十一
雨上がりの夕暮れ時の空は暗く重く、鉛色の雲は今にも空から落ちてきそうで、この町の冬の訪れはいつもどんよりと暗い。世界が閉じてしまうのではないかとそんな風に思わせる空だ。
時折道を塞ぐ水溜りを迂回しながら、私と落葉はゆっくりと帰り道を歩いていく。
空が暗く陰ると落葉の白い肌の色は病的なほの暗い色に見えて、人形のようなぞっとする冷たい美を放つ。つやつやと赤い唇だけがまるで別の生き物のように時折言葉を紡いでいる。
話すのはたあいのない愚痴ばかりだ。私が菅帳の愚痴を漏らしたり、落葉が新平先生が無視しても話しかけてくる辟易と語ったり。そんなことばかりを飽きることなく、何年も、何年も続けている。誰も知らない、そんな落葉の一面を知っている事を、私は誇らしく思う。
特別な人の、特別。
大きな水溜りを避けて、歩道に戻ろうとしたところで、落葉の手首に私の手が軽く触れた。硬質な手触りを感じてそちらに目を向けると、落葉の手首には、あの、おば様からの贈り物の腕時計が巻かれていた。
落葉の折れそうな細い手首に、その簡素な飾りの腕時計はよく似合っていた。
「落葉、その時計つけてたんだね」
「ん、まぁ、なんだかんだ、携帯もないし、時間わからないと不便だから」
いいながら落葉は文字盤を見つめてそれをそっと指でなぞる。
「似合ってるよ」
「そう? ん、まぁ、ありがとう」
はにかみながら微笑を浮かべるその姿は本当に嬉しそうで、やっぱり、落葉もおば様のことが好きなんだとわかる。嫌っているわけじゃない。むしろ逆で。
「おば様にちゃんとお礼言った?」
私がそう聞くと、落葉は一転して、きゅっと口を轢き結び苦い顔をして困ったように俯くと、小さな声で答えた。
「まだ……」
泣きそうな、子供みたいな声だ。
「おば様と会ってないの?」
「家にはこないし」
私の家には来るのに、落葉に顔を会わせることもできないなんて、先生の家の家族とはやはり違う。でもそれはしかたがないことで、一歩を踏み出すことは、怖い。とても勇気がいる。何かが、誰かが変えてくれないかと期待してしまう。そんなことあるはずがないのに。
「落葉はおば様のこと嫌い?」
「嫌いじゃない」
「今の境遇を恨んでる?」
「恨むわけがない、だってこれは、私が選んだんだから、私が自分で選んだ道だから。きっかけはお母さんだったかもしれないけど。私は、今のこの私が、本当の私だから。望んで可愛くあろうとして、そう有るのに、恨む理由なんてないよ」
足を止めて、落葉は俯きながら言葉を、ぽろぽろと零す。普段の凛とした落葉とは違う。弱いその姿は歳相応の子供そのもので。特別な鏡像の姿はそこにはない。
「じゃあ、ちゃんと、落葉の気持ち、おば様に伝えないと」
「無理よ、だって、私はどうあっても今のこの私でしか、いられない。お母さんに迷惑かけちゃう。だからこうやって一人暮らしになったのに。私が普通にならないと、でも、普通の私でも男じゃきっとお母さんは受け入れてくれない。どうしようもないでしょう?」
「大丈夫」
私は落葉を抱き寄せて、その頭を撫でる。
細く華奢で暖かい体。
冷たく滑らかで柔らかい髪の感触。
甘いコロンの香り。
美しい生き物をぎゅぅと胸に抱いて、落ち着かせるようにそっと、撫でる。
「大丈夫だよ落葉。だって、その時計、おば様がくれたんだよ。落葉が携帯を持ってないのを知ってるから、腕時計にしたんだと思うけど、落葉に似合うように可愛い、女物の腕時計にしてくれたんだよ? ちゃんと落葉のことを、わかって、認めてくれてるからその腕時計をおば様は選んだんじゃないの?」
ゆっくりと言い聞かせるように囁く。
落葉は黙ったまま震えて、ただ呆然と腕時計を眺めている。
しばらくそのまま時間が過ぎる、時が止まってしまったかのような静寂。
終わりは突然で、落葉が軽く弾みをつけて私から離れる。まだその顔には複雑な表情を浮かべて、困ったように眉は下がっている。
落葉が歩き出す、私はその隣を歩く。
落葉が伸ばしてきた手を私はそっと掴む。
冷たい手のひらを二人で暖め合いながらゆっくりとゆっくりと歩いていく。
とぼとぼと長いひび割れたアスファルトの道を歩いていくと、いつもの、別れ道にたどり着く。
二人で足を止める、目を会わせることなくただ、繋がれた手を見つめていた。ぎゅぅっと一度だけ、強く手を握り合うと、落葉はぱっと手を離していつもの澄ました表情で歩いていく。
私はその寂しげな後姿を見送って、見えなくなると、自分の家に向けて歩き始めた。
