第38話 緋色のカプセル (孫遼)
「北川君! 大丈夫?」
西荻の声がする。止まっていた肺が動き出し、まるで溺れた人のように大きく咳き込んだ。
トントン、と右方向から背中を優しくたたかれる。
「やっぱりさ、空調効き過ぎなんだよ。兄貴、エアコン止めてくれ」
苛立ったような涼介の声。すると運転席と助手席から矢継ぎ早に声が聞こえた。
「ああ。西荻選手の体が冷えたら、お前にとっても都合が悪かろうよ」
「オイラは、麗ちゃんの動きが鈍る分には一向にかまわないけどね」
右方向から2種類の大きなチッという舌打ちがした。ブン、と最後の音を立ててエアコンからの送風が止まると、ひえびえとした車内の空気に反比例して正陽はだんだんと平常心を取り戻す。
――戻ってこれたんだな。ようやく。
赤いカプセル。それが正陽の出した答えだ。『緋色の研究』のように、結果的には二択に運命を託すことになってしまった。
舌の上に乗せた違和感を飲み下した瞬間にどこからか声が聞こえた気がする。
『読者を裏切りたくない』
その声はこれまで出会ってきた神たちの誰かのようでもあり、全く別の存在のようにも聞こえた。一つだけ解るのは、何が作用しようと自分自身は結局この場所に戻ってきただろうということ。
――仮にこの世界が小説なのだとしたら。
正陽は膝に置いたままの両方の手をじっと見つめる。力を込めると、確かにそこには感覚がある。
――観測者がいる、つまり読者がいる。だから僕はここにいるんだ。
正陽はゆっくりと右方向に顔を上げた。
「大丈夫だ。心配、かけた」
泣きそうな笑顔を浮かべた西荻がこちらを見つめている。
「車に乗り込むなり、座ったままの姿勢で固まるからびっくりしちゃった。返事もないし、押しても引いてもびくともしないの。よくわかんない病気の発作なんじゃないかと思って……」
西荻の肩越しに座っている涼介は腕組みをしたまま、こちらをにらんでいる。視線の先にあるのは……自分の背に置かれたままの西荻の手だ。正陽はさりげなく周囲の様子が気になっている風を装いながらフロントガラスに向かって体を起こし、西荻の手から逃れた。
車は順調に、正陽の住む町を通る大きな国道を走っていた。この様子だと、間もなく学校につくだろう。
「あのさ、松林警部は……?」
正陽の問いかけに、吉岡が唐突に大きな声をあげる。
「あー、そろそろ学校についてる頃かもな。お前が『六年前の事件の謎を解くから、集まってくれ』って急に言い始めて、オイラもびっくりよ」
「……えっ。俺が? いつ?」
「さっき電話で言ってたじゃないか。やっぱり具合悪いのか? お前から言われた通り『帰宅命令』を出したよ、容疑者たちだけは『学校への集合命令』にしておいたけど!」正陽の座っている角度からは良く見えないが、吉岡のことだから、いつものドヤ顔で胸を張っているのだろう。「影の校長の権力を振りかざしてね」
「影の校長?!」
「南見君も知ってたんでしょ、こいつが影の校長だってこと。早く死ねばいいのに」
助手席に向かってぶつぶつとつぶやきながら中指を立てる西荻。正陽は放心したようにつぶやいた。
「影の校長って何のことだ……」
「影の校長ってのはね、この学校の真の権力者のことだよ! よろしくね★」
ずいぶん堂々とした『影』もいるものだ。正陽が唖然としていると、吉岡は助手席の肩越しから放り投げるようにして、メモを放った。
「このメモ返しておくわ、ほい」
<事件関係者であり容疑者。以下の人間を学校に呼び出してほしい>
・北川涼介
・吉岡義雄
・東夜鈴
・常利先生
・ミラー先生
・西荻麗
・北川脩介
・涼介の母
・松林新兵衛
確かに自分の筆跡ではある。ただそれを書いた記憶は自分には一切なかった。しかもメモの最後に、明らかに自分のものではない筆跡の殴り書きがある。
・葵小次郎
「誰? この葵小次郎って」
「お前、校長の名前も知らねぇのかよ!」
すかさずツッコミを入れる吉岡。それにかぶせるように、腕組みをして黙っていた涼介が助け舟を出した。
「正陽は転校してきたばかりだろ、知らなくて当然だ」
「そうだった、お前まだここに来てあんまり経ってないんだよな……あまりにも毎日顔を合わせすぎて忘れそうになるよ」
