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35 迫りくる死

『はぁ……はぁ……ここまでのようだね』


 戦いの中で重傷を負った師匠。

 もう幾ばくも時間は残されていない。


『約束だよ、さぁ……

 アタシの胸をその杭で貫いておくれ』

『でっ……できません!』

『そう言って駄々をこねても話が進まないよ。

 それに……どのみち、あたしはここで死ぬ。

 死を無駄にしたくないんだ。

 さぁ、はやく』

『…………』


 幼い彼は震える手で師匠の胸に杭を立てる。

 そして金槌を大きく振り上げた。


『最後にアドバイスだよ。

 辛い時、苦しい時、どうしても耐えられない時。

 心を殺しな。

 自分が昆虫になったようにイメージするのさ。

 そうすると……辛いことにも耐えられる。

 さぁ、やってごらん』


 やけに優しい師匠の言葉を頭の中でリピートする。


 心を殺す。

 心を殺す。

 心を殺して無になる。

 昆虫になったように……。


 すっと、心の中から温度が消えていくのを感じた。

 喜びも、悲しみも、怒りも、楽しさも。


 何もかもが消えてなくなった青年の心は空っぽになり、心を揺さぶっていた一切の苦しさから解放された。


 その代償に、自分自身の存在を見失ってしまう。

 ここには誰もいない。

 自分でさえ。


 師匠に杭を打ち込んでいるのは自分ではなく、他の誰か。

 心が身体から抜け出していく感覚に陥ると、自分自身を俯瞰するように見下ろしていることに気づいた。


 師匠の胸には深々と杭が撃ち込まれている。

 口から大量にあふれる血潮。


 あの人は最後までずっと静かにしていた。

 静謐に包まれた死だった。










「はやく! はやく!」


 青年は少女の手を引いて走る。

 死体かつぎはすぐ背後まで迫っていた。


 地上はまだまだ先。

 どこをどう逃げても追い詰められてしまう。


「ぎぎぎいいいいいい!」


 目の前に大ネズミが現れた。

 まだアンデッド化していない。


 戦闘によってゾンビや死体かつぎの幼体の個体数が減り、モンスターが新しく湧いて出るようになったらしい。

 なんて最悪なタイミングで現れたのか!


 手加減をして殺さずに追い返す余裕はない。

 というかまともに戦っている暇すらない。


 最悪の敵がすぐ後ろまで迫っているのだ。


「ぎぎぎいいいいいい!」


 状況が理解できていない大ネズミは愚かにも二人へ襲い掛かる。


 青年が左腕で攻撃を受け止めると鋭い前歯が腕に突き刺さった。


「ああああああああああ!」


 あふれ出る血液。

 気を失いそうになるほどの激痛。


 しかし、立ち止まっている場合ではない。

 少女だけでも先へ行かせないと……。


「君は早く先へ逃げ――」

「放しなさい! この馬鹿!」


 杖で大ネズミの頭をぽかぽか殴る少女。

 大したダメージになっていないし、そんなことしてないでさっさと逃げろと青年は心の中で叫ぶ。


「ぎぎょおおおおおおおおお!」


 背後から迫っていた死体かつぎの母体。

 こちらがどんなに困っていても敵はけっして待ってくれない。



 ……びちゃ!



「ぎいいい⁉ ぎぴゃああああ!」


 死体かつぎの背中から放たれた肉塊が大ネズミに張り付いたかと思うと、ものすごい力で引っ張り始めた。

 危うく青年も引っ張られそうになったが、幸いにもネズミの口が開いて牙から解放されたのだ。


 大ネズミは少しだけ藻掻いていたもののすぐに動かなくなり、肉塊に呑まれてしまった。


「すごい怪我! 早く直さないと!」

「そんなことしてる暇なんてない! 走って!」


 悠長に負傷した青年を治療しようとしていた少女を怒鳴りつけ、再び走り出す。


 そう言えば……この辺りは少女と出会って一緒に歩いた辺りだ。

 昨日のことなのに遠い昔のように思える。


 ああ……時間を巻き戻せたのなら。

 こんな状況に追い込まれると知っていたら、死体を回収するなんて言わなかった。

 無茶なのは自分でも分かっていたはずなのに……。


 ズキズキと左手が痛む。

 ゼエゼエと息が切れる。

 体力の限界が近づいて来ている。


 たとえ勇者の血を引いていようと、力を解放しなければ体力は人並み。

 瞬間的に強大な力を発揮できる以外は他の人間とあまり変わらないのである。


 走り続けても追いつかれてしまうだろう。

 このままでは――


「――ねぇ」

「えっ……なんですか?」


 足を止めて呼びかけると、少女は不安そうに青年を見つめ返した。

 潤んだ瞳に杖に灯った光が反射している。


 鈴の音が鳴らなくなった。

 青年の死が近づいている証拠。

 どうあがいても運命は変えられそうにない。


 このまま彼女と一緒に死を待つのか?

 それはいやだ。


 ならば――


「……ごめん」

「えっ……⁉」


 青年は少女を突き飛ばした。

 突然のことに何が起こったのか分からず、彼女は表情を固まらせて闇の中へ飲み込まれていく。


 これでいい。

 これで――

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