第四十四話 驚き
「おいおいおい、だいじょうぶか?」
耳鳴りのような不安が生じる。オネルヴァは完全に気を失い、力なくシピの腕の中に身を預けている。あまりの動揺でシピは細い声でオネルヴァへと呼びかけるほかない。その体温に異様な熱さを感じ、シピははっと息をつく。
警備兵の男性は取り乱してオネルヴァを掻き抱くシピの様子をじっと眺めた後、言った。
「応援を呼んでくる。ひとまず中へ。医者に診せよう」
踵を返して行く男性の背中を見送りながら、シピは急に自分が無力な子どもになった錯覚を覚える。頼れるものが遠ざかっていく気がして、胸の奥に冷たい穴が開いたようだ。シピはオネルヴァの名前を呼び続ける。ほどなくして先ほどの男性の他、担架を持った人々がシピたちのところへ小走りにやって来る。
シピは何度も礼を口にしながら運ばれて行くオネルヴァの手を握っている。互いに手袋を取り去ったが、オネルヴァの手があまりに熱い。
――こんなことにも気づけなかっただなんて。あまりに愚かな自分に、シピはめまいを覚える。
運ばれたのは乱雑に物が積まれた部屋だ。だが寝台があり、そこへオネルヴァは横たえられた。
「あんたの奥さんか」
「そうだ。私の妻だ」
「じゃあ、外套を脱がしてやってくれ。おれらがやるわけにはいかんだろう」
シピは是と答え、オネルヴァの外套を脱がして帽子や目隠しを取り去った。その場にいた男たちの一人が息を呑む音を立てた。次いで、室内の空気がぴんと張りつめる。シピ自身も帽子と目隠しを取り去ると、人々の視線が身に刺さった。
「――さて、こんな辺鄙なところで急病人はだれだい。……おや、ずいぶんと別嬪さんじゃないか」
白髪を短く刈り、分厚い眼鏡をかけた高年男性がやって来て言う。山登りをするような服装からそうとわからないが、医師だろうか。寝台の脇でオネルヴァの手を握っているシピを見ると、その場をどけるようにと告げた。離れ難い気持ちで立ち上がる。
「おい、警備隊の男どもは出ていけ」
「なんだよ、気になるだろ」
「淑女の診察をおまえら駄犬どもに見せられるか。ほら、出ろ」
がやがやと騒々しく男性たちは部屋を出ていく。その際も不躾な視線はシピを舐めるようだった。扉が閉まり、医師と思しき男性はオネルヴァの手を取った。そしてなにごとかをつぶやいて、懐から両端が平らになった棒を取り出す。タイヴァスで医官が持っているのを見たことがあるため、それが聴診器だとシピはすぐに思い当たった。片方の平らな面をオネルヴァの胸辺りに、もう片方を男性の耳へ。そうして上半身の音を聞いていく。服越しでもだいじょうぶなのだろうかと思ったが、オネルヴァの肌を他人へ晒したいとも思わない。
「……さて。まずは熱があるから、安静に。そして、おそらく疲れ切っているから、蜂蜜入りの重湯を持ってこさせよう。目が覚めたら一匙ずつ飲ませてやりなさい」
であれば、ずっと眠ったままではないのだ。シピはほっとして大きく息をついた。それにしても心配で、早口に医師へ問う。
「わかった。ありがとう。あの、オネルヴァはとても悪いのだろうか?」
「それは、あんたの立場によるだろうねえ。このお嬢さんとあんたはどういう関係だい?」
眼鏡越しの瞳はとても鋭く、たばかりを許さない光がある。しかし、シピとオネルヴァの関係をたばかる必要など元よりない。
「彼女は、私の妻だ。私は彼女の夫だ」
「わかった。では、良い便りだよ。おめでとう、あんたは父親になった」
「……え?」
言葉の意味をつかみ損ねて、シピは医師の顔をまともに見た。聞き慣れない異国語で話されたかと思う。医師は辛抱強くシピへと、オネルヴァの妊娠を告げる。時間をかけて、じわじわとシピはその意味を理解した。
オネルヴァとは、ときおり交わっていた。器の儀の後に二カ月を見て、その間にまた血の徴があれば交わる。それがタイヴァスでの習わしだったのだ。月経は四度あった。そのたびにオネルヴァから申告があり、終わったときに交わりを持った。
たしかに、とシピは思う。オネルヴァの顔を見る。そういえば、暦の上で言えば、もう次の月経があってもおかしくない。しかし、なにも聞いていない。タイヴァスにて書物で学んだ知識を照らし合わせる。月経は、子を孕んだらなくなるはずだ。
シピは思わず声をあげた。
「――私の、子ができたのか!」
「そうだよ。でもたぶんまだ初期だ、安定期には入っていない。なんて時期に山越えやってるんだよ、お父さんよ。ちょっと悪けりゃ、流れているところだった」
驚きに驚きが重なる。その言葉は、子が死んでしまうということだろうか。医師が立ったので、シピはオネルヴァの脇へ戻ってその手をまた取る。依然熱い手に、安らかではない寝顔。指先でその額の汗を拭う。どうしたらいいのだろうとの疑問が、また首をもたげる。
「いろいろ用意して持って来る。あんたも疲れてるだろうから、今日は奥さんといっしょに休むといい。まずは疲れを取りなさい。話はそれからだ」
扉から出る医師へ、シピは立ち上がって胸に手をあてた。それは心臓にかけて感謝を示すしぐさで、医師は苦笑して手を振り、去った。