再び、タイムセールのため買い物に出かけて少し遅くなって帰ってくると、珍しく既に母が帰っていた。靴があってスリッパがないからそれとわかる。キッチンへと向かって買ってきたものをしまい、自室にもどって着替えを済まして、再びキッチンに立っても、母の気配を感じない。恐らく自室で仕事をしているか、横になっているか、あるいは暇つぶしでもしているのか。母は家に居ても気配が薄い。
冷蔵庫の中をざっと見て、扉を閉じて、さて晩御飯を何にしようかと考える。今日買ってきた鶏肉は後日から揚げにするとして、今日は先日かってきて冷凍した鮭でホイル焼きにでもしようと決める。一品決まればあとは栄養や彩のバランスを考えて、レシピを捲る。
作る物さえ決まってしまえばあとは流れ作業だ。
包丁とまな板を取り出して、適当に調理をしながらふと、母の事について考える。
昔はこれほど気配の薄い人でもなかったような気がする、今でも目の前に居れば独特のオーラというか、若々しさとでも言うべきか、そういうものは感じるのに、家で顔を出していない間はどうにも影が薄い。思えば私が家事をしだした中学生頃からだろうか。
仕事のできる母が会社で徐々に頼られるようになり、忙しくて家を空けるけることが多くなって、自然と家事を覚えた。最初の頃料理ができるようになって母に褒められたあの嬉しさは今でも忘れていない。今だって、母や落葉が、おいしいと私のご飯を食べていってくれるのは素直に嬉しいものだ。たとえレシピを見れば誰でも作れるようなものでも。
菅帳や、新平先生の家のようなとても仲のいい母娘というわけでもないけれど、特別というほどでもなく、世間的には我が家だってありふれた家族の形なのだと思う。母の事をたまにだらしないとか、家事もできないなんてと思わなくもないけれど、母が女手一つで私を育ててくれたから今の私があるわけだし、女性の身一つでこうして家を買い、私を養うその労働力は素直に尊敬するに値する。
なんだかんだ私もマザコンなのだなぁと思う。
こういう帰りが早いときしかあまり話すこともないけれど、母は私の話を聞いてくれるし、私も母の話を聞く。そうして顔を合わす時間が短くても、互いのことはよくわかっているつもりだ。
料理がそろそろ完成するといった頃合で、ダイニングの扉が開く。目を向ければ母が軽く体を伸ばしながら入ってきたところだった。
「いいにおいね何作ってるの? もうお腹がすいちゃってさ。手伝うことある?」
「すぐできますから、余計なことせずに座っててください」
どちらが親でどちらが子なのか、まったくあべこべな台詞をに軽く笑って、私は問う。
「お部屋でお仕事ですか?」
「まーね、ちょっと急な出張で明日からしばらくいないからその準備もあって」
本当に急な話しに少し驚く。とはいえこれも昔からのことだから、私が心配するのは冷蔵庫の中身の消化のしかただけだ。
「どれくらい空ける予定なんですか?」
「三日は帰らないと思う、遅くても一週間はないと思うけど。ちゃんと毎日連絡はいれるから」
「はいはい、キチンとお仕事がんばってきてくださいね」
「ほんと、柚子には家のこと任せきりで、悪いわね」
「出来る人がやるのが一番でしょう」
落葉とおば様は、こうして互いに言葉を交わさないから、どんどん離れていってしまうのだ。少しでもいいから、話さないと、その距離は取り返しのつかないものになってしまう。そんな気がする。
「どっちが親だかわからないわねぇ本当」
笑う母と先程の私の思考が被った事に、やはり親子なのだなぁと、しみじみと思う。自然と笑いが漏れた。
「なによ急に笑い出して、変な子ね」
「いえ、お母さんはやっぱりお母さんなのだなぁと、私は私で子供なのだなぁと」
「当たり前のこと言って、大丈夫? 熱でもある?」
「大丈夫ですから、ほらもうできますからお箸だけ出してください。食器には触らないで」
「流石に私でも食器割ったりはしないわよ、失礼ね」
毎日、とまではいかないものの、何度だって繰り返してきたような光景に私はほっとする。きっと私達親子は歳をとってもこのまま変わらない気がする。それでいいのだ。家族とはそういうものなのだとなんとなく思う。
だから、落葉にも、きちんとおば様と仲直りをしてほしい。
落葉は今、この時間、どうしてすごしているだろうか。
あの誰も居ない家でひとり寂しくご飯を食べているのだろうか。
特別な貴方にも、私は、普通の安らぎが必要だと、そう、思う。
