11 妹の愕然
月曜日の朝は自然と足取りが重くなる。私は学校へのろのろと足を進め、今朝のことを思い出していた。
和泉さん、眠たそうにしてたなぁ……。
兄の目の下に隈が出来ていたので理由を聞いてみれば朝まで課題をやってたらしい。いつもそういうのは早く終わらせる兄にしては珍しかった。
私もよく夜遅くまで起きてたりするけど兄程はっきり隈は出ない。兄の肌は白いからこそ青白い隈が目立つのかもしれない。
とりとめもないことを考えながら歩いている内に学校に到着し、偶然下駄箱で仲島の姿を見つけた。先週、仲島はハピネスさんに初めて会う私のことを心配してくれていた。結果的には私の警戒心を煽っただけだったが、報告しておくべきだろう。
「おはよう、仲島」
「おはよ、冴草。お、どうだったんだよ! 土曜に会ったんだろ……ハゲオヤジだったんじゃないか?」
「それは仲島の妄想の賜物であって現実は私の味方だったよ。かっこよくて話し上手だし、舞台の席は特等席のチケットを用意してくれてて、お昼ご飯の時は椅子も引いてくれる紳士的でとってもいい人だったから」
「いや、それこそお前の妄想だろう」
疑うような目で仲島は訝しんだ。いや、あれは紛れもなく現実だった。私の財布には一緒に食事をした時のレシートが入っていたし、交換したプロマイド写真もちゃんと手提げに入っていたから間違いない。
「いるんだよ、夢のような人って言うのは否定しないけど」
「うわぁ、隊長に報告しづれぇ……」
「隊長? 麻紀ちゃんのこと?」
確か師匠じゃなかったっけ? いつの間に隊長にレベルアップしたんだ。
「ん、いや、隊長は隊長だ。小さいことは気にすんな!」
そう言われると余計気になるが、仲島がツッコんで欲しくなさそうにしてるのでそれ以上聞くのは止めた。あと五分で朝礼が始まるからゆっくりもしていられない。
「もっと話したいことがあるんだけど、遅刻しちゃうからまたあとでね」
仲島に手を振り、私は教室へと急いだ。
午前の授業を終えての昼休み、私は相も変わらずのひとりぼっちのご飯だ。自分でも成長ないな、と思うのだが無理して友達作るのも疲れる。
授業で班を作らされる時は苦痛だが、苛められてるわけではないし、あと一年弱の辛抱だ。頑張ろう。
お昼のお弁当を食べながら、机の上にスマホを置いた。昨夜ハピネスさんに送った聖アベ小説の感想メールの返信が待ち遠しい。
いつもならもう返事が来てもおかしくないんだけどな……。
夜遅かったしハピネスさんに変な文章を送ってないか、心配になってきた。お弁当を食べる手を止めてすぐに送信メールの内容を確認してみる。誤字脱字はないし、内容も問題ない。多少テンションが高いのは仕方がないとして――んん?
最後に送信相手の名前を目にした瞬間、愕然とした。
冴草、和泉になってる……?
ま、さ、か!?
絶対見間違いだと何度確認しても結果は変わらない。昼休みが終わるまであと三十分、私は食べかけのお弁当に蓋をしてスマホ片手に教室を出た。
大事件だ! 私史上最大の事件が起きている。
隣の二年B組の扉をガラリと開け、藁にも縋る思いで助けを呼んだ。
「仲島!!」
友人と昼食をとる仲島が目を丸くしてこちらを見ていた。集まる視線にいつもなら怖じ気付くところだが、今は構っていられない。教室にずかずかと入り仲島の前で立ち止まる。
「緊急事態発生、ちょっと来て」
「え? い、いきなりなんだよ」
「話してる所ごめん、仲島借りてくね」
仲島の友人に頭を下げると「どうぞ持ってって」と面白そうな顔をして手を振った。私は仲島の腕を引いて空き教室に仲島を連れ込んだ。
「どどどどうしよう、仲島、兄に腐女子だって知られたかもしれない!!」
「とりあえず、落ち着け。話は聞くから」
慌てる私の肩に仲島は両手を置いて落ち着かせた。私は息を整えて仲島に事の流れを説明し、間違えて兄に送ってしまったメールを仲島に見せた。
「ばれたかも……いや、絶対にばれたよ。今度こそ私の終わりだ。家に帰れない」
「……別にあの兄貴なら大丈夫じゃないか」
人事だと思って軽く言いおって!
