第十三話 眼差し
持ち出した医薬に関する書を、書庫へ返さねばならない。シピはもと来た廊下を戻りながら、思いをオネルヴァの元へ飛ばす。そして、聞いたばかりの方薬のことを考える。
生殖に影響を与えるためのものだというのは、わかりきっている。血巡りを良くしたり、女性性を高めたりする効能は、確かに出産に関わりがあるだろう。しかし――体調を崩すほどの量が処方されている。それは、なぜか。
本来、子を成しやすくするためには、体調を整えなければならないはずだ。だが、実際には鼻血が出るほどの負荷がかけられている。それも、ただ一度ではなく、常日頃から多量に処方されているのだ。
作為的な不均衡。そうとしか思えない。
オネルヴァは、その理由を知っているのか。ならば、本人に尋ねるべきかもしれない。
思考に沈んでいたせいか、気がつけば書庫の前を通り過ぎ、通い慣れた場所――御輿の間への渡り廊下に立っていた。
「――その書は、方薬に関するものか」
背後から声がかかる。シピの体がびくりと硬直した。すぐに振り返ることができず、深く息をつく。そして、そろそろと声の方向を向いた。
見慣れた姿がそこにある。
かつて、シピたちが『神の足』としての役を果たしていたころ――御輿の垂れ幕を正しくまとっているか、儀式が滞りなく進んでいるかを見届ける者がいた。その一人。
黒髪の従者が、底の見えぬ深い眼差しでシピをじっと見据えている。
シピは動揺し、思わず手にした書を背中に隠した。しかし、すでに気取られているのは明らかだ。こんな仕草は、ただの悪あがきに過ぎない。まるで、なにかの審判を受けているような気分だった。
「調べているのは、キナンジュジュバの種か。それともロンガンの果肉か?」
シピは驚きのあまりに喉の奥で声をあげてしまった。それは、オネルヴァが服用していると述べた方薬の一部だ。
――彼は、知っている。
シピが、オネルヴァと接触していることを。
それを確信するに、十分すぎる言葉だ。
嫌な汗が背中を伝う。先ほど茶を飲んだばかりなのに、全身が渇いているように思う。喉が張りつくようで、唾を飲み込むことすら苦しい。
見られていたのだ。おそらく、シピがオネルヴァの居るあの窓へ駆けていくのを見られていたのだ。その眼差しには、探るような色がない。すでにすべてを知っている者の、揺るがぬ視線だ。
なにか言い訳をしなければと思う。けれど、真っ白になった頭ではなにも考えられない。
なので、それは破れかぶれだったのだ。シピ自身も、どうしてそんなことを口走ったのか、考えてもわからない。シピは大きく息を吸い、そして目の前の従者の目を見返して言う。
「あなたは、それが良いと思っているのか?」
深い色の瞳が、表情なく揺れた。その眼差しに、シピは既視感を覚える。
従者はなにかを言いかけて、やめた。そして、少しの後に言う。
「器は、どうあっても姫神子を産む器でなければならぬのだ」
シピの中で、ひとつの疑問が確信へと変わる。
息が詰まるようだった。理解してしまったのだ。――いや、理解させられてしまったのだ。
器。今のオネルヴァに求められているのは、ただ子を孕み、産むことではない。
その子が、確実に女児でなければならぬのだ。……次代の姫神子とするために。
全身が怖気立つ。シピは、叫び出したいような、走り回りたいような気持ちになる。
ああ、ああ。なんて嫌な予感であっただろう。そして、それはなぜ的中してしまうのだろう。
強い器とは。それになるための期間と、鼻血を出すほどの処方。――まさしく! オネルヴァはただの器として扱われているのだ!
「あなたは、それが良いと思っているのか!」
同じ言葉を繰り返す。だが今度は、はっきりとした批難を込めて。書物を持った手に力がこもる。投げつけてしまおうかとちらりと思う。やるせなくて、どうしようもなくて、シピはただ首を振る。
「……私は、ただの世話人だ。たとえなにかを思うとしても、変えることはできない」
返ってきたその言葉に、シピは息を呑む。信じられない。シピには、彼の結論が信じられない。
「あなたがそう思うのは、怠慢だ!」
「そうであろうな」
敵意すら感じる。そしてそれを声に乗せた。世話人の男は、そのシピの言葉すらもさらりと躱すのだ。
シピにとって、オネルヴァに成されていることははっきりとした悪だ。オネルヴァは、神ではない。人なのだ。だから、方薬を以てでしか、姫神子を孕む器になれない。そうして紡がれて来た歴史があるのだろう。代々の姫神子はそのようにして生まれて来たのだろう。ああ、ああ。シピにはもう、タイヴァスが穢れた場所にしか思えない。
しかし、それを声に出して言うことはできない。シピの中にも、確実に姫神子への帰依があるのだ。そのように育てられて来た。自分は、選ばれて神の足になったのだと。よってタイヴァスに在って従順であるようにと。根底から、すべて覆されてしまう!
恐ろしかった。しかし、心のどこかで予期してもいた。オネルヴァが人であると知ったときから。姫神子は神ではないと理解したときから。けれど、心が追いつかない。
シピは唸った。世話人の諦念の浮かぶ眼差しに、反発と共感を覚える。そして、親しみすら。ああ、ああ。どうしたらいい。この、二心を、叩き斬ってしまいたい。
それからのことはよく覚えていない。気づけばシピは自室に立ち呆けていた。
そして、また黎明の時が来る。