吉岡は手に持っていたペットボトルの蓋を開けて、ごくりと飲み干した。それを見た正陽は、自分の喉がからからに乾いていることを自覚する。脇から西荻がメモをのぞき込む。
「学校で起きた事件だもんね……責任者は呼んだ方がいいと思う。吉岡が書いたのなら珍しく気が利くわね」
「だろ? 影の校長の実力ってやつ? はっはっはっ」
――こんな大勢の前で僕は『解決編』をやるのか。
想定していなかった事態に、頭がくらくらとしてくる。だがそれを決めたのは自分だ。この事件を終わらせると決めたからには最後までやりとげようと決めた。
犯人の目星はついている。あとは……
(お願いしますよ、ミラー先生……)
祈るように窓から外を見つめていると、脩介の車は教員用の駐車場に停車した。
まず吉岡が助手席のドアから飛び出していき、反対のドアをゆっくりと涼介が開く。後部座席の真ん中に座っていた西荻は、涼介の方向から出ようとしているようだ。正陽も自分に近い方のドアを開けようと試みるが、レバーが見当たらない。手探りで探していると、吉岡がドアを開けてくれた。
「数分だけ、立ち話いいか?」
いつになく緊張した面持ちだ。
「吉岡、緊張してるのか」
「ああ、こっちにもこっちの仕事があるんだ」
「さっき言ってた帰宅命令ってやつか?」
「ああ。あいつらの『視線』を感じた時に、帰宅命令――人払いをするようにしてるんだ」
「あいつらって……『神』とか『オラクル』とか自称している奴のことか?」
吉岡は目を丸くする。
「お前、よく知ってるな」
「うん、たまたま、というか実際に会って会話もしたことがある」
吉岡は大きなため息をついた。
「やれやれ、一般生徒にはそのことは内緒なんだが。やっぱり東夜鈴の影響なんだろうな」
正陽は小さく頷いた。
「それが、この学校の秘密なのか?」
「まぁありていに言えば、そうだな」吉岡が言った。「この学校は人ならざるものの干渉を受けている。その筆頭が『ナツ』だったよ。東夜鈴に強い干渉をしているのも認識はしてた。だから彼女は……事実上、この学校に軟禁されていたに等しい」
正陽はフルートを吹く鈴の姿を思い出した。どこか儚い、悲しそうな響きはそのせいだったのか。
「本人は納得していたのか」
「さぁ、どうだろうな。自分が特殊な存在であることには気づいていたようだが」
――推理小説がお好きなら。
そんなことを言っていた気がする。あの時から、自分の境遇を誰かに推理してほしいと思っていたのか。
「いずれにしても、影の校長として箝口令を敷いていたのは俺だしな。こうして正陽を巻き込んでしまったのは悪かった。先に謝っておくよ」
「別に、気にしてない」
正陽は、焼けた礼拝堂に向かって歩く涼介と西荻に向かって視線を送る。脩介は二人より少し先を歩いているようだ。
吉岡もその背中を見送りながら口を開く。その口調に、いつもの冗談じみた響きはなかった。
「6年前の事件――ひょっとしたら東夜鈴を解放する鍵になるのかもしれない」
「任せろ。たぶん期待通りになるさ」
「それなら安心した。これ以上、人あらざるものたちから干渉を受けたくないからな。俺の全力で結界でも張っておくつもりだ」
正陽はゆっくりと瞼を閉じた。今さら、誰が何の能力者だったとしても驚かない。
「頼むよ。もうバナナには埋もれたくない」
吉岡は手を叩きながら、ひゃひゃひゃと笑った。
「お笑い同好会的にはオイシイ展開だけどな。胸像でも作ろうか。お前イケメンだからな、女子生徒に人気の告白スポットになるかもしれねぇ」
縁起でもない。絶対やめてくれ。
すると、遠くから涼介と西荻の声がした。
「正陽ー! 遅せーぞ!!」
「吉岡ー! どーせろくでもないこと喋ってるんでしょー!」
正陽は手を上げて二人に向けて合図した。
「他に何かあるか? 影の校長」
「うんにゃ」
吉岡は首を横に振る。すると右耳にハイヒールの足音が飛び込んでくる。
「南見くん。ようやく捕まえた」
「あ、メアリー! ハウアーユー?」
吉岡が片手を上げる。
「Fine. 少し二人にしてもらえるかしら、ヨシオ?」
