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兄弟喧嘩

 額から血が流れている。

 兄上の拳は俺の額に当たり、当たった場所が切れたのだろう。


「アロルド君!」


 エリアナさんの声がする。


「心配しなくても良い。殺しはしないさ。イーリス・エルレンシアに関しては別だがね」


 こっちは兄上の声だ。兄上は俺の額に拳を当てたまま話している。


「キミらは見逃してやる。だから余計なことを言わず叫ばず何もせず、おとなしくしていてくれ」


 参ったなぁ、まさか本気で殴られるとは思わなかったよ。


「アロルドは残念だが躾の時間だ。馬鹿でも許すが、それは僕を怒らせない範囲に限るということを体に教えてやろう」


 何を言っているんだろうかな、この野郎はさ。

 俺が躾けられる? アホなことを言うなよ。つーか、甘んじて躾を受けるとでも思ってんのか?


「……一発だ」


 そりゃあ、俺も悪い所があったかもしれないよ?

 でもさぁ、そんなに悪いことをした覚えもないんだよな。


「一発だけなら殴られてやる。だが、それ以上やるっていうなら、俺もそれなりの対処をするぞ」


 弟への教育の意味もあるかもしんないから一発は受けたよ。

 俺は気づかなかったけど、すごく悪いことしてしまったかもしれないし、それを咎めるために俺を殴ったのは許すけど、それだって一発が限度じゃない?

 俺だって良い歳なんだし、言葉が通じないわけじゃないんだから何発も殴る必要はないよね?

 

 つーか、父上とか母上なら分かるけど、兄上に何発も殴られる筋合いとか無くねぇ?

 兄上は保護者じゃなくて、ただの兄弟だぜ? 

 兄弟で長幼の序ってのが、あんのかもしんないけど、それだって下の奴を一方的に殴っていいほどの差は無いはずだし、躾が出来るほど偉くもねぇだろ?

 そういうわけなんで、俺は何発も殴られる筋合いも無けりゃ、兄上から躾を受ける筋合いもありません。


「そうか――」


 兄上も俺の言いたいこと理解してくれたようで、左拳を俺の額から離して引き戻すと――


「では、その対処を見せてくれよ」


 ――もう一度、俺の顔面に向けてその左拳を放ってきた。


 本当になんなんだろうね、この人は?

 俺は兄上の拳が届くより早く、兄上の腹に前蹴りを叩き込む。

 カウンター気味に入った蹴りを受けて兄上の身体が吹っ飛ぶ、ちょっと余裕がなかったので手加減をしくじってしまったけど、兄上の感じを見る限りでは死にはしないだろ。


「アロルド君!?」


 エリアナさんが驚いているようだけれども、そんなに驚くことじゃないと思うんだよな。


「ただの兄弟喧嘩だ。気にせずにイーリスを連れて、さっさとこの場を離れろ」


「――悪いが、そっちの小娘は逃がしたくない」


 吹っ飛んだはずの兄上は受け身を取り、問題ない様子でイーリスの方を見ている。


「さっさと行け!」


 たぶん、この場にいるとエリアナさん達もヤバいし、イーリスも死ぬと思うので思わず声が出てしまいました。エリアナさん達が殺されるのは嫌だなぁって思うし、イーリスが死ぬと俺の知り合いのウーゼル殿下も悲しいだろうし、それは避けないとな。



