二十五 言葉
ウルスラが示す私への執着はなにか怨念めいていて、私は彼女を傷つけずに逃げることを難しく思っていた。この身になってから約四年、ずっと服用してきた薬の効果がすぐに切れるとも思わないし、もしかしたら私の胤はすでに死んでいる可能性もある。だとしても。シニサラマンの人々はみな、知っているのだ。彼女が、ウルスラが、私の子を欲していることを。
私は潔癖であろうとした。そのためにはどうすればいいのか。いろいろ考えた末に、彼女が私に触れられなければいいのだ、と思った。そのゆえに、先日少しの間世話になった、牢の鍵をすべて保管庫からくすね、自らその中に入った。
それで、私をその中から出せるのは私のみになった。だれも触れられない。
ウルスラは呆れた顔で私を眺めて「好きにしなよ」と吐き捨て去った。しかし私が食事を拒否し、数日を過ごしたところで怒りを宿した瞳でやって来た。
「あんた、どれだけあたしを虚仮にすれば気が済むの。おかげさまで、今あたしは隊中から自分の奴隷に手を噛まれた上、砂をかけられた女って言われているんだ」
「ヤルノを、呼んでくれ」
ひとりで考え、悩み抜いた末に出た結論は、現状を彼女の内縁の夫へ訴え出るということだ。それでなにがどうなるとも知れない。それでも、彼に私は伝えなければならない。私は彼の立場を脅かすつもりはまるでない、と。
そこからまた数日、静かな時間を過ごした。さすがになにも腹に入れないのは堪えたが、ある瞬間を越えたら空腹も慣れた。眠ってばかりいて、頭がよく働かない。目もかすみ始める。私の世話をしようとやって来る者たちは、一様になにか口に入れるようにと言うが、私はただそれに「ヤルノを呼んでくれ」と返した。二週間が過ぎたころだろうか。彼はやって来た。
「おまえに、ここまでする気概があるとは思わなかった」
冷笑的な響きを帯びた声が投げかけられ、私は浅い眠りから引き戻された。視界にはっきりと、日に灼けた肌と無造作に束ねた髪の旅慣れた様子の男が見える。私は言われて、ずっと持っていた牢の鍵を投げて渡した。彼は解錠し、中に入って私を引きずり出し、牢部屋の外で私を床に投げ出した。
彼は、壁に背を預けて腕を組み、私を見下ろした。
「それで? 俺に泣きつけば、何か変わると思ったのか」
「泣きついたわけではない」
ひさしぶりに聞いた自分の声は、やけに低く掠れていた。私は喘ぐように息継ぎをし、ヤルノをまっすぐに見て言う。
「ただひとつ、はっきりさせておきたい。――私はウルスラと子を成すつもりはない」
ヤルノの瞳がかすかに揺れた。その奥に怒りと戸惑いが錯綜するのを見て取ったが、彼はすぐに顔を歪めて吐き捨てた。
「そんなこと、俺の知ったことか。嫌なら断ればいいだろう。奴隷風情が、だれに許しを乞うつもりだ」
「私は、異物だ。これ以上、あなたの家庭を壊したくない」
「聞きたくもない!」
壁を拳で叩く音が響いた。怒声が室内に反響し、しばし沈黙が落ちる。やがてヤルノは私の元まで歩み寄り、しゃがみ込んで私を睨めつけ、吐き捨てる。
「おまえが居る限り、壊れているんだよ。なんで生きているんだ、この夾雑物が」
彼には、その言葉を述べる資格がある。私はまったくそのような者だ。私は笑った。そして、彼が反応するよりも早く、彼が腰に帯びていた小刀に手を伸ばした。
「なっ……?」
ヤルノが身をよじり立ち上がるとき、私は刃の切っ先を両手で自分の下腹にあてた。鉄の感触が皮膚を押し、呼吸が細くなる。早鐘が胸を押し上げる。
「これで……私はあなたへ害を及ぼす存在ではなくなる」
自分でも驚くほど静かな声だった。私の手は震え、鼓動が耳孔を満たす。けれど奇妙な安堵が胸に広がる。私が不能でありさえすればいいのだ。それで、すべては証明できる。
そのまま刃を押し込もうとした瞬間、ヤルノが荒々しく腕を掴んだ。わずかにずれ、衣に切れ込みが入る。
「狂ってるのか!」
怒声が耳を打った。ヤルノは私の手首を捻り上げ、小刀をもぎ取った。遠くへと投げられたそれが床に落ち、硬い音がこだます。
開かれた扉の向こうで、数人の職員が凍りついたように立ち尽くしているのが見えた。だれも声を発せず、ただ目の前の光景を凝視していた。
「なにを考えているんだ! 下手すれば死ぬぞ!」
その声は思わぬ怒りに満ちていた。男として、私が成そうとしたことの意味も理解しているからか、いくらかの動揺も見える。私は床に座り直し、そして彼を見上げて、言った。
「死ぬことは、かまわない。ただ私は、私の矜持をだれにも譲らない。それだけだ」
職員のだれかが走って行ったのが目の端に見えた。ウルスラへ事の次第を伝えに行ったのだろう。彼女が来る前に、私はヤルノに言わねばならない言葉がある。
「ヤルノ。長きに渡り、あなたの平穏を乱して申し訳なかった。私は、あなたにも、あなたの家族にも害を成そうなどとは考えていない。しかし、たしかに私の存在そのものが膿なのだ。斬り捨てられてもかまわない」
私には、長く心残りがあった。老いた両親のこと、そして、逃げ去った娘夫婦のこと。そのどちらにももう、思い残すことはない。それこそが私のこの手にある幸せだった。それはもうだれにも奪い去れない。たとえ、むごたらしく殺されたとしても。
ヤルノは長い息をつきながらあちらこちらへと視線をやった。そして黙考の末に私を見て、言う。
「おまえの考えは、わかった。けれど、すべてはウルスラが決めることだ」
「私は彼女を愛していない。私の心は彼女にない。けれど、あなたは違う」
私が断定すると、彼の眼差しは鋭くなった。
「あなたは、彼女を真に愛している人だ。その献身を見ればわかる。彼女の最善を、そして彼女の幸福を願っている。そうだろう」
「――知ったような口を利くな」
「何度でも言うよ。あなたは彼女の夫だ。彼女と子を成していいのはあなただけだ。私の存在がそれを脅かすなら、私はどこへなりと消えよう」
場は静まり返り、ヤルノも、人々も私の声を聞いていた。ヤルノは首を振り、そして「――おまえはウルスラの奴隷だ。生きるにしても死ぬにしても、おまえの意志は関係ないことを覚えておけ」と言った。
しかし、その声には張りがなく、私の言葉が彼の胸に届いたのだと、私は思った。




