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腕を組んで歩ける日まで  作者: 未田
第10章『悔やまないために』
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第28話

「のんちゃん……これまで黙っていて、ごめんなさい。私、結婚してるの」


 志乃が微笑む。冗談めいたものではなく、どこか自嘲気味に希未には見えた。

 そんな彼女の右手には、小指にイエローゴールドの指輪が嵌っていた。たった今、誕生日プレゼントとして贈ったものだ。

 爪の装飾はおろか、志乃が指輪を嵌めているところを、希未はこれまで一度も見たことがない。だが、左手薬指に嵌めた経験がこれまでにあるのだろうと、ぼんやりと思った。


「……」


 希未は志乃の言葉が理解できない。否、受け止められない。

 出会ってからずっと、志乃を自分と同じ独身女性だと思っていた。この部屋でひとりで暮らし――猫を飼っていることからも、印象は強かった。

 だが、一方的な思い込みだと言えば、それまでだ。本人に訊ねて、確証を取ったわけではない。

 それに、志乃が謝罪をしていることからも、騙す意図や後ろめたさはあったのだろう。


「どうして……」


 希未に失望感が込み上げる。せっかく誕生日を祝っていたのに、泣き出しそうな表情をしている自覚がある。

 黙っていたこと、もしくは既婚という事実、或いはそのどちらも――何に対しての失望なのか、わからなかった。


「全部、話すわね」


 ソファーで隣に座る志乃が、改めて希未に向き合った。


「のんちゃんになら、話せるわ……。ううん、聞いて欲しいの」


 希未としても、解せない点はいくつかある。

 既婚であることは、おそらく事実だ。だが、どうして現在はひとりで暮らしているのだろうか。どうして黙っていたのだろうか。

 それらを含め、志乃の過去を知らなければいけない。これまで避けてきたのは志乃だけではなく、希未もだった。このような場面になり、ようやく心の準備が整った。


「はい。よかったら、話してくれませんか? 成海さんがどうして転職してきたのか――あたし、知りたいです」


 突き詰めれば、その理由に繋がるような気がした。


「私ね、学生の頃はお花屋さんでバイトしてたのよ。別に、お花なんて好きでもなくて……そこの主人(おとこ)に恋してた、どうしようもない少女(おんな)だったわ」


 アルバイトの動機など、その程度で充分だと希未は思う。特に珍しい話でもないだろう。

 だが、その先の展開が大体わかってしまった。


「卒業してからは、正式にそこで働くようになったわ。式場と提携してたから、フラワーコーディネーターの勉強もしたの。大変だったけど……大切な人が仕事でも傍に居たから、充実してたわ」


 やはり、希未の思っていた通りの内容だった。

 ふと、澄川姫奈の半生を思い出す。彼女もコーヒーに興味が無いにも関わらず、天羽晶に惹かれてその腕を磨いたと言う。比較をするのはどちらに対しても失礼であるため、希未は口にしなかった。しかし、ふたりが似ていると感じた。


「その人にプロポーズされたんですね?」

「ええ。私の家柄(いえ)が厳しかったから、両親からは反対されたわ。でも、何もかもを投げ捨てる覚悟で飛び出して、私は彼を選んだ。そして、式も挙げて……たぶん、幸せのピークだったんじゃないかしら」


 志乃が教会でこれまでに見せた不可解な言動について、希未は納得した。

 おそらく、駆け落ちとも言うべき悲願だったのだろう。それでも、志乃は結婚式を挙げた『経験者』だったのだ。大切な人と腕を組み、バージンロードを歩いた。

 実際に経験した者として、その視点はブライダル業界で働くにあたり、大きなアドバンテージとなる。だが、希未は――どうしてか、素直に喜べなかった。


「半年ぐらい前に……彼が不倫してるのが、わかっちゃったのよ。だから、ここまで逃げてきちゃった……この子と」


 志乃が、足元に居たルルの頭を撫でる。おそらくは、ふたりと一匹の家族だったのだと、希未は思う。

 全く驚かないわけではないが――ここまで予想していた通りの内容であるため、ただ重く受け止めた。悲しいとしか言えない。


「まだ籍はあるんですか?」

「ええ……一応はね。でも、成海は旧姓よ。職場には事情を説明して、使わせて貰ってるわ」


 成海志乃という氏名は、個を定義し表すための記号だった。これまで『それ』で接してきたため『偽り』でないことがまだ、希未にとっては救いだった。


「どうして離婚しないんですか?」


 そちらに促す意図を込めて、訊ねた。

 ここまで離れた以上、常識的に考えて修復は不可能だと希未は考える。かたちだけではなく、戸籍(つながり)そのものを切り離すべきだと思う。志乃が見えないモノに縛られているのが、不憫だった。