「やだなぁ。ヨシオだなんて……」吉岡の顔が崩れる。「ま、正陽は人気者だからね。オイラが話したいことは話せたし、あとはメアリーに譲るよ、ぐっばーい★」
やけに聞き分けの良い態度で、吉岡は尻を左右に振りながら礼拝堂へ向かっていく。
ミラーは複雑そうな表情で吉岡を見送ると、正陽に向き直る。学校に置かれた電灯が反射して眼鏡がキラリと光った。
「まったく、なかなか会えなくて困ってたわ。まるで妨害に合ってるみたい」
正陽は思わず、すみません、と頭を下げた。
「調査の依頼を貰っていたあの件、確認とれたわよ」
「本当ですか?」
唯一のギャンブル。物証が出るか出ないか、イチかバチかの賭けだった。ミラーがナツ派の人間だったら握りつぶされる可能性もあったが、四年前に赴任してきたということから、彼女が味方である可能性に賭けた。どうやら正解であったらしい。
「上履きの痕跡だったわね」
正陽はうなずく。
「ご想像どおりよ。成分はカリピノのありふれたワインだったわ。だけど、あり得ないモノが混ざってる」
やはり。正陽は身を乗り出した。
「僕はアルコールに弱い体質のようなんですが、それでも空気を吸って倒れるほどの状況はおかしいと思ったんです。あれはいったい何だったんでしょうか」
「化学研究室に持ち込んでみたら、麻酔薬に近いもの――という見解だったわ。気化させて、地下に充満させれば容易に気を失う」
やっぱり、という言葉を飲み下す。真実につながる赤いカプセル。
「あれは、僕と言うよりはミラー先生をおびき寄せる罠だったように思います。ミラー先生がワインに詳しいと聞いて、ピンと来ました」
「でしょうね。私はずっと六年前のことをこの学校で聞きまわっていたから」
ミラー先生の眼鏡の向こうの、青い瞳がこちらをじっと見ている。吸い込まれてしまいそうな眼だった。
「南見くん地下室に入ったときには、ワインはごく少量でガスが充満している状態だった。あの仕掛けの元にあなたをおびき寄せた後、痕跡を消してワインを充満させる時間的余裕があったのは――」
「先生」正陽は目を上げた。「きっと先生も同じ人物にたどり着いていると思いますが、続きは礼拝堂跡でお話しします」
「そうね」ミラーはため息をついた。「くれぐれも無理はしないで。あなたひどい顔色してるから」
「顔色が悪いのは、いつもです」
正陽はむりやり笑顔を作った。
最後のピースは揃った。あとは『解決編』をやるだけだ。
*
焼けた礼拝堂の前にいる。
いつの間にか警察によって張り巡らされていたテープは外され、煤けた状態の現場が剥き出しになっていた。
石造りの壁が唯一、残骸となって残っていた。かつて頭上にあった、色とりどりのステンドグラスのことを思い出す。入学してすぐ、この場所で朝の礼拝をおこなったときに敬虔な気持ちになったのをよく覚えている。
今はただの煤けた廃墟となってしまった場所に立つと、どこからかフルートの音色がした。振り向くと鈴が口元からフルートを外し、視線を上げる。
「南見先輩」
(あのときの鈴だ)
その声を聞いて南見は確信した。初めて出会った時の東夜鈴に間違いない。表情も声色も正常に戻っている。彼女の周囲には、すでにメモに書かれていた人物たちが集まってきていた。みな思い思いの場所に立ったり、崩れかけた壁を椅子がわりに腰かけたりしている。
「南見……」
涼介が口を開こうとするのを、あえて無視して正陽は話し始める。
「六年前、ここで一人の女子生徒が命を落としました」
我ながら芝居じみたセリフだ、と感じる。だが、自分が小説の主人公だと考えれば何の問題もない。鼻から息を大きく吸い、言葉が出るに任せる。
「東夜華鈴――東夜鈴さんの姉に当たる方になります」
姉の名前を聞いても、鈴は動じない。慣れているのか、それとも覚悟を決めているのか。
「なぜこのような痛ましい事件が起きてしまったのか。その背景を知るには、まずこの学校の『秘密』から話す必要があります」
正陽はカラカラに乾いた唇を舐めて、続ける。
「青博館高等学校の秘密とは――頻繁に『人ならざるもの』、神のような存在からの干渉を受けているということです――表向きはミッションスクールの体を取っていますが、その実態は神の干渉による不都合を隠蔽するために作られた『箱』だったと考えられます」
