23 妹の尽力
電話で佐藤さんに解決のヒントを貰った日の翌朝、窓から注ぐ朝日を感じながら気持ちよく目が覚めた。早寝したおかげで頭がクリアになっている。
佐藤さん曰く、兄は世間一般でいう《普通の兄》になろうとしていて、その為に私との接触を避けているらしい。
そりゃ私だって兄のスキンシップが激しいと思ったことは、一度や二度どころでは済まないけれど、それを一切止めるというのは極端ではないだろうか。その癖、私が寝ている時は触れてくるなんて理解に苦しむ。
私に触れて傷つけるのを恐れる兄を安心させるには、私から以前の兄がしていたような身体的コミュニケーションをとるようにすればいい、と佐藤さんにアドバイスを頂いたが……冷静に考えてかなり高難度の解決策なのではないかと気付いた。
ベッドから起きあがった私は腕を組んでこれまでの兄の所業の数々を思い出す。パッと頭に浮かんだのは昨日の首筋への件だった。
あれを私から? ないない、素面で出来ることじゃない!
でも思い返せば頬にも額にもされた記憶があるし、親指を唇に押し当てられたり、ソファで覆い被さってきた兄に太股撫でられたこともあったな……。
うむ、現実的にやっていいことと悪いことがあると思う。
佐藤さんも嫌なことはしないでいいと言っていた。自分の許容範囲内で頑張ればいい。今日明日は土日だし、いくらでも機会はある筈だ。まずは洗面所で顔を洗ってお手洗いに寄ってから考えよう。
布団から出て空気の冷たさにぶるりと体が震えた。布団の誘惑に負けそうになりながら自分の心に鞭を打って部屋を出た。
階段を下りているとリビングのドアの小窓から光が漏れているのに気付いた。もしかしたら母かもしれない。豊が早朝から目覚めて母がそれに合わせて起きているのはよくあるのだ。
少し戸を開けてきょろっと中を覗く。すると中に居たのは母ではなく、なんと兄だった。キッチンで鍋の前に立って料理をしている。
何でこんな朝早くからご飯を作っているのか……?
理由は解らないが、これはチャンスと捉えるべきだろう。
呼吸を整えて戸の隙間から兄を見上げる。
何か、緊張して手に変な汗が出てきた。
しかし、ここでじっと怖じ気付いているわけにもいかない。
私は、佐藤さんの助言を胸に早速兄の傍に寄っていった。
「お、おはようございます、和泉さん早くないですか?」
「おはよう。偶々、早く起きちゃってね」
そう苦笑する兄が眩しくて目を細めた。朝から後光が差してるよ……。
家族思いの兄らしいけど休日くらいゆっくりしてればいいのにと思わずにはいられない。
私は兄の右側に回って隣に立った。肩が兄の体に触れる距離で鍋を覗く。
こ、このくらいなら不自然ではないだろう。
「美味しそうですねぇ……」
兄が作っているはポトフだった。コンソメと野菜の出汁の食欲をそそる匂いが鼻を刺激する。大きめに切ってあるジャガイモや人参にはもう火が通っているように見えた。
「あ、味見してみる?」
そう兄に勧められて、断るつもりなど毛頭になかった。
「じゃあお言葉に甘えて」
と口を開けて兄がポトフを口に入れてくれるのを待ってみる。恥ずかしいので目を伏せてそのままでいるといつまでもポトフがやってくる気配がない。
「あの、まだですか?」
兄の顔を窺ってみればあからさまに目を逸らされた。
や、やり方を間違えた……?
自分から兄に抱きついたりするのは大変難しいのでこういう形で甘えるくらいなら出来ると思ってやってみたけど、兄的には無しだったのかもしれない。
もう口を閉じようかなと諦めかけた時、不意に口の中に熱い物が入ってきて慌てて手で口を押さえた。
「あ、あふっ」
吐き出すわけにもいかず、熱さに耐えながら何とかジャガイモを咀嚼する。
「っまだ熱かった? ごめん、悠子ちゃん」
「へ、平気れす。ポトフ美味しかったです!」
落ち込む兄を励ますように感想を伝えたが兄の表情は曇ったままだった。でもここで舌がひりひりするなんて言ったものなら心配性の兄に舌を見せろと言われる危険性がある。流石にそれは遠慮したい。
「ほ、本当ですよ」
味は間違いなく美味しかった。火傷だって大したものじゃない。兄のエプロンを引っ張って訴えれば兄は口を手で押さえて天を仰いだ。
そこまでして私の顔を見たくないのか!?
「悠子ちゃん、ここ寒いし、パジャマじゃない方がいいんじゃない?」
心配してくれているのというよりは、傍にいて欲しくないのかもしれない。
ここは兄の言うとおり一度退散した方が良さそうだ。
「……確かにちょっと冷えますね。着替えてきます」
と、私はとぼとぼとリビングを後にし、洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗った後、お手洗いを済ませる。その間もずっとさっきの兄の反応について考えていた。
天井へ顔を逸らされた時、兄の手がぷるぷる震えてたように見えた。あれはもしかして避けてたんじゃなくて、笑いを抑えていたんじゃないだろうか。
思えば先程の私は、熱々のおでんを食べるお笑い芸人みたいだったもんな……。そりゃ笑うわ!