「じゃあ、仲島はお姉さんに趣味の事バレてもいいわけ?」
「それは勘弁、絶対に揶揄われるに決まってる!」
「ほら、自分だって嫌なんじゃん。今は気休めじゃない、解決策が欲しいんだよぉぉ」
机に突っ伏してドンドンと机を叩いた。本気で泣きたい。この三年、必死に隠してきた苦労がメールひとつで水の泡になるなんて。しかもよりにもよって自分のミスでだ。自分を責める他ない。
「――待て冴草、今ちょっと調べてみる」
仲島が高速タップで解決方法を検索してみてくれるようだ。でも送ってしまったメールを削除する方法なんてあるんだろうか。難問過ぎて目に涙が滲んだ。
絶望感に打ちひしがれているとスマホに電話が掛かってきた。一瞬、兄かと思いびくっとしたが画面には佐藤貴士と名前が表示されていた。
一体、何故佐藤さんが……?
とりあえず電話に出てみると掛けてきた相手は兄だった。
「え、どうして佐藤さんのスマホから?」
『俺のスマホ、駅で落とした時に故障しちゃってさ、貴士に借りたんだ。携帯ショップで修理に出したんだけど数日掛かるみたいでさ。同じ機種の代替機がなかったから明日の夜に配送で家に送ってくれるって。届いたら今まで通り連絡がとれるようになるから。それだけでも悠子ちゃんに知らせておきたくて』
「え、そうだったんですね。じゃ、じゃあ、メールとかって」
『送ってくれたの? 見れてないや、ごめんね』
奇跡だ、奇跡が起きた!! まだあのメールを兄には読まれていなかったとは!
私はマイクを手で塞いで咄嗟に仲島に経緯を話した。
「おい、安心するのはまだ早いぞ。調べたら代替機でも同じ番号とアドレスを使えるみたいだ、見られる可能性がある」
となると兄の手元に代えのスマホが届いた時にピンチが再来するということだ。
「どうすればいい!?」
「スマホが兄貴の手に渡る前にお前がメールを消せばいい」
でも家に配達された代替機を本人が触る前に私が確認するって許されるんだろうか? スマホには個人情報が沢山入っている。流石に兄でもそれは難しい気がした。私が兄に言うのを躊躇っていると仲島は「諦めないで頼んでみろ!」と背中を押してくれた。
こうなったら駄目元でお願いしてみるしかない。
「あの、和泉さん! 明日、スマホが届いたら私に一番に受信ボックスを確認させて貰ってもよろしいでしょうか」
『別にいいけど……そんなに見たいの?』
その言葉に驚きながらも心の中でぐっと両手を握って神に感謝した。
「どうしても見たいです」
『俺、悠子ちゃん以外の女の子と連絡取り合ったりしてないよ?』
そうじゃないんです!! けれども言われてみれば彼氏の浮気を疑う神経質な彼女がする行為とまるで同じだった……。
「けど、一応確かめたいので……」
合コンの話を引きずってるみたいで嫌だけど聖アベ小説の感想メールを消したいから貸して下さいとは言えないのだからもうそういうことにするしかない。
『うん、わかった。それで悠子ちゃんが信じてくれるなら。じゃあ、授業始まるからまた後でね』
「はい、連絡ありがとうございました」
兄に変な誤解をされてしまったけど、腐バレするよりは何倍もいい。
電話を切って、私は安堵の息を吐いた。スマホを持つ手の震えは止まったが完全に冷え切っていた。
「良かったぁぁ。仲島ありがとう、命の恩人だよ」
「仲間のピンチは救って当然だろ」
仲島と友達になれて本当に良かった。さっきは冷静さを見失って教室から強引に引っ張ってきてしまったけど私の異変を察し、仲島は抵抗しないでついてきてくれた。いつも一言二言多いのは玉に傷だがそれはもう仲島のチャームポイントだと思うようにしよう。それも仲島の善意なのだ。
「それ、先週の飛人の台詞でしょ」
「今使わずにいつ使う。やっぱり最高だよな、フラバタは!」
仲島に強調されて気付く。最近、私はブラハンとかハピネスさんの話ばかり仲島にしていた。今でもフラバタが大好きで大事な数少ない友達だというのに。
「だね!」
ニカリと笑った仲島に大きく頷いた。フラバタは私にとって殿堂入りジャンル、決して愛が冷めた訳じゃない。同じくしてブラハンの愛が燃え上がっているだけなのだ。そうして好きなカップリングが増え続けていく。愛に限界など存在しない。だからこれは浮気などではなくアガペーなのだ。