「逃がすと思うか?」


 兄上が動く。

 エリアナさん達は扉まで走り始めているが、兄上には追い付かれるだろう。

 なので、俺は動き出した兄上に対してエリアナさん達を庇うように動く。

 僅かに俺の方が兄上より速いから兄上がエリアナさん達まで届くのは邪魔できるだろうし、兄上はエリアナさん達に気を取られていて、俺の方への意識の向き方が弱い。

 だから、何とかなる。そう思っていたのだけれども――


 エリアナさん達の方に向かおうとしていた兄上は急に方向転換し、俺に向かってくる。

 エリアナさん達と兄上の間に入ろうとしていた俺は、兄上のその動きに反応が遅れ、兄上の放った頭への蹴りをギリギリで受け止め、足が止まる。


「あんな女どもなど、後でいくらでも片付けられる」


 兄上はそう言って俺の前に立ちふさがる。

 俺が兄上の前に立ちふさがって、エリアナさん達の所まで辿り着かせないはずだったのに、今の状況はその逆だ。俺の方がエリアナさん達の所まで行くのを兄上が遮っている。


「それは困るな」


 エリアナさんとかに死なれると俺の目の保養ができなくなるし、そうなると精神的に辛くなるんだけど。


「存分に困ってくれよ。僕も困っているんだから、お互いさまだろう?」


 兄上が困るのは可哀想だけど、そこまで重大なことじゃないんだよなぁ。

 俺が困るのは大変なことだし、なんとかしないといけないと思うけどさ。


「お前の頭の出来が悪いことは理解していたんだがなぁ。悪いなら悪いなりに空気を読んでくれると思ったが、それも駄目となると、これはアレだな――」


 兄上が何か言っている最中に俺は額の傷を拭う。

 実を言うとスゲー痛い。我慢してるけど、本当は泣き言を喚きたいくらい痛い。

 拭ってみると、手には血がベットリで信じらんないんだけど、兄弟喧嘩で血が出るような怪我を負わせるとか頭おかしいんじゃねぇの?

 血が出てるのは気分が良くないので回復魔法を使って応急処置をして、傷は塞がったものの兄上に関してはちょっと俺も怒り気味です。兄弟喧嘩で血が出るようなことする常識なしには反省を促したいもんだ。


「体に教え込むしかないな」


 その言葉を放つと同時に兄上の姿がかき消える。

 何が起きたのかと思った瞬間、兄上の左拳が俺の頬に叩き込まれた。

 衝撃でよろめく俺に兄上が言う。


「お前は特別だよ。特別だから生かしておいてやるけれど上下関係くらいは叩き込んでやらないと今後が困る。とはいえ、口で言っても理解しないだろうから、体に理解させようというわけだ」


 ふらつく俺の腹に兄上の左拳がめり込む。

 その一撃で腹の中の物が全部出そうになるが勿体ないのでこらえる。


「まぁ、こんな様を見られたからにはお前の女どもを殺さなきゃならんだろうが、それも僕の言葉を理解しようとしない今の貴様の頭の残念さが招いた結果だ。甘んじて受け入れてくれよ」


 やっべぇ、すっげぇ辛い。

 威力が今まで食らってきた攻撃の中で一番くらいあるぞ、これ。

 でもまぁ、どうにもならないわけじゃない。ちょっとくらいは我慢できる。


 腹を殴られたため、体が折れ曲がり、位置の下がった俺の頭にめがけて兄上が左の拳を振り下ろした。

 本当に容赦がないようで腹が立つ。腹が立つので俺は当然反撃するわけだ。


 俺は振り下ろされた拳を右腕でガードすると、低い姿勢からかち上げるような軌道で左拳を兄上の脇腹に叩き込んだ。

 カウンター気味に入った俺の拳は普通の相手だったら、それだけで殺せそうなもんなんだけど、兄上はよろめいて後ろに下がるだけで済んでいた。


「本当に腹が立つな。飼い犬に手を噛まれる気分というのはこういうものなのか?」


「腹が立っているのはこっちもだ。これ以上やるっていうなら、俺はお前を兄と思わんぞ」


 弟だからって甘んじて殴られる筋合いはありませんし、弟だから殴られなきゃいけないって理屈なら、俺は弟をやめますよ。


「こっちはお前の顔に拳を入れた瞬間からお前を弟と思っていないんだけどな」


 そりゃあ好都合だ。

 お互いに兄弟と思っていないなら何の気兼ねもなく、テメェの顔をボコボコにしてやれるじゃねぇか。


「それなら俺も罪悪感を抱かずに済むよ、セイリオス・・・・・


「僕は最初から罪悪感などは持っていないがな、アロルド・・・・


 よしよし、よーく分かりましたよ。

 俺はもうセイリオスをぶん殴っても良いってことがな。

 全く悪びれることもなく俺を殴っていたなら、俺も色々と気にせずにセイリオスをぶん殴るわ。


「やるというなら、これは邪魔だな」


 セイリオスは右手に持っていた剣の刃を指で掴むと、それをへし折る。


「聖騎士の剣でイーリスを殺すことに意味があったが、この状況ではそれは必要ない」


 そりゃあ、聖騎士の剣がイーリスに刺さっていたら聖騎士がイーリスを殺したんじゃないかなって俺でもわかるしな。まぁ、そういうのは今は良いとして――


「得物無しで俺とやる気かよ?」


「そんなものが必要ないとすぐに分かるさ。お前こそ抜かなくていいのか?」


 ああ、剣の話? 抜くわけねぇだろう、馬鹿かお前?


