第二十一話 熱
「――あの人からあたしへ連絡をくれるなんて、この三十年、数えるほどしかなかったのにさ」
ウルスラの口から返ってきたのは、問いへの正面からの答えではなかった。回りくどく核心に触れようとしないその語り口は、相手の肚の内を読む術を持たないシピにはただ難解なだけだ。しかも彼女は多くの言葉を費やしても、シピに明確な理解を与えてはくれなさそうだ。ウルスラの態度にはシピへの関心のかけらも見えなかった。それがまた、いっそう彼女の話をわかりづらくさせている。
「先週だよ。手紙が届いたんだ。タイヴァスからね。寄進の名目で、会いに来てくれって。そんなの初めてのことだった。これまで三回ももらった手紙はぜんぶ、そんなに喜捨する必要はないって内容だったのに。会いに来てくれってさ。――あたしに!」
それは、世話人とのやりとりなのだろうか。あいまいな言葉の連なりは、シピの思考をかき乱した。ウルスラも、べつにシピへわかってもらいたいわけではないのだろう。聞かれたから答えているというのではなく、だれかに話したくてしかたないのだ。なので、シピのあいづちに因らずに話は続く。
「寄進に行ったさ。指定された日時にね。その日は当番だったみたいだね。とにかくさ、時間がかかるものばかり持って行ったのさ。そうすりゃいっしょにいられる時間が増えるだろ。そしたら話してくれたんだよ、あんたのことと、お姫さんのことをさ」
シピは自分とオネルヴァについて述べられ、顔を上げる。ウルスラはシピを見ながら、その視線はここには居ない違う者を見ているようだった。熱を持った言葉は朗々と続く。
「――逃がしてやりたいって。頼れる人があたししかいないって。二つ返事だよ、もちろんね。だってあの人が、あたしを頼ってくれるんだよ? だれもいないんだって、頼れる人が。――あたし以外に! あたしが、選ばれたんだ!」
爛々と光る瞳を、シピは空恐ろしく感じた。それでも、わかったことがある。この逃亡の手引きは、世話人がウルスラへと依頼したものなのだ。シピの胸に感謝の念がふつふつと湧く。だがその直後ウルスラの口から漏れた言葉に、喉がひときわ強く鳴る。信じがたい内容だった。
「――やっとだよ。ずっと待ってた。あの人があたしのものになる日を。ああ、三十年! あの人が御輿を担ぎ始めた日から、ずっと! だれよりも綺麗だった。街道で見守るだけ? 冗談じゃない。こうなることを願ってたんだ。タイヴァスがあの人を捨てる日を!」
シピは浮かされたように言うウルスラへ、口早に尋ねる。ウルスラは鼻を鳴らして答えた。
「――タイヴァスが、捨てるとは? 世話人殿は、どうなるのだ?」
「どうもこうも。お姫さんを逃がした責任を取らされるだろうさ。こんなこと、前例がないからね。身ぐるみ剥がされて、たぶん市民権だって失って、放逐されるだろうよ」
時間が、止まったかと、シピは思った。
――考えてもいなかった。
シピは、オネルヴァをあのままにはできないとの目の前のことだけに思いが向いていた。
なので、そこまでのことを想像できなかったのだ。自分の行動により、だれかが罰せられる――
部屋の空気が、急に、薄くなったように感じる。階段のそばに置かれた火鉢が外よりずっと室内を暖めているはずなのに、それでもシピの背筋には冷たいものが這う。世話人は、姫神子とその御輿の世話人だ。オネルヴァと、御輿を担いでいたシピは、今ここにいる。そうか、そういうことなのか。やっと、それに思い至り、シピは思わずその場に立ち上がる。しかしなにかできるわけでもなく、眠るオネルヴァの姿を見て、またその場に座る。
「――やっとだよ。やっとあの人があたしの手に落ちて来た。やっと。そういう約束なんだ。あんたたちを無事に逃がす。そして、あたしはあの人を得る。他に頼る人が居ない、あの人を。そういうこと」
……それは、古くから忌まれてきた人身売買と、いったいなにが違うというのだろう。――なにも、違わない。シピとオネルヴァの自由と引き換えに、世話人は自分自身を売ったのだ。自ら、だれかに拾われなければ生きては行けない身分へと、身をやつしたのだ。
はっと息をつく。上手く呼吸ができない。シピは、なにか自分の不安を否定してくれる材料を求めて狭い室内を見回した。そして、ウルスラを見る。
彼女は、否定してはくれなかった。それどころか、見たくない現実を突きつけてくる。
「タイヴァスの中にいたら、ずっと手に入らなかった。でも、自分から出されるようなことをしてくれたんだ。手助けしないわけがないさね。安心してよ、あんたたちのことは、ちゃんとキヴィキュラまで送ってあげる。そういう約束」
聞き覚えのない地名が口にされた。それはどこか。それを質問するのはためらわれた。シピの一挙手一投足が世話人の体を雁字搦めにしているようで、取り返しがつかなくて、身震いひとつもできやしない。
――シピが動かなければ、世話人は、タイヴァスでずっと穏やかに暮らせた。けれど、シピが動かなければ、オネルヴァは、あのまま――
「――あたしだけのものになるんだ。あたしにとっては、あの人こそが神だった。ずっと。あの人が。ああ、やっと!」
ウルスラのその熱を、なんと呼ぶのかシピは知らない。
けれど、ふと思う。彼女と自分の隔たりは、どれほどのものだろう、と。
――それほど違いはしないと思えた。
言いようのない後悔。けれど他にどうしようもなかったという切実な気持ち。その両方が、シピの心の重しとなってそこに留まらせる。
ウルスラへの手紙を書いた世話人の気持ちを、考える。
笑っていただろうか。泣いていただろうか。それとも、怒っていただろうか。
シピは思いに沈む。果たして自分は正しいことをしたのだろうかと。いや、ただ目の前のものを壊していっただけかもしれない、と。




