保健室での会話
真琴が出て行った保険室には、未来と奏が残っていた。
ベッドから起き上がり、自身の怪我の具合を見る奏に未来は言葉をかけた。とりあえず、何か話していないと落ち着かないからだ。
こんなシリアスな雰囲気、私好きじゃないな……。人生は楽しむべきというモットーを持っている未来にとって、この瞬間は苦痛以外の何物でもない。
ただ、しきりに頬を触る奏を心配せずにはいられないのも、未来だった。
「怪我、大丈夫?」
奏は自分を心配してくれる未来に対して、申し訳なさそうな態度を示した。
表と裏の性格の違いも分からない奏にとって、今の未来が本物の姿である。清楚で可憐な未来という女の子の理想的な存在に、奏はあこがれの気持ちを持ち始めていた。
それ故に、自分の中の疑問を話しても理解してくれるのではという希望的観測が出来上がったのだった。
「心配して下さってありがとうございます。怪我の方は大丈夫です。ちょっと痛いけど……。あの、私、奏っていいます。あなたの名前を教えてくれませんか?」
あれ? 一度自己紹介しなかったっけ?
心の中でそんな疑問が浮かんだ未来だったが、すぐに奏が記憶を喪失していることに気がついた。確か、あの時は拒絶されてたのに、今は自分から聞いてくるなんてね。
記憶が与える影響に少し関心しながら未来は名乗った。
「私は未来っていうの。よろしくね、奏…さん? ちゃんの方がいいかな?」
「は、はい! よろしくお願いします。何とでも言って下さって結構です、未来さん」
「じゃあ、ちゃん付けで呼ぶね」
ちゃん付けが嬉しかったのか、奏は今まで暗い表情だった顔を明るくした。
この子、記憶が戻ったらどんな反応するんだろうか。今は私を完全に信頼してるっぽいし、記憶が戻ったら拒絶するようになるのかな。
記憶を取り戻した奏の反応が楽しみであり、不安でもある未来だった。
「未来さん。私、ここ最近の記憶がないんです。私が今まで何をしてたか分かりますか?」
「うーん……そうだね……」
知っていると言えば知っている。だが、それを言ってもどうしようもない。どうせ真琴が記憶を持ち帰ってくるなら、今話すのも面倒だし非効率的だ。
そう考えた未来は、奏を使って遊ぶことにした。彼女の初々しい反応が見たかったのだ。
何がいいだろう。どうせなら自分にもメリットのあるものがいい。そうだ。アレにしよう。
「そういえば、一週間前に私から1500円借りてたわね。ま、最近知り合ったんだもの。名前も聞いてたし、私のことなんて覚えてないよね」
「え!? そうだったんですか? じゃあ、今返します! ごめんなさい、私、また名前を聞いちゃいましたね」
「ううん気にしてないよ。記憶喪失なんてそういうものだし」
「私は気にします! 本当にごめんなさい。利子つけて返しますから」
そう言って、奏は自分の財布から1000円札を二枚抜き出して未来に差し出した。
やったぜ。
未来はおこずかいを手に入れた!
しばらくして、席を離れていた保険の先生が戻ってきた。先生は未来を呼びかけ、未来はそれに応えて席を離れる。
カーテン越しの奏でも、二人の声はよく聞こえていた。
「あなたの怪我はどう?」
「あ、問題ないです。さすが先生ですね!」
「おだてても何もでないわよ」
「えへへ。それより、奏ちゃんが……」
「話を聞かせて」
「さっき会話してみたんですけど、記憶喪失っぽいんです。私のことも覚えていなくて……」
1500円借りた未来のことは覚えていなくて当然だけど。誰もツッコミが入らないこの空間で、未来は心の中で自らツッコミを入れた。
少し空しい気持ちになったのは未来だけだろう。
「それは厄介なことになったわね」
奏に近づいてくる足音が二つ。未来と先生だということは明白だ。カーテンを除けて先生が入ってくる。
そして、先生は奏を見ながら心配そうな表情をした。
「大丈夫? 奏さん。どこまで覚えているか、話してもらえないかしら?」
「ええっとですね……」
奏は記憶を一つ一つ確かめてみる。奏が覚えていた最後の記憶。それは自身がいじめられていた記憶だった。それを口に出すことがはばかれたため、奏は思わず口をつぐんだ。
「覚えてないならそれでいいのよ。別に気にしなくても大丈夫。ちょっとずつ思い出せばいいんだからね」
「はい……ごめんなさい」
その様子に、保険の先生も事情を察したのかそれ以上詮索することはない。奏に優しい言葉をかけて、自分の机へと戻っていってしまった。
先生に対して申し訳ない気持ちがいっぱいになっているのか、奏は口をキュッと結んで真一文字になっている。
ほら、早くおっさんを倒してきなさいよ。じゃないと、いつまでたっても真琴ちゃんの想い人は笑顔にならないよ。
失望の表情をしている奏を見ながら、未来は真琴に対してそんな気持ちが湧き出た。