「喧嘩で剣を抜く阿呆がいるかよ」


 兄とは思わないけど、事実としては血縁関係があるし、血の繋がりがある相手を斬りつけるのはちょっとねぇ。


「お優しいことだ――なっ」


 セイリオスの姿がかき消える。つっても、単に動きが異常に速いだけだ。たぶんグレアムさんより速いし、俺よりも速いだろう。

 でもまぁ、向こうのやることは打撃のみだからグレアムさんの剣のように一撃必殺にはならないだろうから、脅威度はグレアムさんより低いと思う。


 そんなことが一瞬の内に頭をよぎった直後、セイリオスが俺の間合いに入り込んできた。

 迎撃の拳を放ちたいところだけど、嫌な予感がするのでガード優先で後ろにステップを踏む。

 その瞬間、セイリオスの右足が跳ね上がり、俺の頭めがけて上段蹴りが放たれた。

 俺は腕を上げてガードしているから大丈夫と思った直後、後頭部あたりに衝撃を感じて、体が前に傾く。


 何が起きたかは定かじゃないが、たぶん蹴りの軌道が変化したのだと思う。

 セイリオスの立ち位置が俺の真正面から若干だけど左寄りだったし、腰や膝の動きを工夫すれば角度的につま先辺りは俺の後頭部に接触するだろうし、それが当たったんだと思う。

 ここで下手に前に出ていたら、セイリオスが俺の横に立つ形になって、頭に当たったのはつま先だけじゃ済まなかったと思うから、良しとしよう。


 俺は傾く身体に対し、足に力を入れて踏ん張り、こらえると反撃に拳を放つ。

 真っすぐの軌道ではなく、拳を横から顔に当てる軌道だ。


「そういうパンチはフックと言うらしいぞ」


 既に蹴った足を戻していたセイリオスは頭を後ろに下げ俺の拳を躱すと、反撃に真っ直ぐの軌道で右拳を放つ。


「そしてこれはストレートだそうだ」


 ゴチャゴチャと蘊蓄がうるせぇ。そんなの俺だって聞いたことあるっつーの。誰にどこで聞いたか忘れたし、思い出したのも今だけどな。

 ガードしてもマトモに当たると腕の骨が折れそうな予感がするので、俺はその拳を腕の表面で滑らせるように受け流すと、セイリオスの腹にえぐりこむように拳を叩き込む。


「じゃあ、これはなんだ? 黙ってないで教えてくれよ」


 身体折れ曲がって苦しそうだし、喋れなさそうだけどだから、別に答えてもらわなくてもいいんだけどさ。

 俺は苦しそうなセイリオスの顔面に向けて、セイリオス曰くフックと言うパンチを放つ。だが――


「さっきのは一般的にはボディブローだ」


 ダメージを食らったのは演技だったのか、セイリオスは俺の拳を防ぎ、逆に俺の顔に拳を叩き込んだ。


「僕の所にいる異世界人は少し格闘技に詳しくてな。といっても、知識だけのド素人だが。まぁ、知識だけでも知っていれば、そこから僕が何か着想を得られるし充分だ」


「――そいつは、良かったな」


 残念ながら一発殴られただけじゃ、倒れないんです。口の中は切ったけどさ。

 俺はパンチを食らってよろめいた状態から立ち直り、セイリオスに殴りかかる。


「やはり他の雑魚とは違うな。幼い頃から無茶ばかりしていたせいで、肉体にかかっている補正がケタ違いだ」


 俺の右拳を左の掌ではたき落とすようにして防ぎながら、セイリオスは右拳を俺の顔面に当ててくる。

 重い一撃ってわけではないのに、やけに頭に響く。なんだっけ、ジャブだっけか、このパンチ?

 誰かに習ったような気がするんだけど――


「だから、僕の拳にも耐えられる。他の奴が一撃で死ぬものでもな」


 拳を受けたことで俺の動きが鈍ると、そこを狙ってセイリオスが動く。

 まずは左の拳を軽く当て、俺の動きを制すると、即座に渾身の右拳を俺の顎先に真っすぐ打ち込んだ。。


「どうした? 反撃してもいいんだぞ?」


 そんなことを言いながら、セイリオスは俺に向けて上段蹴りを放った。

 こんだけ殴られれば、言われなくても反撃はするよ。

 スゲー痛いし、体はフラフラするけど、倒れるようなダメージじゃないしさ。


「じゃあ、お言葉に甘えて――」


 飛んできた蹴り足を俺はガードしながら受け止め、そのまっまセイリオスの足を掴む。

 そして、掴んだ足を引っ張ると、それを振り回してセイリオスの体を床に叩きつける。

 床に叩きつけられたセイリオスは受け身も出来ていないので、体には相当な衝撃があったはずだが、平気な様子で、もう片方の足で、足を掴む俺の腕を蹴飛ばし、手を外させてきた。

