番外編4 父親の一歩 後編
全治三ヶ月、足の甲の骨折の他に頬の切り傷、臀部の打撲。悠子ちゃんの病院での診断結果を聞かされた時、俺は安里への情を切り捨てることにした。
子供の頃から懐いてくれて可愛い姪だと思っていた。けどその裏には非情な面を隠しており、悠子ちゃんに暴力を振っただけでなく、和泉はトラウマを植え付けられていた。兄には和泉と安里の結婚の話はなかったことにして貰い、今後和泉や悠子ちゃんへの干渉はしないよう頼んだ。
それでも無理なら法的手段に訴えるつもりだったのだが……悠子ちゃんが一人で解決させてしまった。
和泉に「中学生の悠子ちゃんに守ってもらうなんてそれでも男か」と叱ったが自分も人の事が言えない。不甲斐ない父親だった。仕事に逃げて見て見ぬふりをしてきたものが多すぎた。そのツケが帰ってきたのだ。和泉や悠子ちゃんを傷つける結果となって……。
そんなオレに対しても妃さんや悠子ちゃんは優しくてオレを責めたりしなかった。「これから変わればいい」と元気づけてくれたのだ。ますますオレは家族が愛しくなってもっと大切にしようと心に誓った。
その決意はオレだけではなく和泉も同じだったようで怪我をした悠子ちゃんの世話を進んでやり、ますます過保護になっていった。
玄関で待機していた和泉は帰宅した悠子ちゃんの足下に跪き靴を脱がせたら、お姫様だっこをして部屋まで運び、しょっちゅう悠子ちゃんの部屋に行ってはおやつを持っていったり不便はないか聞きに訪ねていた。悠子ちゃんが「そこまでしなくても大丈夫ですよ」と言っても和泉には通じず、手の怪我もしてないのに食事の介助までして悠子ちゃんを困らせていた。
正直、見ていて居たたまれなかった。和泉のそれは妹に対する態度には見えなくて砂を吐きたくなるような様なのだ。悠子ちゃんの気質を考慮してなのか、言葉遣いも優しくしてオレの前とではまるで違うし、表情だって蕩けるような笑みを浮かべて悠子ちゃんをたじたじにさせている。それが一日ではなく連日続くのだ。
他の日も和泉は悠子ちゃんがお風呂から上がって来るのを脱衣室の扉の前で待機していた。
お風呂上がりの悠子ちゃんをソファに座らせて、和泉は後ろからバスタオルで髪を拭いていた。その様子をオレはダイニングテーブルの椅子に座って「仲がいいなぁ」と眺めていた。そこまでは微笑ましい光景だったのだが、悠子ちゃんが小さな声を上げた時から空気が変わった。
目を凝らして見れば和泉が悠子ちゃんの首筋に顔を埋めていた。
「いい匂い、今日はゆずの入浴剤にしたんだね」
「ちょ、ちょっと和泉さん、やめてくださいよ! それに耳元で話すのは」
「話すのは、なぁに?」
と意図的に耳の傍で囁いて悠子ちゃんの反応を楽しんでいる。悠子ちゃんの顔は見えないけど解る。きっと真っ赤になって涙目になってる。
これは父親として放っておいてはいけない案件だ、と立ち上がろうしたら和泉が無言でオレにしっしと手を振っている。
オレはボディーランゲージで和泉に訴えた。きっとここでオレが声を出したら、父親に見られたショックで悠子ちゃんは更に恥ずかしい思いをすることになると思っての配慮だ。
表情を厳しくて、和泉に人差し指をさして何度も上下させる。そんなオレを見る和泉は五月蠅いと言いたげな顔をしていたがオレが「きさきさん」と口をパクパクさせたら、普通に悠子ちゃんの髪をドライヤーで乾かしだした。和泉も流石に妃さんには告げ口されたくないらしい。
妃さんの名前に頼るのはかっこ悪いかもしれないが恐らくオレから言っても効果は薄い。それだけ和泉には信用されていないし、反抗的態度を崩さない。悠子ちゃんのおかげで大分昔よりは当たりが弱くなったが、オレと二人になるとそうでもないのだ。
だから出来れば、そんな環境にならないよう気をつけていたが――突然、和泉がオレが一人の時を狙って爆弾を落としてきた。
「悠子ちゃんには必要だと思うんだよね」
バサッとオレの机の上に乗っけられたのは数冊のパンフレットだった。
悠子ちゃんに必要ってことは調理器具とか……? と思いながら手に取って見てみれば違った。部屋に置くタイプのカメラのパンフレットだった。
確かに俺はカメラマンで専門分野ではある。仕事で必要な物だし今まで様々な機種を使いこなして来たが……これは違う。断じて違う。
冗談であって欲しいが和泉はわざわざオレの部屋に訪ねて来て冗談を言うような息子じゃない。これは紛れもなく本気で言っているのだ。
「伯父さんがウチに来た時も相手の言うことを信じて家に入れちゃうしさ、不用心過ぎる」
「まぁ、悠子ちゃんは素直だから……」
「だから! 守らなきゃいけないんだ。よくあんなに無防備で無事に過ごせてたと思うよ。伯父さんが暴漢だったら一巻の終わりだった……もしそんなことになったら豚箱に突っ込むだけじゃ足りない。毎日心配で気が気じゃないんだ。これがあれば少しは安心できるからとりあえず玄関とリビングにすぐ設置するようにしてくれ」
悠子ちゃんの身の安全を第一にまともな事を言っているように聞こえるがえげつない。兄なんかまるで暴漢扱いだ。オレも悠子ちゃんを一人で留守番させてる時は心配になるが和泉ほどではない。
「でも悠子ちゃん嫌がると思うぞ、こういうの」
悠子ちゃんは結構プライバシーとか人目を気にする繊細な子だ。
「だから親父に頼んでるんだ」
オレに悠子ちゃんに嫌われろと!?
