第20話 条件

「ハッ! フンッ! チェァッ! ……っと、ふぅ～。こんな所かな。朝練終わりっと。フフッ、今日はいい天気になりそうだわ」

　ローズは額に流れる汗を手で拭いながら清々しい笑顔で、訓練場の窓に差し込む登り始めた朝日の光を見てそう呟く。

　運命のあの日から数日が経っていた。

　その間、イケメン達と楽しく過ごしたり、来る没落の日に備える為に使用人達との交流、そして先日思い知ったゲーム内では表示されていなかったこの国の歴史、主要貴族達の名前や派閥、果ては民衆文化等を学ぶべく、フレデリカを家庭教師に勉学に励む毎日である。

　それともう一つ日課が出来た。

　始祖が救国の英雄と称えられている程の武人の家系であるシュタインベルク家の敷地には、当然の事ながら自らの肉体を鍛え上げる為の訓練場が建てられている。

　屋敷の衛兵達も利用する施設では有るが、こんな早朝から訓練する者は居ない。

　別に屋敷の主人である伯爵が数日前に隣国の使者として出立したからと言って気を抜いている訳では無く、元々伯爵が今の時刻頃に起きて来て、ここで一人鍛錬を開始するのが日課であった。

　衛兵達も主人の手前、伯爵から剣の訓練相手として望まれるならば、喜んで主人より早くこの訓練場に馳せ参じるのだが、なにぶん伯爵は一人で黙々と鍛錬するのが好きであった。

　その為、衛兵達は邪魔をしたら悪いと、伯爵が一汗流し練習場から上がる頃に入れ替わる様に訓練を開始するのが通例となっていた。

　だから今この広い訓練場に居るのはローズだけ。

　そのローズが何をしていたのかと言うと、彼女が言った通り朝練を行っていたのである。

　元の世界での彼女は母方の祖父が剣術の師範であった事から、幼き日よりその道場に通っていた。

　それにより小中と数々の大会で華々しい成績を収めてきた野江 水流だが、高校に入学し二年に上がる際に引退する事になる。

　理由は生徒会が兼部禁止であったからに他ならないが、それでも早朝の鍛錬は続けていたのであった。

　ただ、二十五を過ぎた頃だろうか。

　『あれ? もしかして筋肉ガチガチで引き締まった身体より、ちょっとくらい脂肪が付いている方が男(王子様)受けするんじゃない? だってお姫様ってプニフワって感じだし』と友人が一人また一人と結婚する姿を見ている内にそう思う(トチ狂う)ようになり、最近は女らしさに磨きを掛けると言う理由で朝の鍛錬をサボりがちとなってしまった。

　そこでローズの身体である。

　このローズの身体、ゲーム設定でも性格はさておき、両親共に美男美女であると言う恵まれた遺伝子の恩恵を余す所無く受け継ぎ、更にはその体形においても特に磨く事無く国宝である女神像に匹敵する一級品であると言うふざけたもの。

　プレイしている最中に何度もこの解説が出る度にイラッとした野江 水流であったが、それが今や自分の物となった。

　本来ならこのまま何もしなくとも体形は維持出来るのであろうが、そこは本来根が真面目な野江 水流にとって男受けする理想の体型を手にした事によってサボる理由が無くなったので、なんとなく朝練を再開する事にした次第である。

　しかし、理由はそれだけではない。

　これも先日思い知ったのだが、このローズの身体は美貌やプロポーションだけで無く、父方である武人家系の血を濃く受け継いでいる事実を野江 水流は感じ取っていた。

　自身が剣の道以上に血の滲む思いで習得した一流貴族としての姿勢や立ち振る舞いに体重移動。

　それなのにこのローズの肉体は特に努力の跡など見られないと言うのに元の鍛え上げられた自身の身体に近いパフォーマンスを発揮したのだ。

　特に体幹の素晴らしさは筆舌に尽くし難く持って生まれた才能としか言えない。

　フレデリカにそれとなく確認したが、やはりローズはこれまで全く身体を鍛えるどころか、この訓練場の門をくぐった事さえないらしく、それを聞いた野江 水流はその素晴らしき才に嫉妬さえ覚えた。

　『そう言えば……』と、実際ゲーム中にその片鱗を匂わす描写は多々有った事を思い出す。

　それはこのゲームの冒頭、初めてエレナがこの屋敷に来た時の事だ。

　豪華絢爛な屋敷の装飾に目を奪われたエレナは階段を上る際に足を踏み外して階段から転げ落ちそうになるのだが、それをローズがお姫様だっこの形で受け止めると言う出会いイベントが発生する。

　その時は物語ではよく有る衝撃的な出会いを演出する大袈裟な描写だと思って特に気にしていなかった。

　それ以外にもドジっ子設定であったエレナは、ゲーム中にも日々の仕事タスク結果で失敗判定になった場合、様々な事故に遭遇するイベントが発生する。

　各種パラメーターが高ければ事故は回避される場合も有るのだが、低い内は容赦無く様々な行動抑制デバフが二日間付与され、場合によってはそれが元でゲーム進行が大幅に狂いバッドエンドへの直行便になる事もあるので笑えない。

