其の肆
眼下に立った男から聞こえてきた声は、あの声だった。
思わずじっと見つめていた私の視線に気が付いたかのように、その男が顔を上げる。
『……』
……分かってる。私が見えるはずがないのは、分かっている。
けれども交わった視線に、思わず目を見開いた。
「もう、花、ちっちゃったな」
ぽつりとその男は呟くと、目を細めて右の手で幹に触れる。
『散ってるに決まってるのに、こいつ何言ってんだろ? 見てわかるだろ』
喜楽が不思議そうに私の後ろで首を傾げているけれど、それに応えてやる余裕がない。
直接私に触れているからか、鮮明ではないけれど男の心情がゆるりと流れ込み始めたからだ。
そこから流れ込んでくるのは、過去を懐かしむ切ない色。
優しさと温かさ、そして切なさ。
この男の心の声と同じ色。
その想いは溢れ出す様で、過去を垣間見る事は出来なくとも想う相手と過ごした年月がとても長いことは感じ取れる。
積み重ねてきた日々、それはそのままこの男の想いの深さのようだった。
『主さま、どうしたの?』
黙ったまま男を見下ろす私に喜楽が話しかけるけれども、私の意識は男に向けられたまま。
何も答えない私に焦れたのか、ただ単に興味をなくしたのか、喜楽はするりと枝の間を抜けて空へと浮き上がって行ってしまった。
この男は、どんな気持ちであの言葉を吐いたんだろう。
いくら口では他人を思いやっていても、本心では自分との未来を願うのが人というものではないの?
本音と建前。
そんな言葉を思い出す。
けれどこの男は、本心から他人の幸せを願ってる。
一体、どんな理由で……?
「どうしたら、沙紀さんの恋が上手くいくのかなぁ」
心の声ではなく口から出た声に、耳を傾ける。
「俺じゃ何の助けにもならないし、見てるだけしかないのかなぁ」
肩を落とした男は、小さく息をついて幹から手を離す。
そして一度伏せた顔を、再び上げた。
「この桜の花、見せてあげたいのに」
『花を……?』
なら来年の春に、ここに来ればいいじゃないの。
意味が解らない。
首を傾げている私が見えるはずもなく、その男は言葉を続けた。
「沙紀さんと兄さんで、見て欲しいのに」
……兄さん?
沙紀に兄さんに……、この男は自分の為に祈らないのかしら。
第三者の名前が出てくるだけで、自分が一切出てこない。
一体この男は、どんな理由で他人の幸せを願うのだろう。
名は、なんというのだろう……
ひと月前に惹かれた興味は、今日再び会う事で、その深さを増して行った――
春 終わり