爆笑しなかったのは、兄の優しさに違いない。
うん、気を取り直して部屋で次の作戦を練ろう。
キッチンから漂ってくるポトフの匂いを嗅ぎつつ、いそいそと部屋に戻っていった。
――そして週末の二日間、私は可能な限り兄と距離を縮めようと努めた。母はそんな私を見て「何か、いつもの逆ねぇ」と愉しそうに傍観していた。
兄は私の意図には気付いているのか、いないのか。私の誘いや接近を全て躱している。
先月、兄に誘われて断ってしまった遊園地。今度は私から誘ってリベンジしようと兄の部屋を訪ねて「あのチケット取ったので、ら、来週都合が良ければ一緒に遊園地に行きませんか」としどろもどろにお願いもしてみたのだ。
兄も行きたがってたし、これなら頷いてくれるかもと胸の前で両手を組んだ。
最初驚いた顔を見せた兄は目を閉じ、黙ったまま額に中指を当てた。しばらくするとその長い指でトントンと額を叩き始めた。一定のスピードで木魚を叩くように額の中心を叩き続ける兄の姿はちょっと異様だった。
兄が口を開けたのは何分後だっただろう。
「ごめん、ちょっと行けそうにない」
長い沈黙の後、放たれた返事にショックを受けた私はすぐに口が回らなかった。
来週が無理ならいつでもいいので、と言葉を続ければ良かったのに動揺したまま立ち尽くしていたら兄は困った顔で頭を下げてから部屋の扉を閉めてしまった。
(……これのどこが普通なんですか?)
そう思わずにいられない。
兄のようで、兄じゃない。その後もこれまで私が接してきた兄との違いに何度も打ちのめされた。
買い物の帰りにそっと手を繋ごうとしたら飛び退くように避けてブロック塀にへばりつくし、ソファでテレビを見ている兄の隣に座ればスタッと立ち上がってリビングを出て行くし……。
一緒に飲もうと思って珈琲を淹れてきた私は、両手にコーヒーカップを持ったまま茫然とした。
逃げられてる。これではまるで私が嫌がらせをしているようではないか。
自分のしていることの方向性が間違っているのかもしれない。月曜日になる頃にはその予感が胸の大部分を占めていて、私は佐藤さんに確認してみることにした。
昼休み中なら出てくれる筈、授業を終えた昼休みのタイミングで佐藤さんに電話を掛けてみた。
「さ、佐藤さんですか? すみません。この二日間、アドバイス通りに色々と頑張ってはみたんですけど、どんどん悪化しているような気がしまして。私、和泉さんに嫌われてませんかね?」
「心配はいらない、確実に効果は出てる。一週間も続けば和泉も根を上げるから!」
「あと、一週間もですか」
……たった二日間でも私は疲労困憊なんですが。
どうしても嫌、というわけではない。けれども慣れないことをしている自覚はあるから緊張するし、兄の態度に好転する兆しが見られずめげそうになる。
「嫌われたくないって思ってるのはあいつも一緒だよ。好きだから頑なだし譲れない」
「私、そんな簡単に和泉さんのこと嫌いになったりしませんけど」
「自信、あるんだ?」
佐藤さんの問いかけに私は「はい」と反射的に答えていた。
他の事は自信がないけど自分で自分を裏切りたくなかった。
「……うん、良かった。妹ちゃんはその方がずっといい。あいつの場合は試合に出る前から逃げるからなぁ」
「えっと、試合ですか?」
急に何の話になったのかわからず聞き返してしまった。
「負けるのが嫌で試合から逃げたら、勝つもんも勝てないってこと。妹ちゃんとあいつは立つ土俵が違う」
何か哲学的なことを言われてるのは解るが飲み込めない。話し出さない私の疑問を察して佐藤さんは言葉を付け加えてくれた。
「傷つくのを恐れて殻にこもったら手に入るものも手に入らない。自ら可能性を潰さないことが大切なんだ」
今度は引きこもりがちな私にも解りやすい説明だった。
つまり私が諦めない限りはいくらでもチャンスがある。佐藤さんはそう私の背中を押してくれているのだろう。嫌われたくないからといって二の足を踏んでいれば徒に時間が流れていくだけだ。
佐藤さんは「あともう一息だよ。応援してるね」と電話を切った。
スマホを見つめながら佐藤さんの言葉を反芻する。
態度では示してるつもりでも、私は肝心な所から逃げている。 恥ずかしいし、柄じゃないし、今のままで居心地がいいから流されたままでいた。
けど、それだけじゃ駄目なんだろう。リスクもなければリターンもない。
兄の家族への思いが強い分、恐怖心も大きい。そう簡単に埋められるものじゃないのだ。
兄と向き合う為の覚悟が私にはまだ足りなかったのかもしれない。兄は家族の為なら自分の感情を殺すことも出来てしまうような人なのだ。家事を頑張ってくれるのも、不安の裏返しだって何となく気付いていた。だから張り切り過ぎているように見える時は、胸がつまった。
何もしていないと自分が必要とされないと思っているのではないかと切羽つまっているようにさえ感じたのだ。
実際、家族の誰もそんなことは思ってないだろう。
私も母も、きっと父は家族の誰よりも兄の心境を理解していて進んで兄の手を止めようとはしなかった。それで兄が安心して暮らせるなら、と。
でも実際はそうじゃなくてとめどない不安が兄の胸の底に巣喰っていたのだ。こんなに傍にいて、少なからず察してもいたのに放置し続けていた。
ようやく、本当に自分が何と向き合うべきなのかが見えてきた。
スマホを鞄にしまって机にお弁当を置く。周りを見れば、皆昼食を終えて談笑しているような状況で慌ててご飯を食べ始めるのだった。