　ただ、それぞれの攻略対象との親交値が一定以上溜まっている場合は、その人物が颯爽と現れ華麗に救出し更には成長バフが付くと言うイベントへと変化するので、親交値がマスクされているこのゲームにおいて現在誰が一番親交度が高いのかを知るラッキーイベントにもなっていたりする。

　事故イベントの例として壁の掃除をしている際に梯子から落ちる、上の階から鉢植えが落ちて頭に当たる、池に嵌っておぼれる等々、バリエーションに飛んでいた。

　また極稀に発生する大失敗判定ともなるとそれが元で死亡エンドになる事もありまだパラメーターが低かったゲーム序盤では『よく今まで生きて来れたな、こいつ!』と言う言葉が怒りと共に口から放たれたのは一度だけじゃない。

　因みに失敗判定でのデバフだがそれは何も直接的な怪我によるものではなく、何故かローズが救出に現れその後に発生する叱咤とお仕置きによって発生すると言う物だ。

　その際のローズの憎らしさと言えばスキップ機能が無ければ確実に一人目クリア前に心が折れていたと思われる。

　ただローズによる救助方法は攻略対象によるスマートな物ではなく、ゲーム冒頭と同じようなお姫様だっこだったり、鉢植えをパンチで殴り飛ばしたり、釣り竿で一本釣りしたりとストレートに力技であった。

　改めて野江 水流はそれらのシーンを思い返したが、あれはただのギャグ描写じゃなくローズの身体能力の凄さを暗に語っていたのだろうと思い至った。

　『ならばっ! ならばよ! こんなに宝の持ち腐れなんて勿体無いじゃない。何処まで強くなるのか楽しみだわ～』

　数日のトレーニングだけで、既に元の身体の70%の実力を取り戻しており、自身が才能の壁として諦めていた100%のその先を今から心待ちとしていたのである。

　『……あれ? ローズのお仕置きシーンが精神的にきつかったから気付かなかったけど、エレナってローズに命を助けられ過ぎじゃ……? それなのに感謝もせずにローズからイケメン達を奪うだなんて酷い裏切りだわ!』

　立場が変われば思いも変わる。

　まだ起こってもいないイベントの数々を思い出し、新たに主人公をバッドエンドに叩き込む闘志を燃やす野江 水流であった。

　　　　　◇◆◇

「ん～、もうすぐ夏だし早朝でも暑くなって来たわね。丁度この国も日本の梅雨みたいに雨期なもんだから湿度が高いわ。服も汗でびしょびしょ……」

　練習で身体を動かしている時は、それ程気にならなかったのだが、練習も終わり身体のクールダウンをしていると汗で濡れた練習着が段々と不快に感じてきた。

　顔や腕はタオルで拭ける物の、濡れた服のままじゃ不快感までは拭えない。

　ローズはキョロキョロと辺りを伺い、誰も居ない事を確認するとおもむろに上着に手を掛けた。

　誰も居ないなら服を脱いでタオルで身体を拭いてしまおうと思ったからだ。

　幸いな事に、着替えの普段着は持って来ている。

　それは更衣室に置いているが、狭く締め切られた換気の悪い更衣室よりもこの広い訓練場内で身体を拭いて、そのまま真っ裸で更衣室に行けば快適なのではと考えた。

「よいしょっと……」

　上着の下からその裸体が露わになろうとした時……。

「お、お嬢様!! ダメです!! お待ちになって下さい!!」

「え?」

　急に訓練場の玄関が開き、フレデリカが飛び込んで来た。

　手には新しいタオルと、バスケットを持っている。

　ローズはあまりの驚きから動きが止まった。

「ど、どうしたの、フレデリカ。びっくりするじゃない」

　必死の形相のフレデリカに驚きながらものんきに声を掛けるローズ。

　体育会系で育って来た為、裸だとて同性なら特に気にする事も無い。

　『う～ん、なぜフレデリカがここに居るのか分からないけど、貴族の娘って人の目が無くとも裸になったらダメな物なのかしら?』

　そう思い、貴族の不便さに少しため息をつく。

「どうもこうも有りませんよお嬢様。それよりあなた達! そこで覗いてるんじゃありません!!」

　のんきなローズに対して、フレデリカは相変わらずの形相で、訓練場の裏口の扉の方を睨み付け大声で怒鳴る。

　ローズは『あなた達?』とフレデリカの言葉の意味が分からず、フレデリカの目線の先に顔を向けた。

　フレデリカの目線の先に有る裏口の扉は少し開いており、外の光が差し込んでいる様だ。

　『あれ? さっきまであんなに光が差し込んで来ていたかしら?』と思ったのだが、よく見るとその光はその向こうに幾人の人が居るであろう事が分かるような影がチラホラと動いているのが分かった。