「俺から言うと悠子ちゃんは警戒する気がする。看病した時も監禁しないでとか言われたし。間違いなく親父から言った方がいい」
監禁って言われるような看病って……?
悠子ちゃんが俺の知らない所で不憫な目に遭ったということだけは伝わってきた。
「それにカメラに見えないデザインだし家にあっても違和感ないだろ」
パンフレットに載っているのは一般的に店に取り付けられているような物とは違い、見守りカメラという家庭に優しいカメラだった。赤ちゃんとかいる家族が外出先でも見れるように使ったりするのだろう。
しかし和泉が使うとなると異なる。これは監視カメラだ。四角いキューブ型で一見、インテリア雑貨にも見えるから部屋とかに置いても隠しカメラとしても使えてしまうだろう……。
「だけどカメラが家にあったとして、悠子ちゃんの危機意識が変わらない限り意味がないぞ。それにこれは小さな子供とかペットに使うヤツじゃないか」
「子供、ね……」
と和泉は口元に手をやって考え始めた。
冷静になって欲しい。これはもうすぐ高校生になる女のコを見張る為に使う物ではない。
「――わかった」
「わかってくれたか!!」
話を聞いてくれて良かったと安堵していると和泉は違う話を始めた。
「路線を変える。親父、悠子ちゃんは弟か妹が欲しかったみたいなんだけどこれから予定はないの?」
ぶっと脈絡がなさ過ぎてむせた。咳込むオレを無視して和泉は話を続けた。
「俺はアリだと思う。大丈夫、子育ては俺と悠子ちゃんと妃さんで頑張るから!」
「な、何をいきなり」
「悠子ちゃんは自分を襲う人間なんかいないって思ってる節があるからさ、守るべき存在がいれば変わると思うんだよね。それに何より理知的で凛とした妃さんを親父がずっと掴まえられる自信あんの」
痛いところを突かれてぐっと言葉に詰まる。努力はしているが力不足は否めない。
「妃さんはさばさばしてるけど子煩悩な人だと思うしさ」
結構どころかかなりだ。あまり態度には出さないけど悠子ちゃんを大切にしてくれると思ったからオレとの結婚を決めてくれたようなものだ。
「悠子ちゃんの為にも協力は惜しまない。その内チャンスを作るから生かしてくれよ」
和泉は笑顔でオレに念を押して部屋から出て行ってしまった。オレはパンフレットを閉じて途方に暮れた。
妃さんとの子供は勿論欲しいけど……。今はまだこの四人家族の時間を大事にしてゆっくり進んでいきたいと思っていた。
たぶん和泉は不安なんだと思う。オレがまた離婚してしまう可能性も視野に入れてる。悠子ちゃんのこともあるだろうけど、だからあの提案に繋がったのだ。
――近々、妃さんにも相談してみよう。
めずらしい息子のお願いごとだ。オレは前向きに検討することにして和泉が置いていったパンフレットを戸棚にしまった。
数ヶ月後、和泉は本当にチャンスを作ってきた。和泉と悠子ちゃんが二人で旅行に行く間に頑張れ、ということらしい。
大学の受験勉強もあって大変だったろうに。――最速で車の免許を取って、バイトで貯めたお金を悠子ちゃんとの旅行代に当てて、更に悠子ちゃんの受験勉強も見てあげていたのだが、彼女の前では一切その苦労を見せないで寝る時間を削っていた……。健気過ぎて何だか泣けた。
「お父さんも一緒に行きましょうよ、家族旅行の方が楽しいですって!」
と悠子ちゃんに泣きつかれた時は本当に困った。
和泉の願いも、悠子ちゃんの願いも叶えてあげたい!
