九 労働者
卓上の茶が冷めきっていた。残してはいけない気がして、私は手元の杯を飲み干した。
「――で、私にはなにができるんだ?」
イェッセが、落ち着かない様子でそわそわと言った。声には苛立ちよりも、むしろ途方に暮れた響きがある。
「正直に言えば、なにも」
私はそう返す。私でさえ、潜入すると放言しながら策などない。ヴィエノもそれに続いて言った。
「学術調査なら、私の立場から申請できるかもしれない、かな。それでも、どんなに早くても半年は先のことだろうけど」
「その方向も模索したいな。正規の手順を踏んで中に入れるなら、そんないいことはない」
私は外衣を手にとって着込んだ。イェッセが「帰るのか、ラウリ」と名残惜しそうにしてくれる。私は少し笑いながら「早く、動いてしまいたくて」と述べて、二人に見送られた。
ウルスラは留守だった。ウスヴァカッリオへの販路の確認をすると、やはり定期的にシニサマランの商隊のひとつが向かっているのがわかった。それに便乗させてもらえればいい。そして、できれば鉱山内部まで行ければいいのだが。あまりにも計画とも言えない朴訥な案で、自分でも笑ってしまった。
最近は、ファンニがいる手前、商隊には接触しないようにしている。あの子どもの私に対する執着は、なにか危険を孕んでいるように思えるのだ。父のヤルノが監視している今の間は、彼女は私につきまとわなくなった。そもそもが健全ではない私の存在が、彼女の育成に悪い影響を及ぼさないか、心配している。そんな立場ではないとは、わかっているけれど。
ウルスラの帰りは深夜だった。疲れているだろうから、頼みごとには向かないと日を改めようと思ったが、彼女の方から「で、みんなで話してどうなったのさ?」と尋ねて来た。
「あなたに、お願いが」
「なんだい」
「ウスヴァカッリオへ行く定期便に、私を同行させてください」
私がそう言うと、すべて把握している顔色で、ウルスラは「まあ、そうなるよね」と言った。
抱き枕にされて眠り、明け方の寒さで目が覚める。すでに隣にウルスラの姿はなく、私はゆるゆると起き上がって衣服を身にまとう。外から物音がしたので窓を覗けば、ウルスラが荷役に指示を出して馬車に物資を運び入れているところだった。私はそこへ向かう。
「こんな朝から、働いているのですね。急ぎの物が?」
「あんたに持たせる物だよ。鉱山労役者への慰労品って名目だ。あとで一筆書くから、待ってな」
私は、ただ感謝を述べることしかできなかった。ウルスラに、ここまでしてくれるだけの義理はないのに。
ヴィエノの家へ、すぐにウスヴァカッリオへ向かうとだけ言づけをした。荷をたくさん詰め込んだ馬車を繰るのは私自身で、他に供はいない。よって、私はより深くまで中に入れるだろうと思われた。ウルスラの手による書状もある。先日行き来したばかりの道は、日が明るいために多くの荷馬車が行き来している。おそらく掘り出した鉱物や石炭といった燃料を運んでいるのだろう。シニサマランの馬車も、いくつか通る。私が充てがわれた馬車も当然シニサマランのものなので、すれ違い様に御者と黙礼する。
町は活気に満ちていた。先日、シピたちが運ばれてきたときのように、ひりついた空気はない。通りを行き交う荷馬車の間を縫って子どもたちが走り回っている。私は轢いてしまわないかとひやひやした。母親と思われる女性が遠くで叱りつける声を張り上げている。
町を抜けて、鉱山の出入り口へ。検疫所を抜けると、山の冷気に混じって石炭の粉っぽい匂いが鼻にまとわりついた。手綱を握る掌にじっとり汗がにじむ。周囲にはひっきりなしに荷馬車が行き交い、積み下ろしを急ぐ怒号や鉄具の打ち鳴らす音が響いている。麦粉の樽、干し肉の包み、油の壺。たくさんの物資が運ばれる。囚人だけでなく監督や兵士たちも腹を満たさねばならないのだから当然だ。
山際には堅牢な平屋がずらりと並んでいる。それは、囚人たちではなく、おそらく職員たちの寝所だろうと思えた。
「シニサマランは、さっきも来たが?」
「こちらの書状を。商会長からの、鉱山労働者たちへの慰労品です。通常品目にはありません」
「へえ! あいつらに振る舞う食いもんか! そりゃいい」
書状を見ながら荷役の管理者が述べる「あいつら」に、おそらくシピたち囚人労働者は含まれていない。けれど、荷馬車いっぱいの物資は、そこに手を伸ばしてもまだ足りるのではないか、と思いたい。
「できれば、私の目で労働者たちの手に渡るところを見てこい、と」
「信用ないねえ。まあ、そりゃそうか。なにも言われんかったら、たしかにおれらで食っちまうからなあ」
おそるおそる私が述べた口実に、管理者は疑問を持たずにいてくれた。ほっと胸をなで下ろす。私は、こんなに早く中に入る機会を得られるとは思わず、拍子抜けしてしまった。指示されて、馬車を坑口近くに停める。
囚人は、新しい坑道を造るために連れてこられたと言われていた。この坑口の中で道が分岐しているのか、それとも坑口すらも新しく造っているのか。先にそれを調べてくればよかったと後悔したが、もしそれがわかったとしても、そもそも私はシピがどこにいるかわからない。
何人も坑夫が呼ばれて、荷馬車の中身を受け取って運んでもらう。荷馬車が空になったのを確認し、私も中へ招かれた。その際に顔をじろじろと見られて、ひとりの高年男性から「あんた、首に巻いてるやつで、もうちょっと顔隠しなよ。それか、そこいらに落ちてる石炭でも塗りな。そんなキレイな顔晒して、女ひでりの男の中入るんじゃない」と忠告を受ける。私はあわてて足元の石を拾って顔にこすりつけた。
物資が運び込まれた横穴は、坑夫たちの休息所と事務所を兼ねているようだった。いくつもの灯り取りが並べてあったが、それでも仄暗い。それに、まだ入口部だというのに、やはり息苦しいと思ってしまう。
籠に入れられた小さな鳥が何羽か飼われていた。深部へ向かうときに連れて行かれるのだろう。
「ようこそ、ありがとうございます!」
「シニサマラン商会長ウルスラより言づかり、皆様への贈り物です。どうぞお受け取りください」
私の姿を見て歓迎の姿勢を見せた事務職員へ、私はそう述べた。その男性は恐縮しきり、品目表を見てため息をついた。
「本当に、助かりますよ。ギリギリでやっているもので。昨今はなかなか、資金繰りが難しいのです」
「鉱物が取れなくなっているのですか?」
「まあ、平たく言うとそういうことです。なので、坑道も新しいのを造ろうとしていて」
私はすかさずその話題に食らいついた。しかし、表情には出さない。
「新たに坑道を造るとなれば、坑夫の方たちの労働量が増えて、たいへんでしょう」
「いやあ、これ以上あいつらに負担をかけられないってんで。他のやつらにやらせてます」
「他、とは?」
私は、さも気がなさそうに尋ねる。男性は、機嫌よく答えてくれた。
「囚人を連れて来てですね、やらせてます。なんか、粗暴犯とかはこっちで対処できないんで、そういうのじゃないやつらをですね。使い勝手がいいとは言いませんが、坑夫ほど気を遣わなくていいので助かってますよ」
私はゆっくりと息を呑んだ。そして、言う。
「へえ、囚人。普通の人生じゃお目にかかれない人種だ。どんな感じなんです? 見学できますか?」