「ヤバっ! 見付かった!」

「おっ、押すなよ」

「あっ、うわっ」

　バタンッ、ドタドタ。

　内開きの扉が音を立てて開き、そのまま数人の男がなだれ込んで来た。

　服を捲り上げ様としているローズと、その男達の目線が合い数秒沈黙の時が流れる。

「きゃぁぁぁぁぁぁーーーー!!」

　いくら体育会系とは言え、肉親以外の異性に裸を晒す機会など皆無だった野江 水流は恥ずかしさのあまり悲鳴を上げた。

　その悲鳴になだれ込んで来た男達の顔が真っ青に染まりガタガタと震え出す。

　それは昔のローズの性格を知っているのその男達にとって、ローズの怒りを買うと言う事がどう言う意味が有るのか知っているからだ。

　いや、それ以前に婚姻前の貴族令嬢の裸を覗くと言う許されざる破廉恥な行為でもある。

　問答無用で死刑宣告されてもおかしくない程の大罪だ。

「も、申し訳ありません! お嬢様っ!!」

　男達は一同整列して皆綺麗な土下座の体勢を取り大声でローズに謝った。

　許される事など無いとは分かっていても、せめて一族郎党まではその咎が及ばぬ事を願って……。

　　　　　◇◆◇

「で、あなた達は私が最近訓練場で何かしているのを知って、心配になって見に来ていただけだった。そう言う事?」

「はいっ! け、決してお嬢様のお着替えを覗こうなどと言う大それた事は……」

　男達は土下座したままその様に説明する。

　覗いていた男達は屋敷の使用人や衛兵達だったようだ。

　言い訳なんて聞いて貰える筈も無い事を百も承知ではあるのだが、自分達の本心だけは伝えたいと理由を説明する。

　彼等は本心から最近一人で早朝から訓練場に赴いているローズの事に気付き、怪我でもしないかと心配になって見に来たのであった。

　これに関しては元のローズだろうが今のローズだろうが関係が無い。

　ただ現在の彼らの心には大きな違いが存在していた。

　元のローズであったなら、怪我でもしようものなら関係無い人物まで巻き沿いにして首にされる恐れが有る為だったであろう。

　だが今のローズに対しては別の思いが生まれていた。

　それは短い期間ながらも彼女の口から齎された通り生まれ変わったとしか思えない素晴らしい貴族令嬢として申し分の無い……いや、それどころか古い者なら知っているまた新しい者なら噂で聞いた『慈愛の聖女』として名高いローズの母を思わせるその行為の数々に心を開き出していた為、純粋にローズの事を心配と思っていたのだった。

　だからこそ、その着替えを覗く等と言う汚す様な行為をした事に自ら恥て、厳罰若しくは裁判にて死罪も止む無しと諦めている者も居る。

「分かりました。なら不問としましょう」

「えぇーーーー!?」

　死さえを覚悟していた者達は、あっさりと自分達を罪に問わないと言い放ったローズに対して皆驚きの声を上げる。

　そんな事有る訳無いと、頬を抓る者まで居た。

　自分達がした事は庶民が貴族の娘の着替えを覗くと言う大罪なのだ。

　それを「不問にする」などと言う貴族が何処にいるのか。

「お、お嬢様。何を仰られるのですかっ! この様な辱めを許すなどあまりにも非常識過ぎます」

　ローズの言葉にフレデリカがそう声を上げた。

　被告人である使用人達もその言葉に頷いている。

　それを少し呆れた顔して溜息をついたローズは口を開いた。

「だって、私が皆に何も言わなくて勝手に訓練場を使用して心配掛けた事が原因ですもの。それに誰も居ないと思って汗に濡れた服を脱ごうとした私がはしたなかったのだし、これで誰かに罪を問うなんて事出来ないわ」

　そう理由を説明すると、今度はフレデリカがため息をついた。

「お嬢様がそう言うのでしたら仕方有りません。……ちっ、皆に拷も……お仕置きするチャンスでしたのに……」ボソッ。

「え? フレデリカ何か言った?」

「い、いえ、何でも有りません。あなた達! お嬢様の寛大なお心に感謝するのですよ」

　フレデリカはローズからの問い掛けを誤魔化しながらいまだ土下座状態の使用人達にそう放つ。

　ローズには聞えなかったフレデリカの最後の言葉が聞えていた皆は、ローズの優しさに感涙しながらもフレデリカの隠れた恐ろしさに背筋が冷える思いだった。

「あっそうだ! 今許すって言ったけど、一つ条件を出していいかしら?」

「ひっ!」

　突然思いついた様に声を上げたローズの言葉に一同悲鳴を上げた。

　不問になったとホッと胸を撫で下ろしていた皆にとって、上げて落とすとでも言う様な不意を突く死刑宣告。

　皆は『やはり、性悪令嬢は性悪だったのか』と心の中で絶望した。

　何を言われるのだろうかと戦々恐々と息を飲む使用人達。

　それに比べて、ローズの顔は何故だか嬉しそうだった。

　『逆にその笑顔が怖い』と皆は恐れおののいた。

「えーと、その条件は……」

「じょ、条件は?」ゴクリッ。

「腕に覚えのある人で良いわ。私の練習相手になって貰えないかしら?」

「えぇぇーーーーーーっ!!」

　誰一人予想もしていなかったその言葉に、訓練場内に響き渡る程の大きな驚きの声が綺麗にハモった。