二十 鼓動
「あたしが今、ずっと考えていることがなにかわかる?」
ウルスラの指が鉄格子に触れた。その動きは甘えるようでも慈しむようでもあり、彼女でもそんな仕草ができるのだと私は思った。
「あたしが療養所に乗り込んだとき。あんたはあの子どもの手を取っていたね。すごく優しく。甲斐甲斐しくさ。まるであんた、あの子の嫁みたいだったよ」
指先で触れるだけだった手が、しっかりと鉄棒を握り込んだ。強く、強く。私の目にも指先の色が赤く染まって見えるほどに。
「寝るとき、いつもあのときのあんたの顔を思い浮かべる。あんたと、あの子。あんたはあたしのものだったはずだ。あの優しい顔、指先の温もり、すべてがあたしに向けられるべきだったのに。なんで? 死にかければいいの、あたしも?」
私は、それに答える言葉を持たない。いや、言えばウルスラを傷つけることになる。沈黙を貫くと、彼女は自ら私の心内を述べた。
「どうせさ、あたしがあいつと同じことになっても、あんたは傍らに座ってもくれない。手を取ってもくれないし、世話なんかしない。そうでしょ? どうでもいいんでしょ、あたしのことなんてさ」
「……あなたの傍らには、ふさわしい人が居るべき場所だ」
「あんただよ!」
ウルスラは両手で鉄格子につかみかかり、揺らそうとした。もちろんびくともしないが、鉄錠がガチャリと音を立てた。ウルスラは憎しみを込めた瞳で私を見る。私もそれに視線を返す。
「夜、ひとりになると、胸の中にある棘が膨らむんだ。あんたがあたし以外の人間に向ける笑顔、あんたが他のやつを呼ぶ声。それが、頭の中で繰り返される。いいだろ、あの子にはあんたの娘をくれてやったじゃないか。あんたまであいつのことを考えなくたっていいじゃないか。あんたにはあたししかいないはずだろ。なんであいつなんだよ」
苛烈な眼差しは哀願にも見え、私は決して目を逸らさずにそれを受け留めた。しかし、ウルスラの顔色は絶望に青褪める。
わかっているのだ、彼女は。そしてそれゆえに悟った。
私の目が、彼女を見ることはない、と。
「……いいよ。会いに行くといい」
ウルスラは低く言った。
「どのみち、もうすぐ死ぬんだ。いなくなって、あんたには他にだれもいなくなる。あたししか、いなくなる」
鉄の鍵が回される。そして、放り出されたそれは部屋の隅で重い音をあげた。
私が牢を出たとき、ウルスラは感情が削ぎ落とされた顔で言った。
「あんたが悲しむ姿、想像するだけで胸が熱くなるよ。だって、それであんたはあたしに寄りかかるしかなくなるだろ。あの子のいない世界で、ようやくあんたは気づくはずだ。あんたに光を見せてやれるのは、あたしなんだって」
夜明け前に、私はシニサラマンの建物を出た。身綺麗にされ、以前のように隷属の首輪と綱をまとって。ウルスラがその綱を持つ。
冷たい外気が頬を打つ。久しく嗅いでいなかった空気の匂いに胸が詰まった。湿った土と、まだ溶けきらぬ夜霧のにおい。
乗り込んだ馬車の車輪が石畳を叩き、鈍い振動が腰へと伝わってきた。揺れに合わせ、胸の奥で高鳴る心臓の音ばかりが大きく響く。
――間に合うだろうか。
その疑念を払うように、私は拳を膝の上で固く握った。
ウルスラは向かいの席に座っていた。薄明かりに照らされた横顔は、いつものように微笑を湛えている。だが、私を見ようとはしない。ただ外を眺め、車窓の向こうに流れる影のような街並みに目を向けていた。
「震えているよ」
ふいに彼女が言った。
私は返答せず、ただ唇を噛んだ。
馬車はやがて街外れの並木道を抜け、シピが運び込まれた施設のある丘へと進んでいった。朝の光がようやく東の空に立ち込める。馬車が止まったとき、外はすっかり白んでいた。
看取りの場所、と教えられた施設は、灰色の石造りで、余計な装飾はほとんどない。壁には雨風にさらされた痕が色濃く残り、屋根の端には昨夜の霜がまだ溶けずにきらめいていた。堅牢で冷ややかな佇まい。
扉を押し開けると、すぐに乾いた薬草と消毒液のにおいが鼻を刺す。牢の湿った空気に慣れきっていた身には、それだけで別世界のように感じられた。
それに――死臭。
胸がざわめく。
内装は簡素で、足音がやけに大きく聞こえる。廊下には明け方の光が高窓から差し込み、細長い影を床に落としていた。
私は、連れて来られた護衛に挟まれて進んだ。たとえ綱の先がウルスラにあろうとも。廊下の奥から時折、咳き込む声や呻き声が微かに聞こえてくる。ここが生と死の狭間にある場所なのだと否応なく思い知らされる。そこにいるのは、命の境を行き来する人々だ。
シピも、同じ状況だ。そう思うだけで足取りは重くなり、それでいて急き立てられるように速まる。
奥から二番目の扉の前で、私たちは立ち止まった。木製の厚い板に、鉄の取っ手。
私は胸の奥で、短く祈るように息を吸い込んだ。
扉がきしみを立てて開かれると、薄暗い空気が流れ出てきた。部屋の中は静まり返っている。厚い布で覆われた窓からは、わずかな光だけが差し込んでおり、その淡い明かりが埃を浮かび上がらせていた。
鉄のような血の残り香が、鼻腔にまとわりつく。
そこに、彼がいた。
粗末な寝台に横たえられたシピは、褐色の肌であるのにどこか白んじて見えた。左半面は布で隠され、その下にどれほどの痛みと苦難が刻まれているかを想像させた。肘から先を失くした左腕も厚い布に巻かれ、胸の上で固定されている。
かつて笑い、走り、若さの輝きにあふれていた姿とは、あまりに遠い。
もしかして、間に合わなかったのだろうか。
そう考えると、私の呼吸が止まるのではないかと思えた。私はウルスラに許可を取ることも、綱の存在もわすれて傍らへ駆け寄った。私の身分を自覚させるように綱がぴんと張る。首が締まる。
私はシピの口元に手をかざした。呼気がないように思える。自分の鼓動だけが耳に響いてうるさい。首筋に触れる。冷たい。……脈が、感じられない。