私は昼休みが終わる直前まで仲島とフラバタ語りで盛り上がった。来月には原作者である倉敷先生のサイン会があり、互いに葉書で申し込んでいる。一緒に行きたいが抽選なので結果待ちだ。
仲島と話していて私の中核にはフラバタは存在していて、新しく好きになるジャンルにも大きく影響していることが改めてわかった。穂積君と飛人の関係が私の理想過ぎるんだな。友情と愛情の狭間でずっと漂い続けていたい。
「あと、冬コミの時にお互いに買った本読みあっただろ。そん時に冴草のが混ざってたから返すわ」
仲島に渡されたビニール袋の中を覗いてみると穂×飛の同人誌が一冊入っていた。
「え、気付かなかったよ」
「お前うっかりしてっからなぁ、マジで気をつけろよ!!」
「……はい、反省しております」
そう、この小言も熱い友情故。兄に誤メールという致命的なミスを犯した私に反論の余地はない。私は素直に仲島に頭を下げた。
学校を終え、私はまっすぐバイト先へ向かった。休憩室のロッカーで素早く制服を身につけ厨房に入る。今日は総菜全品十パーセント割引の日だから普段より混むのだ。
今日は回鍋肉担当で、延々とおばちゃんたちが切ってくれた食材を炒め続ける。外の寒さを感じさせない程、厨房は暑く背中の汗が止まらなかった。
三時間程して、店長が休憩の声掛けをしてくれた。二人のおばちゃんと一緒に休憩室へと入っていく。手袋とマスクを外して椅子に座るとおばちゃんの一人、土屋さんが机の上でタッパーを開けた。中にはいくつもの干し柿が入っている。
「はい、どうぞ悠子ちゃん」
スッと他のおばちゃんが私の前にお茶の入った湯飲みを置いてくれた。素晴らしい連携プレイ。いつも手際が良くて感心してしまう。
「ありがとうございます、いただきます」
「どういたしまして。にしても今日は疲れたわねぇ、冴草さんは学校の後でしょ。大丈夫?」
「あ、はい、何とか」
若いっていいわぁ、とおばちゃん達はうんうんと頷きながら干し柿を頬張った。私もちびちびと干し柿をいただく。甘くて美味しい。
「二人ともこの間の新しく開店した喫茶店、行った?」
土屋さんに話を振られて私は首を振った。
「あぁ、あの喫茶店からまた喫茶店に変わったとこ」
「そうそう、そこ。店長がチーズケーキが美味しいって言ってたから気になるのよね。あそこは雰囲気も良さそうだから、悠子ちゃんもデートに行ってみたら、彼氏さんと!」
「彼氏じゃなくて兄です」
このバイト先で何度否定したことか。残念ながらおばちゃん達は私の言葉に耳を傾けてくれる気配はない。
「そんなこと言っちゃって、この前スーパーで彼と離乳食買ってる所見たんだから」
「え、え? つまりそういうこと?」
おばちゃん達の視線が私のお腹に集まる。いや、あるのは脂肪だけですからね。ここに生命が誕生しているような生暖かい目で見ないで下さい。
「あれは、弟の食事を選んでたんです」
「あら、そうなの残念ねぇ。でも悠子ちゃんは真面目だから彼も気遣ってるんでしょうね」
「学生の内は大変だから、せめて彼が就職してからの方がいいわよ」
とアドバイスをくれるがそもそもそういう関係ではない。
おばちゃん達の話の内容が変わり、相づちを打っているとスマホに公衆電話からの着信が入った。恐らく兄からだろう。おばちゃん達に頭を下げて少し席を外した。
『もしもし、悠子ちゃん?』
「どうしたんですか、和泉さん」
『いつもみたいに迎えに行きたいんだけど、ちょっと今日は行けそうにないんだ』
兄にしては抑揚のない小さな声だった。昼間の電話より元気がないように思える。
「いいんですよ、それより和泉さん大丈夫ですか?」
『……うん、平気。悠子ちゃん、気をつけて帰ってきてね』
いつもは雑談を挟む兄がガチャンと手短に電話を切った。
寝不足のせいで体調が悪いのかもしれない。兄が体を壊すことなんて滅多にないから余計に心配だった。
休憩時間の終わりが近づいておばちゃん達が片づけを始めた。急いでスマホをしまい、洗い物を申し出た。
バイト終了時刻まであと三時間。帰ったら兄の部屋を訪ねて様子を窺うことに決めて私は仕事に戻っていった。




