何もなかった
玉藻との過去の悲しい因縁。
その語りは、フロントからの「延長しますか?」との電話によって中断された。
何時の間にか既に2時間近い時間が過ぎており、慌ててチェックアウトを済ませる。
玉藻に急いで身支度をするように伝え、駐車場まで向かう。
ここでは『何もなかった。』いいね?
繰り返すが『何もなかった。』OK?
しつこいようだが『何もなかった。』とても大事なことだから。
では続きだ。
玉藻はドライバーシートに着座すると
「…実に1000年ぶりであったぞ。」
満ち足りた表情をして、その豊満な胸を掻き抱き
脚を擦りあわせて、甘い吐息を漏らす。
オイコラ!『何もなかった』って強調して念押ししてるのがわからんのか!
玉藻は、ブーたれた顔になって
「…実に1000年ぶりの再会であったな。」
そう言うと、アクセルを踏込みタイヤを軋ませながら道路に出て加速する。
あまりの乱暴な運転に右へ左へと振られる。
「なに怒ってんだ!?お前は!」と抗議すると
「なにしろ『何もなかった』ものでな!」と怒鳴り返された。
ついでにギロリと睨まれた。
そう『何もなかった』。なかったのだから仕方がない。諦めてくれ。
信号待ちの間に無理やり話題を変えるべく話を振る。
「そういえば、この車は最近買ったのかい?」
まだ機嫌が悪いらしく、ジト目で俺の顔を見ながら
それでも質問には答え始めた。
「…まあ、それなりに資産はあるゆえな。と云っても最近のことだがな。」
ふう。と軽くため息を吐いて信号機を眺めながら
「仕方ないないの。」といった風情で話題に乗ってきた。
ようやく優しい顔になってきた。
「雪音さんもキャッシュカード持ってたな。」
またジト目で睨まれた。
「我との、でぇとの最中に他の女の話などするのか?。」
「ごめん。」
彼女はニコリとすると
「素直じゃな。…では許す。」
前へと向き直りハンドルを握ったまま玉藻は語り出す。
「我らも妖怪にもよるが、それなりに資産を持つ者はおる。」
「ふーん」と聞きながら彼女に話の続きを促す。
「知識ゆえだ。」
知識?「そう。知識。」
話題が飛んだような気がした。知識があると資産が築けるのか。
妖怪たちというのは高学歴ばかりなのあろうか?
「ヒトと違い時間は有り余るほどあるゆえな。」
覚えてはおらぬだろうが
我が「玉」であった時は文字など読めなかった。
「いろは」すらわからない。
読めない。書けない。それが当たり前だったのだ。
ヒト在らざる身となって
始めて「字」を覚えた。
「字」を覚えれば「文章」を読むようになる。
「文章」を読めるようになれば「本」を読むようになる
「本」を読んでしまえば、次の「本」を読む。
読み終われば次の「本」。
やがては「数字」も覚える。
「数字」も覚えれば使うようになる。
「計算式」も覚えるようになる。理解する。
やがては様々な遠つ国の「文字」や「言葉」も「考え方」も覚える
それがざっと数百年、千年にも渡って続くことなる。
それらの「知識」が蓄積されてゆく。
それらの「知識」を掛けあわせ使ってみる。
試行錯誤をしてみる。
時には失敗もある。時には成功もする。
そして「経験」を積む。
その「経験」も「知識」として再び蓄積する。
そして、その次の糧となる。
ゆえに「知識」だ。
これで資産が築けねば、おかしいと云うものであろう?
勿論、最先端の科学技術などわからぬ。
哲人や学者の小難しい理屈などわからぬ。
今はな。と玉藻は微笑んだ。
途方もつかない話だった。
普通の人間が一生を掛けて得る知識など高が知れている。
だが、そういう物なのかもしれない。
我々の時間は有限だが、彼ら彼女らにとっては違うのだ。
仕事で英文とかも使わなきゃいけないんだよな。
今度頼んでみようか?
……スーツ着て教師とかしてくんないだろうか?
魅惑の女教師。
「官僚になっている妖異ですらいるのだぞ?」
へえ。因みにどんな妖怪?
「確か財務省に火車とかがいたはずじゃ。」
「今すぐ辞めさせろ!」
車は屋敷の前に停まった。
「今日はこれで別れようぞ。」
彼女は何か迷っていた様子だったが
「雪音のことだ。」
「雪音は、過去の我であり。我が未来の雪音なのじゃ。このことは覚えておいて欲しい。」
「…優しくしてあげて」
玉藻の顔が近づいて、そして唇が重なった。
軽く触れるようなキス。すぐに離れる。
照れるような恥ずかしがるような笑顔で
「『何もなかった』のじゃ。このくらいはあっても良いであろう?」
「…そうだな」
車を降りて玉藻の車が消えるまで見送る。
そして屋敷へと帰る。「ただいま。」と
奥から心配そうな顔をした雪音さんと式神たちがパタパタと駆けて来る。
「どちらへ行かれていたのです?心配いたしましたよ?」
心配してくれていたのか。
そんな彼女が愛おしくなり、そっと抱きしめる。
雪音は、少し驚いたようだが、すぐに俺の胸に顔を預けてきた。
「ごめんね心配かけて。『何もなかった』よ」
雪音は俺の腕の中で抱かれたまま
「……他の女の匂いがします。」
…雪女の嗅覚を、すっかり失念してた。
雪音の言葉を聞いていた式神たちが、クンクンと俺の匂いを嗅ぐまくる
「これは主上様の匂いでござりまする。」
キミ達お黙りなさい!
「大丈夫。『何もなかった』んだよ。」
そっと彼女の甘く芳しい髪を撫でて梳いてやる。
「誤魔化されませんよ?。」
底冷えのするような声が腕の中から聞こえてきた。
何もなかった!( ・`ω・´)




