第三十九話 準備
器の儀へ至るまでに、胤たちは『陶冶』を受ける。それは、次の言葉を繰り返し述べることで成される。
『穢れた思いを捨てよ。欲を制し、器を器と崇めよ。正しく胤を注げ。自らを顧みてはならない』
そうして、胤は胤として完成を見る。
本来、器の儀は特別な部屋で行われる。まずは『一』であるシピが入り、儀式に必要な準備をする。それは『器』が『胤』を受け容れやすくするためのものだ。
時間は深夜。日付けが変わる前。部屋の中は暗闇に保たなければならない。唯一入り口にろうそくをひとつ灯す。
すべての処置は、手探りで行われる。器は一部を布で覆われており、それを取り外すことは許されない。それは器を器として正しく扱うために必要な掟だった。
必要なのは香油。器全体を整えるためにそれを用いる。布に覆われていない部分すべてへ、ていねいに塗り込んでいく。
さらに薫香。器の状態を安定させるために用い、焚きしめて部屋の奥へ置く。これは嗅ぐと、胤自身にも影響を及ぼす。夢見心地になり、胤を注ぐことに注力できる。なにか儀式の他へ思いを向けることがあってはならないのだ。
そうして整えられた器は、一の胤を受け容れる。
その際に徴として血がある。それを拭った布を以て、他の胤をも受け容れられるとみなされる。
そして、夜を徹して一から五、すべての胤が注がれる。
多くの場合、それで次の姫神子を器に迎えるとのことだ。しかし二カ月の時間を持った後、器にまた血の徴が表れたなら、もう一度。けれど、血の徴が再び現れることは滅多にないとシピは耳にした。
シピは、朝早くから納屋の外に出て、雪に覆われた地面を掘り返した。そこいらの雪の下に、野生の香草が埋もれていないかと探した。薫香の代わりにするのだ。少しでも、本来の儀へ近づけるために。
香油もない。もしかしたら、婆へ尋ねれば獣脂は手に入るかもしれない。けれどそれで代用するのは、作業場の匂いを知ってしまってからでは気が引ける。
花の種子から油が取れると書物で読んだことがある。いくらか歩き回ってみたが、近隣に川があるとわかっただけで、収穫はなかった。それはそうだ。季節は初冬。それでなくとも、このキヴィキュラは山深い場所で、すでにしっかりと雪が土を覆っているのだ。
あまり遠くへ行けば、村人に見咎められるかもしれない。シピは踵を返して納屋へと戻る。すると、婆が大きなヘラで雪をすくい、たらいに入れているところへ出くわした。
「婆殿。おはよう。なにか手伝えることはあるだろうか」
「なんもないよ。あんま外を歩かんで。見とる奴は見とる」
素っ気なかったが、拒絶の声色ではなかった。シピは言われた通り納屋の中へ戻る。
ウルスラたちとともにこのキヴィキュラへ来たときの、あの排他的な空気感。それを見知っているからこそ、婆の言葉はきっと重要な警告なのだと判断できた。
オネルヴァはまだ深い眠りについていて、起こすのが忍びない。ここに来るまでに多くの気苦労や困難があったのだから、少しでも多く寝かせてやりたかった。よって、納屋の掃除はまだできない。
シピは、気持ちが逸っている。明日。その深夜。オネルヴァが望む、二人だけの器の儀を行う。
必要なものはなにもない。それで本当に儀を執り行えるのか、わからない。それでも決行するのだ。そう、二人で選んで、決めた。
腹が減ったと思ったが、ここでは日に一食のみなのだ。よって朝食はない。昨晩の食事のいくらかを取り分けておいたが、それはオネルヴァがあまり食べたがらなかったからだ。少しずつでも慣れて行く他ない。そう思って、シピはオネルヴァの隣りへ寝転がる。
納屋の中でさえ霜が降りている。火鉢を近くに置いても、まだ寒い。窓を締め切っているので、朝の光は壁の隙間から。それも防寒のためには塞いでしまわなければと思うが、今はその光でオネルヴァを見ていたかった。
オネルヴァは世話人の外衣を宝物のように着込んで丸くなり、その上から皮衣をかけている。少しだけ眉間に皺が寄っている。
もっと、この先のこと。冬をどのように越すか、そしてその後にどうするかを考えるべきだ。オネルヴァの寝顔を見ながらそう思う。
けれど今、シピの想いは器の儀についてだ。そしてそれに伴う不安と期待。歓喜と自分への幻滅。そればかり。まずは明日を迎え、そして無事にすべてを成し遂げなければ。話はすべて、それからだ。
どん、と戸口が叩かれる。シピはすぐに起き上がって返事をする。婆が入ってきて、その手には大きな土瓶がある。中へ進み、彼女はそれを壁際の机へ置いた。婆は、机にあった食事の残りを見て言う。
「やっぱ、口に合わんかったかい」
「いや、そうではない。もったいないから、少しずつ食べているのだ」
「……湯を沸かしたから。まだ必要なら、雪を入れて火鉢にかけんさい」
そう言われて、シピは首を捻った。なぜ雪なのか。
「ありがとう。井戸はないのだろうか?」
「あっしには、もう汲み上げる力がないんよ」
「なんだ、では、私がやろう」
立ち上がってシピは述べる。婆が沸かしてくれた湯を、昨夜渡された器に注いで口にする。体の芯が温まる。それとともに頭がすっきりとした。いくらか腹も満たされる。婆はじっとシピを見ている。
ちょうどいい、ひとときの想いの切り替えができる、とシピは思った。香草も香油もなく、事前にできることはなにもない。それなのに明日の器の儀までに、丸一日も時間があるのだ。笑って婆を見返し、シピは言った。
「私にできることなら、なんでもしよう。しかし、私は多くの物を知らない。だから教えてくれないだろうか。この村で冬を越すには、どうしたらいいのだろうか?」




