箱の中のアリス 6
『……訳で、しばらく王都を離れることになります。三月で戻ります。
これまでは期間を決めることはありませんでした。調査の状況によるためと地方をうろつくのが性に合っているのです。母の帰郷を催促する手紙が届いてようやく、王都へ足が向きます。
僕が特に母の言いなりだとは思わないでいただきたい。泰然と見えて心配性なのです。一度など、捜索隊を出したこともあるのですから。なので、こまめに手紙を書き送るより、本人が一旦帰って顔を見せる方が手っ取り早いでしょう?
そう、母があなたを非常に清楚だと褒めていました。「まさに深窓の姫君ね」と感心していましたよ。僕はそれは違うと反論しておきました。あなたの食い意地が張ったご様子もよく知っていますからね。あなたに興味がおありだったら、孤児院の運営のことなども話したいと言っていました。
これを書きながら、何だかつまらない気分になっています。うるさい僕が王都を離れたことで、あなたがせいせいなさっているのではないか。すっかり僕のことなど忘れてしまわれるのではないか……。そんなことを悩ましく考えてしまいます。
手紙をいただけませんか? 以下に滞在予定の宿を記します。そこに宛てて下されば、レイナ夫人の手を煩わせなくても済む。
こんなことを申し込む僕をあきれていらっしゃるでしょうか? 少し困ったように目を細めていらっしゃる様子が浮かびます。……』
ロエルの手紙を読み、アリスは思わず小さく声がもれた。「食い意地の張った」と書かれた箇所だ。彼の前で幾度も菓子を頬張った記憶はある。目が吸いついて離れなかった意識もある。知らん顔で流していてくれたが、
(やっぱり笑っていらしたのね)
と過去を恥ずかしく振り返った。
最後まで読んだ。しかし、普段は決めない調査期間を今回は「三月」と期限を切った理由は書かれていなかった。明言ないが、前後の文脈から答えは明白に思えた。
(わたしのため……?)
胸を熱くしながら繰り返し手紙を読んだ。この日、昼間にレイナからロエルとの文通を諌める言葉があった。彼にもはっきりと忠告をしたとも言った。それに彼が承諾したと聞き、こんなやり取りも切れてしまうのだろうと思った。彼女を取り巻く色彩が薄まるような味気なさを感じた。
(どうしよう)
彼はこれを書き託した後で、レイナから忠告を受けた。なので、内容は今の彼の心持ちとは異なるかもしれない。おそらくそうだ。
彼女が返事を書き、彼の示した地方の宛先に送ればどう思うだろうか。
(迷惑に思うかしら)
そうであれば彼女へ返事を書かないだろう。そして、会わなくなった三月後、再会することがあってもこれまでの彼ではないような気がする。彼女への親切、向けてくれた視線や言葉……。こんな手紙など二度と届くことはないのではないか。
全てが過ぎ去った後、自分はどう感じるのだろう。比べるのは相応しくないが、実家の大きな不正が露見したジョア王妃のように、何もかもが違って見えるのではないか。美しい魔法が永遠に解けてしまったように。
なぜか焦れるように、アリスはそんなことを思った。
ノートブックにロエルからの最後の手紙を挟み、時間を見つけて見返した。そうしながら迷い、答えが出ない自分に焦りを感じている。
ロフィが甘えてきたり侍女のミントが声をかければ、すぐにノートブックを閉じ何でもないように傍らに置いた。
「母上、今日ジュードが僕の帽子をお庭に投げたんだよ。「よじ登り」だって言って。それを小姓のゼイユさんに見つかって叱られていたんだ。意地悪をして叱られるのって、馬鹿みたいだよ」
小姓見習いに通い始めたロフィは王宮での出来事を、必ず伝えてくれた。仲良しの少年ができたこともアリスは知ったし、「よじ登り」と家の階級が低いことを侮る者の存在も知った。「よじ登り」とは本来の階級でない者が、手段を講じて身分差を埋める行為を言うようだ。
「そうね。意味のないことね。意地悪をされることがあっても、大丈夫?」
「平気だよ。そんな者ばかりじゃないもの。女官さんたちは優しいし、お庭で遊ぶこともできて、楽しいよ」
充実した日々のようだ。離れと庭に限られたささやかなロフィの世界は終わり、外を知り経験する段階を迎えている。
「母上はいつ見にいらっしゃるの?」
「しばらくはどうかしら……」
ロエルから見学許可のための推薦状をもらってあったが、王宮での高家の醜聞が上がったばかりだ。そのことに関して実家の父に伺いを立てると「敢えて今、王宮で高家の名を出して、話題になることは避けた方が賢明だろう」との意見をもらった。従うつもりだった。
「そうなの……。つまんないな」
しょんぼりした声を出す。隊列を組んで行儀よく歩く様を練習し、それを見てもらいたいと言っていたのだ。お茶を運んできたミントが明るく返した。
「王宮に通われる坊っちゃまの凛々しいお姿は、母上様はもちろんミントや使用人たちも十分承知しておりますわ。それに、そのうちきっと機会がございますわよ」
お茶の後でフーが現れた。彼が居間に通される前にアリスはノートブックを閉じていた。部屋にロフィの姿がないことで、
「坊っちゃんは?」
と問う。ミントが窓を示した。外で遊んでいる。フーは椅子に掛けアリスに向かい切り出した。
「王妃の醜聞はご存知でしょう。王宮界隈の上流ばかりの噂話じゃなくなっているようです」
「レイナに聞きました」
「王妃のご実家は姫君のご実家とどうつながるのです?」
ミントが鼻を鳴らした。高家つながりで醜聞の火の粉がドリトルン家に及ばないか。そのあからさまな確認に気を悪くしたのだ。
「同じ高家というからには同族でいらっしゃるのでは? 大旦那様は当家への風評などの影響を心配されているのです」
フーはミントの反感を軽く流し、問いを重ねた。
「簡単に言って他人です。関わりはありません。家格が同じだけで「高家」と一括りにされているだけ」
「婚姻関係もないのですか?」
「系統が違う高家同士の婚姻はありません」
「ふむ。よくわかりました。随分羽振りのよろしいお家ですから、まさか関係がおありとは思いませんでしたが……。お知らせすれば、大旦那様はご安心なさるでしょう」
納得のいった様子で戻って行った。ミントはぷりぷりと怒り、
「無礼にもほどがありますわ。姫様のお名前を図々しく利用しておいて、いざ他の高家に問題が持ち上がれば、類が及ばないかの確認だけは素早いのですから」
「こんなところでも嫌な話を聞くのに、渦中の王妃様はどんなに悩まれているかしら」
王妃の解けた魔法が戻ることはない。同情の背後でふと以前と同じことを思った。覚めた夢はもう二度と返らない。
(似たものをまた見たとしても別のもの)
決まりきった日常を繰り返しながら、思いはロエルの手紙へ飛んでいる。もう出立したのだろうか。だとすればどの辺りだろうか……。王都の外など知らないくせに、と自嘲してしまう。
(読みました。程度でも、返事をしようか)
夜、ベッドに腰掛けて思った。このまま彼との関係が途切れてしまうのが、どうしても切ない。ため息は重く長く、物思いの深さを知った。
(わたしはどうしたいのだろう?)
そこで、ドアをノックする音がした。もうとうに眠ってしまったロフィの他、離れにいるのミントしかいない。着替えを手伝った後で下がったばかりだった。
「なあに?」
「姫様、少しよろしいでしょうか?」
急用なら実家絡みのことでしかない。父に何かあったのか、胸が騒いだ。現れたミントは灯りを絞った室内で下を向き、表情が知れない。




