第四十一話 夜明け
皮に当てた刃を、両手で押しつけるように動かす。脂を削り、張りついた筋を一筋ずつ外していく。じりじりと、ろうそくの灯りが心許なく手元を照らす。息が白い。力加減を間違えないように、しかし手早く。シピは目の前の作業に没頭する。
与えられた両柄で片刃の銑は、なかなかシピの手に馴染まず、これまで何枚もの皮に穴を空けてしまった。その度にケシュキタロ爺から怒号が飛んだものだ。萎縮しつつも、決して学ぶ姿勢を崩さずに今がある。シピは狩ってきた鹿の皮の、面取りと呼ばれる裏打ち処理を任されるようになった。なめし工程の中でも、特に重要とされる段階だ。
最初は、婆の手伝いから始まった。タイヴァスでは従者たちが行っていた日常的な作業について、多くを学んだ。力仕事は今でもシピが請け負っている。シピが爺の仕事に関心を払い教えを乞うたのは、極夜が始まったころだった。太陽がかすかに顔を出していたのも少しの期間で、今は雪嵐がすべてを飲みこむような暗闇を連れてきている。
晴れているときは、ときおり暗い空に七色の光の幕が現れる。美しく、幾重にも。その日は爺も仕事を休んで、作業場の外に腰かけ空を見上げる。婆もうつむきがちな顔を上向かせる。
シピはオネルヴァとともに、その光を眺めるのが好きだ。言葉なく互いに、それを見上げるのが好きだ。ただ並んで雪の上に座って、手袋越しに互いの手を握る。穏やかで、静かで、ときおり空がパリパリと鳴くのを黙って聞いている。素朴で、得難いほどに優しい時間だ。
作業の手を止め、ふと視線を巡らせると、向こうにオネルヴァの姿が見える。視線を感じた彼女はシピを見返し、首を傾ぐ。
オネルヴァは、婆に習って多くの家事を覚えようとしている。最初はシピの見様見真似で。今では自発的に。シピに対しては声を荒げる爺も、オネルヴァに対してはそうではない。たとえなにか粗相をしても、婆の根気強い励ましがそれを支えている。オネルヴァはときどき、笑うようになった。
村の人々とは、依然距離が開いたままだ。そも、ケシュキタロ爺の職である皮なめし工は、生活に必須でありながら蔑まれている。動物の生死を直接的に扱うこと。そして、加工の全工程において異臭が生じること。村外れに位置する家でもあるので、夜が常になってからは人影すらも見かけない。
それはシピとオネルヴァにとっては好都合だ。雪が深く、この時季は外界から閉ざされるキヴィキュラ村であったとしても、お尋ね者となってしまったシピの存在が目立つのはよくない。
このままの時間が続けばいいと思う。長い夜が明けなければいいと思う。そうすれば、なにも危険のない日々がずっと続くのだから。
シピはそんな夢を見ている。
ぽつり、ぽつりと、婆から昔話を聞くことがある。
それは、オネルヴァの父であるラウリ――世話人のことが多い。
彼は、婆の義理の妹……ケシュキタロ爺の、亡くなった実妹の息子なのだそうだ。
産まれたときから美しい顔立ちだったこと。利発で聡く、こんな村で一生を終えるのは忍びないと思ったこと。六歳の年に遠出して、ケッキの祭りへ連れて行ったこと。そこでタイヴァスの使者に見出され、それがラウリのためだと託したこと。神の足としての役を終えたあとは、年に何度も生活に必要な物を送って来てくれる、心優しい子だということ。その物資もほとんど、村の者に持って行かれてしまうこと。だから、手紙は受け取りたくなかったこと。とても大切なものだから。
二人が彼を引き取って、自分の子として育てるに至った流れ――なぜ妹御が亡くなったのかを、シピは無理に聞き出そうとはしなかった。婆も、爺も、そのことを悔いるような目をする。それは、きっとシピから触れてはならぬことで、けれどきっと、二人は吐き出したいのだろうと思う。
シピは、二人に少しずつ、文字を教えている。それが少しでも二人への感謝になればいいと思う。紙に書かれた世話人の言葉を、シピが破いて駄目にしてしまった皮へ書き写した。それを、作業場の壁に貼ったけれど、爺はなにも言わなかった。ときおり、婆が読んでほしいと言ってくる。シピがそれに応じて最初から読み上げるのに、爺も婆も、じっと静かに耳を傾ける。
文字を書くのは、もう難しいかもしれない。けれど、また世話人から手紙が届いたとき、二人が自分たちで読めたらどんなによいことだろうか。
数カ月にも渡る冬は、静かで、ただただ美しかった。シピはキヴィキュラでのその時間を生涯わすれないだろうと思う。多くのことを学んだ。ケシュキタロの爺と婆、そしてオネルヴァ。たった四人だけの世界は、なににも代え難いほどに完成された幸福だった。
季節は巡る。太陽の光が戻って来る。空にかかった光の幕は消え、世界は徐々に目覚めて行く。
夜が明けて行く。
常冬と言われる山頂の雪は解けない。しかしそこよりは標高の低いキヴィキュラでは、川の流れが戻って来た。これで、皮なめしの洗いの工程もずいぶんと捗るだろう。シピはそう考えた。
オネルヴァとともに川へ赴いた。魚がいればいいと思ったが、水が冷たく見つけられない。上流から押し流されて来るたくさんの氷の塊に、シピもオネルヴァも目を見張る。長くここに住んだと思えるが、それでもまだ初めての経験があるものだ。
なにも得られずに家へと戻る。外の空気に当たっていた婆へ、収穫なしを伝える。婆は眠りこけるような仕草でうなずく。シピは作業場へ入った。
爺は、自分の刃銑で裏打ちの作業をしていた。その姿はひさしぶりに見る。シピの用具は片付けられていて、違う作業台に乗せられていた。疑問に思いシピは爺を見る。
いくらかの後、爺は作業を終えた。シピをまっすぐに見る。
そして、言った。ただひとこと。
「おまえたちは、ここに居ちゃなんね」




