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神を担いて、あなたを乞う  作者: つこさん。
この手にある幸せ

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十七 手術

 囚人であるシピへ、私がなにか害を成す可能性を考えられたらしい。衝立て越しにしかなにかさせてもらえなかったが、疑いが晴れたのかその日の夕方には直接シピに触れる作業も許された。と言っても、医療行為は私にはできぬから、身辺の世話をするだけだ。盥の湯を替え、布を絞り、額を拭う。目を開けることも、声を返すこともない相手に、ただ黙々と手を差し伸べる――その繰り返しを経て、いつのまにか数日を過ごしていた。

 シピから発せられるのは、途切れ途切れで掠れた、呼吸の音だけだ。目を覚ますかもわからない。もし覚ましたとしても、ずっと続く高熱ゆえに重篤な障害が脳にまで及んでいる可能性がある。


 最初は、悔恨しかなかった。自分がもっと早くなにかをしていれば、この傷を負わせずに済んだのではないかと。指先に触れながら、眠る姿へ無言の謝罪を幾度も重ねる。過ぎ去った日の――オネルヴァを抱いて私に対峙した若者の面影がよみがえり、今との落差に胸が締めつけられる。あのときの瞳は、私を真正面から射抜いていた。その光を思い出すほどに、今閉ざされているまぶたが残酷に思える。

 やがて願いは膨らんでいった。せめて一度でいいから、目を開けてほしい。言葉を交わせなくてもいい、息をしている声を聞かせてほしい――そう願わずにはいられなかった。希望は同時に恐怖を呼びもした。明日もこの息遣いを聞けるだろうか、と。

 夜ごと明かりを灯し、布を絞る。湯を換え、手足を拭う作業は、最初こそぎこちなかったが、次第に身体に染み込んだ。


 シニサラマンは、私を探しているかもしれない。これで私も立派な逃亡奴隷だ。療養所から一歩も出ることなく、ずっとシピに侍っているが、それもいつまでできるだろうか。

 押しかけた身分だと言うのに、療養所ではよくしてもらっている。午前と夜にいくらかの膳を持ってきてくれるし、私がシピの体を拭った湯で自身の体を拭くと、新しい湯を使うようにと言ってくれる。そうした世話を焼いてくれるのは女性の医療者で、この顔で良かったと思える。


 外では冬が忍び足でやって来ていた。ラウタニエミでは雪は積もらないとはいえ、窓に氷の花が広がることもある。人々は暴動の後始末に追われていると聞いたが、ここには別の静かな時間が流れていた。衝立を隔てて、彼と私だけが世界から取り残されたかのような日々だった。


 時折、誰もいないとき、小声で話しかける。


「シピ……生きているな」


 もちろん、返答はない。けれど、問わずにはいられない。

 一週間ほどしたある日。触診をしながら老医師は言った。それは、おそらく私へ言い聞かせるためにはっきりとした声色だった。


「だめだな。傷口から壊死が始まっている。縫合した左腕は、諦めるしかない。切り落とそう」


 その言葉に私は呆けて、シピの姿を見た。布を取り去られた腕は、生々しい縫い跡の部分が黒ずんで来ている。わかっては、いた。体を拭くときに、熱を持ったシピの体の中で――唯一、左腕の指先だけが、冷たい。


「どうにか、なりませんか」

「腕と命、どっちが大事だ」


 私は首を振り、であればと医師に尋ねた。


「せめて、私にも立ち会わせてください」

「好きにしなさい。邪魔だけはしてくれるな」


 医師が指示を出し、助手たちが手術の準備をして行く。

 シピが横たわる寝台の隣に机が用意される。その上に煮沸された器具が並べられるとき、金属の擦れ合う高い音が何度も響く。刃を火にくべて熱するため、小さな炉も用意されていた。薬草を煮出す匂いと、強い酒の匂いが入り混じって鼻を刺す。


 私はシピの足下の方に、距離を置いて立った。許可できるのはそこまでだと医師に念を押される。

 シピの身体は縄で寝台に縛りつけられた。荒い息が喉の奥から洩れ、なにかを察したように胸が波のように上下している。まだ目を開けぬまま、どんな夢の底に沈んでいるのだろう。


「……行くぞ」


 老医師の声は短く、重かった。助手の若者が頷き、瓶から酒を注いだ布をシピの口元にあてがう。しばらくして、荒い呼吸が少し緩む。大量の布が用意されていて、すぐにでも切断面にあてがえるようにされている。

 熱した刃が持ち上げられた。私は思わず拳を握る。

 黒ずみ、腫れ上がり、指先は蝋細工のように色を失っている左腕。ただ縫合を解くだけではだめなのだ。金属の触れる音の後、空気を裂くような短い切断音が響く。そして、肉の焼ける匂い。喉から声が出かかったが、噛み殺した。

 血の匂いが一気に広がり、胸の奥が焼ける。助手が力いっぱい押さえているのに、シピの身体は小さく震えた。


「もっと抑えろ!」

「はい!」


 短いやり取りの間にも、赤が布を濡らしていく。

 私はただ立ち尽くし、冷や汗を感じながら祈るように見守るしかなかった。


 長い時が経ったように思えた。しかし、実際はそれほど多くの時間はかけていないだろう。医師の手は淀みなく動き、やがて血を拭い、新しい布をなくなった腕の断面に巻きつける。


「――終わりだ」


 その声でようやく、肺に空気を取り込むことを思い出した。大きく吸い込んだ息は、鉄の匂いでいっぱいだった。


 シピの左上腕から先は、もう存在しない。

 それでも胸は上下し続けている。その一呼吸ごとに、まだ彼が生きていることを知る。


 私は壁に背をもたれ、頭を垂れた。

 失ったものの大きさに、胸を抉られる。だが同時に、その命がここに留まったことへの安堵が胸を満たしていた。

 医師たちが手早く器具を片づけ、周囲に散った血痕の処置もしていく。


「これで、生きるも死ぬもこいつ次第になった。異変があったら知らせろ」


 医師は私へそう述べると、疲れた表情で去って行った。室内には薬草の匂いと、鉄の残り香が漂っている。耳に届くのは、規則の乱れた呼吸の音――それだけ。

 私は寝台のそばに歩み寄り、震える指先でシピに巻かれた布の端に触れた。

 そこには、もう腕がない。

 左顔面を覆われた顔は痩せこけて、蝋人形のように現実味がない。だが、胸は確かに上下している。


「……シピ」


 呼びかける。嗄れた声が自分のものと思えない。

 胸の奥からせり上がる熱を抑えきれず、私はそっと額をシピに近づけた。


「……私には、まだおまえと話したいことが山ほどある。だから、ここで逝くな。……頼む」


 椅子を持ってきて、傍らに座る。小さく握られた右手に、私の手を重ねた。

 私は長い間、ただその手を包んでいた。やがて灯りの油が尽きかけ、室内は闇に沈む。それでも、手を離さずに。

 穏やかで、静かな夜だった。


 なので、明け方のまどろみの中で聞いた激しく扉を叩く音は、私を現実へと引き戻す合図だったのだ。


 誰何の後に、扉が開かれる。初冬の冷気が私の足下までやって来て目を冴えさせる。まっすぐにその足音は私の元へ来た。そして、聞き慣れた呼び声。


「ここにいたかい、ラウリ」


 シピの手を握ったまま、私は彼女を見上げた。

 私を笑顔で見下ろすのは、ウルスラ。その瞳に怒りを宿して。

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