だがしかし、和泉の並々ならぬ努力を知っている以上、その機会は生かしたい。
オレは心を鬼にして「悠子ちゃんはもう少し和泉と親睦を深めてもいいと思うよ?」と断った。傍にいた和泉がショックを受けた表情の悠子ちゃんをオレから引き離してヨシヨシと悠子ちゃんの頭を撫でている。
女性恐怖症の和泉がこんな風になるなんてなぁ。
――この独占欲の塊は感情の正体に気付いているのだろうか。
聞けばスイッチを入れてしまいそうで聞けない。オレは今はまだこのままでいて欲しい、と祈りながら二人を見守っていた。
「お父さん! お待たせしました~」
皿洗いを終えた悠子ちゃんがオレの前の席に座り、その隣に立つ和泉が三人分のお茶をコップに注いでくれている。和泉が席に着くと三人で「いただきます」と朝食を食べ始めた。
あれから早いもので二年、時間はあっという間に過ぎていった。豊が生まれたり、悠子ちゃんはバイトを始め、和泉は公務員を目指して頑張っている。
「ありがとう。あと昨日のバレンタインのチョコも美味しかったよ。本番までに帰って来れて良かった」
「あれ実は母さんと一緒に作ったんですよ」
「え!? そうだったんだ。妃さん何も言ってくれなかったけどな」
「自分の柄じゃないらしいですよ。『メッセージカードにも私の名前は入れなくていいわよ。来年も期待されるから』って言ってました」
「でも教えてくれたんだね……ありがとう悠子ちゃん」
外国へ仕事に行く前、バレンタインの話をした時に「妃さんからチョコを貰ったことがない」と訴えていたことを悠子ちゃんは覚えてくれていたようだ。チョコにはオマケまでつけていてくれたし、何て親孝行な娘なんだ。
「オマケのあの券も今度使わせてもらうね。ちょっと使うのが勿体ないくらいなんだけど……」
「使って下さいよ! でないとあげた意味ないじゃないですか」
「何それ、俺のチョコにはオマケなんてなかったけど。……悠子ちゃん?」
和泉が隣に座る悠子ちゃんにニコリと笑って尋ねた。冷たい空気を放つ和泉に悠子ちゃんは慌てて言った。
「あれはいつも仕事を頑張ってくれてるお父さんへの感謝の気持ちとして差し上げたんです。それに和泉さんは肩たたき券なんて必要ないでしょう?」
何故その券がオマケとしてついてきたかと言えば以前スマホで悠子ちゃんとやりとりしている時に悠子ちゃんに欲しい物の候補のひとつとして上げておいたのだ。いつもオレの誕生日の時とか結構悩んでいるみたいだったから。お金も掛からないし、自分が憧れを抱いていたものだったので希望リストに載せてみた。
それがまさかチョコと一緒にくれるなんて思ってもみなかったから驚いた。
「俺だって欲しかった!」
「私、和泉さんが肩凝ってるなんて一言も聞いたことないんですが……」
悠子ちゃんは面倒くさそうな顔をして和泉を見ている。
「そしたらデート券とかマッサージ券とか欲しいのはいっぱいあるし」
「そうですか、つまり私が心を込めて作ったチョコだけでは物足りなかったんですね」
険のある声で言い放った悠子ちゃんに今度は和泉が慌て始めた。
「いや、愛情いっぱいで嬉しかったよ! けどね、父さんだけにあげるのはちょっと……ズルいような」
一体何を見せつけられてるんだろうな……。悠子ちゃんも何だかんだで和泉を好いてくれているのは解るので痴話喧嘩にしか聞こえない。オレは口を挟まず黙って食事を続けた。
「では来年に期待して下さい。ほら、食事が冷めちゃいますよ!!」
不満を漏らす和泉が鬱陶しくなったのか悠子ちゃんはぴしゃりと和泉を叱って食事に集中し始めた。そんな悠子ちゃんの様子をちらちらと和泉が伺っている。
そうしている内に玄関から妃さんが帰ってくる音がした。
豊とリビングにやってきた妃さんは「私の朝食は?」と悠子ちゃんに尋ねている。
「ラップして冷蔵庫に入れてあるよ。今あっためてくる」
「自分でやるからいいわよ。あんたは先に食事食べちゃいなさい」
妃さんは「ありがとね」と悠子ちゃんの頭をポンを叩いて豊をベビーベッドに寝かせた。
先に朝食を終えたオレはお皿を下げて、サッと豊の傍へと近づいた。そのベッドにはいつかパンフレットで見たカメラが取り付けられていて、仕事で家を離れる俺に癒やしをもたらしてくれている。
ここに辿り着くまで何度も離婚を経験したり、息子とは仲違いをして現実から逃げるように仕事に没頭したり、初めて自分から好きになった女性へ勇気を出してプロポーズしたり、不慣れな父親業を頑張ってみたり、沢山の苦労があったけれど諦めなくて良かった。
パーパ、と無邪気な笑みを浮かべてオレを呼ぶ豊に泣きそうな顔で手を伸ばした。