「もはや、否定をしても無駄だろうね」
ベストを中に着こんだスーツ姿の初老の男性がつぶやいた。
(校長先生。葵小次郎)
九名の中で唯一顔を知らない人物であったから、あえて本人かを問うまでもない。正陽のことも良く知っているのだろう、こちらをまっすぐに見据えている。その隣で、吉岡ももっともらしく頷く。
「正陽には何を隠しても無駄さ。俺らのような凡人にはせいぜい、そいつらの存在を感じることぐらいしかできないけど、正陽に至っては周囲で超常現象は起こるわ、接触して会話まで試みちゃった『大いなるもの』もいたらしいから」
吉岡君も決して凡人ではありませんが、と葵校長は顔をゆがめて笑う。
「南見くんも……それは大変だったろう。それならば気づいているんだね? 私が南見くん、君をここに呼び寄せたということに」
「はい。なんとなく、消去法ではありますが」
正陽をここに無理やり転校させるほどの権力を持つ人物――他にいるとは思えなかった。
「悪かった。『条件』に適していると思われる人物が、南見くんしかいなかったのだよ」
正陽はうなずく。
「その『条件』については……追ってお話ししましょう。大事なことは、学校をあげて人ならざる者の力を隠蔽する必要があったということです。そのキーパーソンが東夜姉妹だったということですね」
「そう、ご想像のとおりだよ」
南見は内心でガッツポーズをした。どうやら自分の考えは間違っていない。喋りがさらに勢いづく。
「ナツ派をはじめとした動きが、東夜姉妹を中心にして起こっているのは明らかだった。そしてそのことを、華鈴さん自身も気づいていた――」
第三者が聞けば『なぜそれを正陽が知っている?』ということもあるだろう。考察空間で聞いたことをそのまま事実として喋るのは、ある意味反則のように思えて気が引けた。しかしこうでもしなければ真相にはたどり着けない。ためらううちに、葵校長は後に続く言葉を引き取った。
「彼女は戦おうとしていたんだ、自らの運命と」
彼は皺の刻まれた両手をこすり合わせながら喋り続ける。
「葵紀ノ未神が東夜家の守護をしたのがきっかけだったのか、彼女自身も不思議な力に目覚めていたようだね。学校の秘密と影の校長の存在を自ら調べあげ、真実に行きついた」
「華鈴さんは、この学校の秘密を知っていたのですね」
「そうだ、彼女とは長いこと協議を重ねたよ。きっと東夜さんは変えたかったのだと思う。監獄に近いこの場所を、他ならぬ自分の分身――妹が入学する前に」
視線が東夜鈴に集まった。鈴はフルートを握りしめたまま、伏し目がちに立っている。今にも闇の中に溶けて消えてしまいそうなはかない立ち姿である。
「変える、とは具体的にはどのような……」
「なに、簡単なことですよ。『東夜鈴がこの学校に通う意義』を作るという約束をしたのです。しかし予定外のことが起こりました」
「華鈴さんが、亡くなったのですね」
葵校長は悲しそうにうなずいた。
――ようやく、本題だ。
正陽はあらためて、自分の周りにいる人物をぐるりと見渡した。
「現場は密室だったと聞いています。そのため事件性はないとして、彼女の死亡は事故で処理されました。ここまでは間違いありませんね、松林警部?」
松林警部は然り、とばかりにうなずいた。
「しかし、実は礼拝堂には秘密の地下室があり、抜け道がありました。その抜け道は、学校の関係者達によって巧妙に隠されていました。そうだよな、吉岡」
吉岡が大きく頷く。彼が影の校長だとわかった今、礼拝堂で会ったあの日に漫才の練習をしていた、というのは嘘だ。彼があの場にいたのは、秘密の抜け道を隠すためだったということで間違いないだろう。
「六年前の事件の日、秘密の抜け道を誰かに利用されたことに気付いた校長は、即座に『帰宅命令』を出しました。聞いたところによると『帰宅命令』はあの方の力を感じた時に発令されるとのこと。しかしどこか段取りが良すぎるとは思いませんか? 学校関係者はあらかじめ警戒していたはずです。他でもない華鈴自身が気づいていたのではないでしょうか。その日、自分が殺されるかもしれない、ということに」
