第十一話 医薬
シピは自分の中にある熱が焔だと思う。燻り、延焼し、居ても立ってもいられなくする。
ずっとオネルヴァのことを考えている。まばたきをわすれるほどに。人々は上の空のシピを、時期が時期だけに仕方なし、と斟酌してくれる。なので取り繕う必要もない。
だれにも見咎められていないことをいいことに、シピは毎日オネルヴァの元を訪れる。いつだれかに指摘されるかもわからないと思いつつ、そうすることをやめられない。朝と夜の狭間。闇と光が交わる時刻。
オネルヴァはいつも、窓を開けてそこに立っている。それはまるで、シピを待ってくれているのではないかと思わせる。言葉は少ない。ただ、同じ時間を共有する。それだけでいい。
そうして訪れて四日目のことだ。さすがに裸足では朝霜が冷たく、シピは靴を履いている。そうすれば、だれかに出くわしたときに運動をしていたのだと言い訳もできる。事実シピは、オネルヴァと逢瀬を遂げた後、タイヴァスの周りを走り回っている。以前も早朝にそうしていたことがあるから、だれかが不思議に思うこともない。
「オネルヴァ……おはようございます」
返事はない。ただ、彼女は少し首を傾ぐ。それでいい。言葉もない。シピは一言二言述べる。それにオネルヴァが首を傾ぐ。ただそれだけ。それだけで十分だった。
日中、ずっと何を話そうかと考えているのに、いざオネルヴァを前にするとシピはすべてを忘れてしまう。だからただ見つめ合うだけの時間が生まれる。それは何よりもの贅沢で、また今日もオネルヴァがシピへと手を伸ばしてくれるのを待ち望む。
穏やかで、それでいて研ぎ澄まされた初冬の朝。刺すような冷気が、ふたりの間に満ちている。オネルヴァの声が聞きたいと思う。シピは不器用に、また自己紹介する。なにが好きか。なにを学んだか。オネルヴァは首を傾ぐ。そして、稀にシピの名を呼ぶ。
今日もまたそうだった。少しだけ低い、女声。菓子よりも甘い唇。それがシピの名を告げる。
「シピ」
まるで、それしか言葉を知らぬように。そうであればいい、とシピは思う。
オネルヴァはじっとシピを見ている。シピも言わずもがな、彼女をずっと見つめている。だから、些細な変化も見落とすわけがない。
表情にも、顔色にも変化はなかった。なので次の瞬間シピは動揺して声を上げそうになる。
窓の縁に、ぽとり、と血が落ちた。オネルヴァが、鼻血を出したのだ。
「オネルヴァ! だいじょうぶですか?」
ゆるゆるとした動作でオネルヴァは白い手で鼻を覆う。今にも窓枠を越えそうになる。一大事だ。目の前でオネルヴァが血を流している。これが『穢れ』なのだろうか? そう思ったが、書物を信じるならば、その血は鼻から流れるものではないはずだ。
オネルヴァは少しだけうなずく。そして、静かに言葉を紡ぐ。
「お薬の。鼻血が出る。いつも」
そして、ゆっくりと部屋の中へと戻っていく。覗き込むと、手慣れた仕草でオネルヴァが布巾を鼻に当てるのが見える。
「オネルヴァ。オネルヴァ。だいじょうぶですか?」
他にかける言葉を知らない。医師を起こして連れて来ようにも、なぜシピがオネルヴァの状況を知っているのか説明はできない。
オネルヴァはシピを振り返り、鼻を押さえたまま首を傾ぐ。
「キナンジュジュバの種。飲んでいるから。ずっと。ロンガンの果肉。併せて。鹿の角と、ピオヘデルマ」
告げられた薬剤の名をシピは復唱した。オネルヴァは是認のために首を傾ぐ。
そして、今朝もまた、この時の終わりを意味する一日の始まりの鐘が鳴る。
扉が三度、打たれた。
オネルヴァがそちらへ向かう背を見つめながら、シピは後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
シピは走り回った。朝餉の前には全身汗まみれで、湯を使いたかったが、浴場は午後からだ。体を拭いて着替える。
五はいつもの通り訳知り顔でシピを見る。二は笑顔で。三は自らの進退に悩み続けている様子。四は席に着いたシピへ、朝のあいさつとともに告げた。
「一、おまえはやはり、私とともにタイヴァスに残るのがいい」
「どうして?」
「そんなに毎朝走り回っているのだ。隅々までタイヴァスのことを知っているだろう?」
その場に笑いがさざめく。シピの胸が大きく跳ねる。オネルヴァの元へ行っていることを、気取られたかと思い、みなの顔色を窺う。どうやらそれは思い過ごしのようだった。シピは安堵の息をつく。
朝餉の後、すぐに書庫へ向かう。日参しているので、司書はシピが来るのを待っている。
「おはよう、一。今朝も走っていたのか」
「走った。習慣になると、走らぬと体が重くなるのだ」
司書は、シピが自分で考え抜いて進路を見出すよう、導こうと見守ってくれている。ありがたい気持ちと、どこか後ろめたい気持ちがまぜこぜになる。
以前読んだ世俗の仕事の書物に、薬剤を扱う項目もあった。その頁を開いて卓に乗せ、薬剤に関する書物を探しに書架へ戻る。
何冊か見繕い卓へ戻ると、司書が書を見下ろしてシピへと尋ねた。
「医薬官に関心があるのか、一」
「わからない。どんな仕事なのか、知りたいのだ」
「良いな。おまえなら、なんにでもなれるよ」
司書がシピを見る瞳は、毎年故郷から尋ねて来る両親に似ている。なので、シピはあいまいにうなずくことしかできない。
キナンジュジュバの種。ロンガンの果肉。司書が立ち去った後、すぐにそれを調べる。それが併用されたときのことも。
両方とも血巡りを良くするものだというのはすぐにわかった。それゆえに、鼻血も出てしまったのだろう。しかし、オネルヴァがその薬剤を飲んでいる理由が知りたいとシピは思う。
それに、鹿の角。……女性性を高める効果があるらしい。
ピオヘデルマ。生殖に関わる機能を左右する。女性が用いると、生殖器が酸性に傾く。
それは、どういうことだろうか? なぜそんな薬を飲んでいるのか? 酸性とは?
シピは首を振った。これは、医師にしかわからぬことに思える。よって、タイヴァスの医官のところへ行こうとしたが、上手い口実が思いつかなかった。