 俺の手から逃れるとセイリオスは即座に立ち上がるが、それを見過ごすほど俺も悠長じゃないわけで――


 起き上がった直後のセイリオスに向けて力を込めて右の拳を叩き込んだ。


 咄嗟に腕を上げてガードするセイリオスだが、それはあまり良くない選択だ。

 俺の拳を真正面から受けたセイリオスの腕からミシリという音が聞こえ、俺の拳によってガードしようとしていた腕が弾かれる。


 俺は続けざまにセイリオスに向かって左の拳を放つ。

 その拳は、何の妨害もなくセイリオスの顔面を捉え、その体をよろめかせる。


 更に俺はもう一度右の拳を放って、セイリオスにトドメを刺そうとした。

 だが、その一撃はセイリオスのカウンターの右フックと相打ちになり、お互いの体が衝撃にのけ反る。


 互いに体勢が崩れた状態だが復帰するのは俺の方が早く、セイリオスが体勢を立て直すより先にその腹にめがけて左拳をえぐりこんだ。

 しかし、その一撃をセイリオスは腹筋に力を入れて耐えると、すぐさま反撃の拳を右、左と連続で俺の顔に打ち込んできた。


「調子に――」


 セイリオスが何事か言っているが、何発もパンチを食らっている状態では聞いている余裕はないので俺は強引に距離をつめてセイリオスの体に組み付き、密着した状態で腹を殴る。

 腹筋に相当な力を入れているだろうが、それでも耐えきれないのか、くぐもった声を上げるセイリオス。

 引き剥がそうとしても俺の方が腕力自体は上のようで思うようにいかないようだ。


 俺にとってはチャンスであるこの状況。今のうちになるべくダメージを稼いでおこうと俺は組み付いた体勢のまま、セイリオスの腹を殴りつつ、壁際へと押し込む。

 すぐに、セイリオスの背中が壁につき、セイリオスの動きにさらに制限がかかる中、俺は組み付いた状態で更に二発三発とセイリオスの腹に拳を叩き込む。


 何発も殴っているうちにセイリオスの体から力が抜けていく。

 俺はとどめを刺す機会だと思い、密着を解くと、大きく振りかぶり力を込めた一撃を弱ったセイリオスに放った。だが――


「いい気になるなよ――」


 弱っていたのは演技だったのか、セイリオスは目を見開き、俺の拳を躱すと、パンチを放って伸びきった俺の腕を掴み、俺の体を引き付けるようにして肩に担ぐとそのまま投げ飛ばした。

 どこで聞いたかは忘れたけど背負い投げだったか、そんな技だったような。

 投げ飛ばされる中でそんな記憶が脳裏をよぎる。だが直後に俺は背中を強打し、現実に引き戻された。


 セイリオスが投げ飛ばした先は奴が背中を付けた壁で、俺はそこに激突したようだった。

 どういうわけか、俺の体が壁から落ちずに逆さまの状態であるのを見ると、俺の体が壁にめり込んでいるのかもしれない。

 一応、壁は石材でできているはずなんだが、それにめり込むとかどんな勢いで投げつけたのだろうか分かったもんじゃない。まぁ、石に叩きつけられるよりもセイリオスに殴られた方が遥かに強烈で耐えられる範囲だから問題ないけど――


 そう思った矢先にセイリオスが、俺に向かって背中を見せながら一回転した蹴りを叩き込む。

 壁にめり込んでいた俺は避けることも出来ずにそれを食らい、その威力に一瞬だが意識が飛び――


 ――気づいた時にはさっきまでとは違う床の上に転がっていた。

 辺りを見回すと壁に大穴が空いていて、その穴からセイリオスが姿を現す。

 たぶんだが、蹴られた衝撃で壁を突き抜けて別の部屋に来たってことかな?

 全身がすげぇ痛いんだけど、どんだけ全力で蹴ったんだよ。


「うっかりと手を抜くのをしくじってしまったが平気そうだな。これからはさっきと同じくらいの力を込めよう」


 マジかよ、それなら俺ももう少し力を入れちゃうけど良いんでしょうかね?

 駄目って言われても、無抵抗で殴られるのは嫌だから力を入れますけどね。


 全身の痛みを回復魔法で治し、俺は立ち上がる。

 魔法の使える回数は少ないから、なるべく攻撃は受けたくないんだけど――


「半殺し程度には収めてやるよ、アロルド」


「俺はぶち殺すかもしれないから覚悟はしとけよ、セイリオス」


 ――そうも言ってられないかもしれないね。







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