第三十八話 歓喜
シピは、大きな動揺を覚えたと言わねばならない。その言葉は『器の儀』――シピが不要だと断じ、オネルヴァから遠ざけたものを、オネルヴァ自身が望んでいる言葉だったからだ。
そんなことはこれまで、ちらりとも考えたことがなかった。まさか、非人道的なタイヴァスの慣行を、オネルヴァが受け入れていた? 胸の中をひやりと冷たいものが撫でた。
――だとすれば、シピはなんのために今、オネルヴァとともにここにいるのだろうか?
返す言葉がみつからない。シピは喘ぐように虚空を仰いだ。オネルヴァは傾いだ首のままシピを見ている。いつものように無表情で、けれど、とても不思議そうだ。
それで、わかってしまった。
オネルヴァには、タイヴァスの習わしを疑問に思う気持ちなど、微塵も生じ得ないのだと。
シピは心の中で叫ぶ。そんなものを、もう思い出してほしくなかった、と。しかし、そもそもオネルヴァはわすれてなどいなかった。シピの手を取り、こうして遠くまでやって来ても、彼女の心はタイヴァスに従っている。
オネルヴァは、シピとは違う。タイヴァスに産まれ、タイヴァスの中にあり、タイヴァスのために生きてきた。シピのように外界との接触があるわけでもなく、ずっとていねいに閉じ込められてきた。そこに、なにかべつの価値観が、発生するわけがない。
では、なぜシピとともにやって来たのか? なぜシピを選んでくれたのか? それは、これまでなかった選択肢を示されたからに過ぎないのではないか。選びようがなかったのだ。目の前に手を出されたから。だから。――自分がいかに自惚れていたのかとシピは打ちのめされる。
シピは、震える声でオネルヴァへ告げた。それが彼女を納得させる言葉であればいいと願いながら。
「……オネルヴァ。あなたはもう、器でなくともいいのです。ここは、タイヴァスではありません」
思っていた以上に出た声は弱々しかった。手が震える。息が詰まる。なにかこの状況を打開する方法を探ってみるけれども、シピの目にはなにも見えない。
「……私は、あなたに人として生きてほしかった。だから、ここまで連れてきた。姫神子じゃない、器じゃない、あなたはオネルヴァだから」
オネルヴァは少し思案の後、首を傾いだ。そして述べる。
「人。器。シピ」
それは単なる言葉の羅列ではない。オネルヴァは、彼女なりに必死に――なにかを伝えようとしている。けれど、きっと意味を持って発せられた声は、シピには届かない。困惑したシピを見て伝わらないとわかったのか、オネルヴァはじっとシピを見たまま、また首を傾ぐ。
「人。器。だめ? 人。器」
「そうです、オネルヴァ。器であることは、人としての生き方を踏みにじることです」
「シピ」
オネルヴァはシピを指差し、シピの胸に触れた。彼女の少ない語彙では、自分の気持ちや考えを伝えるに十分じゃない。もどかし気に瞳が揺れる。シピは辛抱強くオネルヴァの言葉を拾い集める。
「シピ。いっしょ。器の儀。だめ?」
――やはり、彼女から、姫神子と器に関する考えを取り除くことはできないのだ。それはシピに大きな失望を生む。それと同時に、ずっと自分はオネルヴァの気持ちをないがしろにしてきたのだと気づき、泣きそうになる。
オネルヴァはもう一度言った。
「シピ。いっしょ。……器の儀。だめ?」
繰り返されたその言葉を考える。意味を乗せて発せられたのはわかる。
いっしょ。シピ。だめかどうかの問いかけ。
その真っ直ぐな瞳を見ながら、ふと、思った。
――彼女は、選ぼうとしているのだろうか? 選択肢のない中で。なにかを。
タイヴァスの習いにただ従うのではなく――彼女自身の意思で。
オネルヴァは、器の儀を成すことを求めている。そして――
「私と――私を、器の儀に選んでくれるのですか?」
オネルヴァは、はっきりと首を傾いだ。
瞬間、シピの心が、歓喜に染まる。
そして、気づいた。
最初から、オネルヴァはシピを選んでくれていたと。
シピは立ち上がった。火鉢によらない熱が自分の中に湧き上がったようで、じっとしていられない。ぐるぐると、広くはない納屋の中を歩き回る。オネルヴァも立ち上がってそれを真似る。しばらく意味もなく互いにそうしていて、オネルヴァはシピの胸にぶつかった。
シピはその体を抱き留めて、抱き上げる。小さな体を抱きしめる。
「……はは、はははは!」
笑い声が漏れた。きっと今、自分はとんでもなく浮かれた顔をしているとシピは思う。オネルヴァに見られたくなくて、抱き締めた体の肩に顔を埋める。そのままぐるぐると納屋の中を歩く。
自分はとても都合の良い人間だ、とシピは笑った。器の儀は人の道にもとると言いながら、それに指名されてうれしいと感じている。オネルヴァの考えを変えなければと先ほどまで思っていたのに、それならばかまわないと考えている。どういうことだろう。本当に調子に乗っている。なんて愚かだろう。笑いが止まらない。
足を止めて、シピは尋ねた。
「……器の儀の日は、あさって、ですか?」
「あさって」
オネルヴァの肩に顔を埋めたまま言うと、オネルヴァはそれを肯定した。抱いた腕にぎゅっと力を込める。
「……納屋を、片付けなければならないですね。それに――」
シピは、器の儀のためにはどんな準備が必要だったか、と記憶を探った。胸の奥に、確かなよろこびと、かすかな恐れが絡みついているのを感じながら。