 希未はこれまで、担当した夫婦が離婚したという報告を聞いたことがない。だが、実際に全員が幸せを維持しているのかは、わからない。

 今や、三組に一組の夫婦が離婚すると言われている。その原因として、片側の不貞行為は割と多いとも言われている。希未はブライダル業界の『陰』を、知識として持っていた。志乃が直面しているのは、特に珍しくもない事例だろう。


「わからないわ……。もしかしたら、まだ信じてみたいのかもね……もう何ヶ月も連絡無いのに……」


 志乃が疲れたような顔で、小さな笑みを浮かべる。希未には、自嘲にしか見えなかった。

 そして、本当の気持ちがわからなかった。まだ『彼』を愛しているとも、違うとも――どちらにも捉えることが出来た。詳しい事情を知らないのだから、当然だ。口を挟むべきではないと、理解している。場合によっては、志乃の気持ちを踏みにじることになるのだ。


「別れるべきです! こんなのって……あんまりです」


 しかし、希未は自分の意見を素直に伝えた。瞳の奥が熱くなり、今にも泣き出しそうになっていた。


「私ね……幸せって何なのか、わからなくなってきたのよ」


 志乃が希未の頬に触れ、微笑んだ。

 貴方と一緒ね――希未は、そのように言われているような気がした。かつてサウナで出会った際、確かに同じような弱音を吐いた。


「この子のことも、時々考えるの」


 志乃は希未の頬から、足元に居たルルの頭へと手を移す。


「外の広い世界を知らないまま……狭い部屋にずっと閉じ込めておくのは、この子にとって幸せなのかしら」


 過酷な広い世界で自由に生きるのか、安全な狭い世界で誰かに飼われるのか。ルルと言葉が通じない以上、どちらが幸せかなど、永遠の難題だと希未は思う。他に動物を飼う者達に訊ねても、意見は割れるだろう。

 しかし、希未の意見ははっきりしていた。


「幸せにしたいって、誰かに想われているなら――その人は幸せなんだと、あたしは思います。だから、成海さんの愛情を貰っているルルちゃんは、きっと幸せのはずです」


 天羽晶と澄川姫奈、ふたりから感じたことだった。客観的な『幸せのかたち』を、希未はそう定義した。

 志乃を真っ直ぐ見つめ、強く訴えかける。唇が震えている自覚は無かった。

 そんな希未を、志乃はそっと抱きしめた。


「ありがとう、のんちゃん……。この子だけは幸せで居て欲しいから、そうなら嬉しいわ」


 ルルちゃんだけじゃありません。あたしは、成海さんのことを――

 希未は志乃の胸でそう言いかけるが、声には出せなかった。

 確かに、ここ最近は志乃の御陰で仕事も私生活も充実していた。しかし、志乃を幸せにする自信は無い。

 あのふたりのように――実際は、想うというより覚悟を示さなければ意味が無い。だから簡単に口にすることが出来ず、躊躇した。瞳に込み上げるものは、下がっていた。


「私、もうこんな歳だし……お花しか、生きる術が無いのよ。嫌いなのに、捨てきれない。もしかしたら、それが尾を引いてるのかもしれないわね」


 離婚できない理由のひとつとして、希未はとても納得した。花にも結婚にも否定的だった理由としても、同じだった。なんとも皮肉だと思った。

 つまり、その原因を解決するためには――


「お花を好きになってくれませんか?」


 希未は志乃の胸から顔を上げ、テーブルに置かれたガーベラの花に目をやった。

 これで過去と決別できるのかは、わからない。それでも、そのように希未は願う。偶然にも、誕生日プレゼントに込めた想いと同じだった。


「結局は、良いように向き合うしかないのね」


 志乃は苦笑した。

 今はひとまずそれで構わないと、希未は思う。時間を要するだろうが、志乃が前向きな気持ちで歩けるまで見守るしかない。


過去(むかし)のこと、話してくれて……辛かっただろうに、ありがとうございました」

「ううん。ちょっとだけ気持ちがラクになったわ。まだ長引きそうだけど」

「あたし、応援してますから」


 志乃がこれまで黙っていた内容を、今になってどうして話したのか、希未にはわからない。だが、それだけ信頼されたように感じた。

 出会ってからこれまでずっと、希未は志乃に支えられてきた。立場が入れ替わったように、希未は思った。志乃には恩があるため、次は自分の番だと自覚を持つ。彼女のことは、なるべく支えたい。

 希未が想いを込めて誕生日プレゼントに贈ったのは、ガーベラの花だけではない。志乃の小指に、イエローゴールドの指輪が嵌っていた。似合っているのは確かだが、何気ないアクセサリーとして見えた。

 志乃が幸せなら、華やいで見えるのだろうかと、ふと思った。

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