことを言って、手遅れになったらどうするのですか? 殿下はノール・イグニスが殿下に対してどのような思いを抱いているのか、把握できているのですか? できていて、奴を殺さないというのなら、私は何も言いません。ですが、本当に奴は殿下を傷つけるつもりが無いと思いますか? 殿下に逆恨みし、殺意を抱いている可能性はありませんか?」
セイリオスの言葉にライレーリアは表情を曇らせる。可能性が無いとはいえない筈だと、セイリオスはライレーリアの心を推し量る。
やましいことがあるのだから楽観的に考えることは出来ないはず。ノールを嵌めたという事実もあるのだから殺されないなどとはいえないはずだ。
「殿下にも複雑な思いはおありでしょう。良いのですよ、ただ一言任せると言ってくれれば、私が全て何とかしましょう。全部、私が勝手にしたことで、殿下は何も知らない被害者です。部下の暴走で大切な兄を失った健気な妹ということで良いではないですか?」
セイリオスは優しく語り掛ける。
「言葉にするのも辛いようでしたら、沈黙しているだけで構いません。それならば黙っている内に勝手に行ったことと言い訳もしやすいでしょう?」
「私は――」
ライレーリアは口を開こうとしたが次の言葉が出てこない。頭の中の理性的な部分が止めさせるように訴えているが、胸の中にある心が沈黙を強制する。
セイリオスはライレーリアが何も言わないのを見ると穏やかに微笑み、その表情と同じように優しく穏やかな口調で言うのだった。
「では、この件は私の方で処理させていただきます」
頼むということもライレーリアは口にしない。
この件は全部セイリオスの独断で自分は関係ない。なので、兄殺しなどに自分は関りが無い。関係が無いことに口を挟むのはおかしいからライレーリアは沈黙を決めたのだった。
セイリオスはそんなライレーリアの姿を見て思うのだった。
そろそろ、切り捨て時かもしれないと――