錆び付いた車両がガタガタと揺れる。今にもバラバラになってしまうのではないかと不安になるくらいに揺れて、夜の闇を中を走っていく。携帯の時計を見ればもう二十一時を回っている。こんな時間に汽車に乗るのは初めてのことで、ガラガラの車両に不気味なものを感じながら私は真っ暗な外を見つめている。
我が田舎では電車は未だ通っておらず、未だ呼称は汽車のままである。
呼称に負けず劣らず古い車体はさびつき、老朽化の後がとこどころに伺える。よくもまぁ未だに走っているものだと感心するばかりである。
もうかれこれ、一時間以上ゆらゆらと揺られて、随分と退屈な気持ちになってくる。外とは違い、車内は暖かく、コートを着込んできた私には少し暑いくらいで、晩御飯も済ませて出てきたものだから、若干眠気すら感じる。
あくびを一つ噛み殺し、車内にそろそろ次の駅に止まるというアナウンスが流れる。
窓から外を覗けば先程まで真っ暗なあぜ道と田んぼが続いていた風景は、いつの間にやら半端に明るく、遠景は闇に沈む街中へと変わっていた。
私は時間を確認して、予定通り、遅れなくついたことにほっと安堵しながら、扉の方へ向かう。
しばらくして、汽車が止まって、ドアが開いても乗り込んでくる客はいない、私はホームに降り立つと、車内との温度差に一度身を震わせて、ゆっくりと歩き出す。
改札を抜けて、構内に入っても人はあまり居ない。ここら一体では、一際大きな街なのに、夜がそれほど賑わわないのは、若者が少ないせいか。駅に併設されたコンビニにはみやげ物や駅弁などが申し訳程度に置かれていて、私はそれらをスルーして暖かいコーヒーを一本買うとそのまま駅の外に出る。
駅の前のタクシー乗り場にはさすがに多少なりとも人はいて、タクシーがやってくるたびにその人数を減らしていく。駅前に広がる小さな商店街の入り口は閑散としていて、明かりは灯っていない。少し離れた通りでは明るくネオンが輝き、道行く人を捕まえようと、おじさんやおばさんが声をかけているが、あまり積極性はない。時折顔見知りらしき人がくると軽く話しこんで、一緒に店に入っていく光景がちらほらと見て取れた。
行きかっていく人々を眺めながら私はちびちびとコーヒーを飲む。
そうして時間を潰しながら待っていると、駅に私が先程乗ってきたのとは反対方向からやってきた、特急列車が入ってきた。すっかり冷たくなった空き缶をゴミ箱に放りいれて、私は改札を抜けてくる人々に視線を向ける。やはりそこを抜けてくる人の数は少なく、仕事帰りらしきおじさんや、大きな荷物をもったおばあさん、それにギターケースを担いだ若い男の人なんかが、通り過ぎて、そうして、汽車は再び駅を出た。
時刻表と時計を交互に確認して、次に入ってくる普通列車でダメだったら、今日の所は諦めようとと思って、再びコンビニに入る。店員が怪訝そうな目で見てくるもののすぐに態度を改めていらっしゃいませと気だるげに声を出す。
肉まんを買って再び人の流れに目を向けながら肉まんにかじりつく。食べ終えてごみをすてて、それから十分ほど。再び、古い車体がガタガタと音を立てながら駅のホームへ入ってくる。
顔を上げてホームの方を見つめていると、スーツ姿の若い女性が改札を抜けてくるのが見えた。私は立ち上がると改札の前へと歩いていく。相手も私に気がついて、すぐに足を止めた。
「柚子ちゃん?」
「お久しぶりです、おば様」
落葉のお母さん、おば様は、先日あった時と変わらぬスーツ姿で驚いたように私の事を見つめている。それはそうだろう、だってこんな時間にこんなところで会うことなんて今まで一度もなかったし、私だって母を介さずおば様にあったことなんてなくて、内心はとてもドキドキしている。緊張で頭がどうにかなりそうだった。
「どうしたのこんなところで、伊予は一緒じゃないの?」
「母は出張中です、私は、おば様、あなたに用があってきたのです」
「わたしに?」
「はい」
真っ直ぐにおば様を見つめていると、すぐに、その表情は驚きから、きゅっと唇を轢き結んだような表情に変わる。私の覚悟の気配を感じ取っているのか、彼女は携帯を確認して、電源を落とす。
「晩御飯は済ませてきたの柚子ちゃん?」
「はい」
「そう、じゃあ悪いけど近くのファミレスでいいかしら、わたしはまだ食べてなくて」
「わかりました」
そう言うとおば様はすぐに歩き始める。私もすぐにその後を追う。
背筋をピンと伸ばし前を向いて歩くその姿は落葉によく似ている。カツカツとなるヒールの音に、私ももう少しカッチリとした格好でくるべきだったかと考えながら、頭を振る。私にはまだ似合わないだろうと。




