第四十六話 支援
「やあ、おかえり。奥さんがお待ちかねだよ」
「シピ!」
開けた扉の先には、疲れた顔の医師と、泣き腫らした顔のオネルヴァがいた。オネルヴァは寝台から飛び上がるように立ち上がり、シピのもとへ駆け寄ってしがみつく。その勢いに、そんなに動いて大丈夫なのかと心配になる。しくしくと泣き止まないので、シピは抱き上げてあやす。医師は盛大にため息をつく。
警備男性に声をかけられ、そのまま医師は部屋を出ていった。二人だけになって、オネルヴァを抱いたまま寝台に座る。穏やかな声でなだめながら、シピは自分がオネルヴァにとって唯一であるという事実を再確認し心が踊る。それは不健全な感情だと知っているが、シピの根幹にある欲求のひとつだ。
オネルヴァをなだめ終えたあたりで戸が叩かれる。返事をすると医師が食事を持って入って来た。オネルヴァはそっぽを向いた。
「ほれ、ちょっとでも食べて赤ん坊を養うんだよ、奥さん。旦那がいるからもういいだろう」
たくさんの書類が置かれている卓の上に無理やり配膳し、医師は言った。投げて寄越されたものを受け取ると、それはルイスレイパだ。タイヴァスでは朝食で毎日出ていた酸い黒パン。あまりにもひさしぶりで喉が鳴る。礼を言ってから一口大にちぎって、オネルヴァの口元へ運んだ。匂いを嗅いで、オネルヴァははっきりと首を振った。しかたなくシピは自分の口へ入れる。じわりと口の中に滋味が広がった。
シピがルイスレイパを食べきると、脇から皿と匙が差し出された。麦粥だ。シピにしがみついて離れないオネルヴァに促すと、こちらは素直に口を開いた。ゆっくりと時間をかけて、シピは何度も匙を口へ運ぶ。
「ところでね、お父さんよ。そのままでいいから、ちょっと話をしないか」
オネルヴァが食事を終えて、シピの腕の中でうつらうつらとし始めたときに医師がそう切り出した。お父さん。自覚が伴っていない今、そう呼ばれるのはまだまだむず痒い違和感がある。
「――あんたたちの身の上のことだ。ここに来るまでのことを。なんで亡命なんてするつもりなのか、とかね。警備の男どもが頭を抱えてるんだよ。なにせここの国境線は、長いことそんな物騒なことはなかったんだ」
オネルヴァを抱いたまま居住まいを正す。頭の中でなにが最善かを計算する。言うべきこと、言わざるべきこと――だが、ここで駆け引きをすべきではないとシピは思った。そして、尋ねてきた医師は初対面ながら信頼できそうな人物でもあった。
「……私たちは、タイヴァスから来たのだ」
「ん? タイヴァンキ方面から来たのは知っているよ」
「そうではない。都市ではなく。タイヴァス。……『姫神子の座』をご存じだろうか」
「おーーーーっと待ってくれ。ちょーっと待ってくれ。なんやら、私の蚤の心臓じゃ受け止めきれない内容の予感だぞ。おやおやおやおや。どうしたもんか、こりゃ」
早口で医師はまくし立てた。両手をふらふらと振って、それ以上シピに語るなと制した。そして難しい顔で考え込む。
「……後学のために少しだけ聞くけどね。なんで、こっちに来ようと思ったんだい」
「私は、オネルヴァを連れて逃げた。彼女が人として扱われていなかったからだ。そのゆえに追われている。タイヴァンキの治める地では、私たちに安息はない」
医師は難しい顔のまま硬直し、かなりの時間が経ってから口の中でもごもごと、参考になった、と言った。
「いやあ、あまりにも別嬪な夫婦だって、警備の駄犬どもがキャンキャン吠えていたけども。そうかそうか。いやあ。どうしたもんかね」
短い白髪の頭を掻きながら、医師はうなった。そして膳を受け取って一度退室する。しばらく後に戻って来たときには、両手に珈琲を満たした杯を持っていた。ウルスラの商隊にいたとき以来の香りを胸いっぱいに吸い込んで、シピは受け取った杯に口をつけた。
「……お父さんよ。あんたはいくつだい」
「そろそろ二十になる」
「若いとは思ったけど、やっぱりか。奥さんは?」
「正確な年齢はわからない。けれど、役に着いた時期を考えれば、おそらく私より四つ程度下だ」
「子どもじゃないか……」
タイヴァンキで成年は男女ともに十四だ。しかし近隣諸国では違う。この地では満十八歳が成年のはずだ。高齢と思われる医師から見れば、なおのことシピたちは幼く感じられるだろう。
しばらくの間医師は黙り、シピもひさしぶりの珈琲をたのしんでいた。医師の重々しい口が開かれたのは、もう一杯飲みたいとシピが考えていたころ。
「……若いお父さんよ。あんたは、若くても奥さんと赤ん坊の命を預かっている。あんたが倒れれば全員が倒れる。当然だけれど、その自覚はあるね?」
「もちろん。私の妻で、私の子だ」
シピが即答すると、医師は深くうなずいた。分厚い眼鏡の奥の瞳が、真剣な色でシピを見ている。
「私はね、あんたたちのことをお偉いさんたちに報告する義務があるんだ。それをどうしようか考えていた」
前置きのように医師は言う。どこか遠くを見る瞳でのその後の沈黙を、シピはじっと待った。その口から出る言葉は、シピとオネルヴァの未来を左右する。
「……私から直接は、あんたたちのことは言えない。とんでもないことになる。医師として、私はただ『医学的支援を求めるために』シルタに問い合わせをする。――そう記録に残す」
シピは医師の言葉が指す『シルタ』とはだれなのかわからず、疑問を口にしようとした。それよりも早く医師はシピへ向き直り、はっきりとした声で告げた。
「私が若いころ……まあ、あんたくらい無謀なことをやってのける時期だよ。所属していた組織があってね。今でも籍だけはあるんだ。ヴァパウス・ヤ・ホイヴァ・シルタ――名前の通り、自由と配慮を橋みたいにいろんなところに架けようやって理念の組織だ。単純にシルタって呼ばれている」
シピはその説明にはっとした。書物の上では知っている。恵まれない立場の人へ、医療と必要な法律的支援を与える団体だ。タイヴァンキではその活動の必要性がほとんどなく、活動の詳細記録をシピが読んだことはない。
そう、タイヴァンキにおいて、恵まれない人などいなかったのだ。
タイヴァスの、あの窓の中以外では。
短いため息を二つ三つと重ねたあと、医師はやけくそのように叫んで強調した。
「いいか、私は『医学的支援を求めるために』連絡するんだ。あんたたちは見るからに貧乏で、医療費を払えなさそうだからね。だからシルタだ。いいか、それだけだ!」