葵校長が華鈴を守るために発した帰宅命令。それは皮肉にも自らの首を絞めるきっかけになったのだ。
「しかしその情報は、犯人に逆に利用されました。学校関係者に通じていた犯人は、その日にあえて犯行を行うことで学校関係者同士に疑念を持たせるきっかけをつくったのです。『華鈴が学校にいるのを知っていたのは我々だけなのに何故?』とね。そして華鈴さんが亡くなったことをきっかけに、学校は総力を上げて『ある事実』を隠蔽しなければならなくなった。その事実とは、東夜鈴がナツの加護を受けている、ということです」
フルートの音色が止まった。
「華鈴さんは吹奏楽部でベルの使い手でした。なぜ吹奏楽部なのにベルを使用するのか、考えてみれば単純なことです。このベルこそが人ならざる者からの干渉を遠ざけていたから。彼女が健在である限りは学校の治安は保たれます。しかし彼女が死んでしまったら――東夜家の娘、鈴に関わった人物に被害が及ぶことは避けられません。だから学校は東夜鈴を守るために、全力で事実を隠蔽する方向に動いた。これが『青博館高等学校の秘密は誰にも語ってはならない』の真実です」
誰も言葉を発さない。正陽は言葉を続ける。
「では、秘密を語ったものはどのような目に遭うのでしょうか。それは明白なことで、大いなる存在の干渉を受けることになる。僕も何度か超常現象じみた現場に立ち会っているので確実です。裏を返せば、東夜鈴のことさえ安全に保護していれば、人智を超えた加護を受けることができるかもしれない。そのことに、目を付けた人物がいた」
ここで正陽は言葉を切ると、ぐるりと見渡した。
「その人物の名は――あとで明かすとしましょう」
正陽の視界の端で、ある人物が目を伏せた。その感情は諦めか、憎しみか。
(悪いな。僕はどうしても終わらせなければいけないんだ。この物語を)
そちらをあえて見ないようにして、言葉を続ける。
「一方、そのような動きに対抗するべく、学校関係者は東夜鈴に干渉できそうな人物をこの学校に呼び寄せることにした。その条件に合致したのが、『僕』だった」
「ああ、そうだな……」葵校長は目を伏せる。「『東夜鈴がこの学校に通う意義』――君しか考えられなかった。東夜くんも自分が特別な存在であることにうっすらと勘づいていたんだろう。そして、学校全体から監視とも幽閉とも言えないぬるい拘束を受けていたことに。いつか誰かがここから救い出してくれるはずだと期待もしたくなる――」
視界の端っこで、東夜鈴がほんのり頬を赤めてうつむいた。正陽の胸は少しだけ押さえつけられたようになって、呼吸が苦しくなる。
「吉岡が『帰宅命令』を発令したことによって、東夜鈴と僕が知り合うきっかけができた。『緋色の研究』を礼拝堂にわざと置いたのも吉岡、お前だろ」
「バレちゃしょうがないな。元は葵校長の案だったんだけどね」
吉岡はぺろりと舌を出し、西荻の後ろに隠れようとするが、平手打ちの反撃を食らってキャン!と吠えた。
「僕と東夜さんが出会ったことがきっかけで人智を超えた力は暴走し、現世に影響を及ぼすことになった。ピラール牧師も犠牲になった――これが学校の『秘密』と、その結果です」
「だいたい状況は分かったけど……結局犯人は誰なんだ?」
足を組んだままで、脩介が口を開いた。弟の涼介にそっくりな、挑むような目つき。
「気づきませんか」
大きく息を吐く。もはや犯人を伏せて会話するのは無意味だろう。
「犯人は――涼介、お前だ」
え、という女性の声がどこからともなく聞こえる。西荻は両手で口をおおっているし、東夜鈴もうつむいたままだ。となれば、涼介の母親の声か。
「おい、正陽。いくら親友だからって言っていいことと悪いことがあるだろ」
「僕は本気だ。冗談抜きで、お前のことを東夜華鈴殺害の犯人として告発する」
「証拠は?」
「悪いけど、涼介の靴を調べさせてもらったよ」
「はぁ? 何もでてくるわけが――」
「確かに何も出てこなかった。でもそれっておかしいのよ」ミラーが被せるようにして言う。「南見くんが昏倒した部屋で、あなたはなぜ無事でいられたの?」
「そりゃあ、たかがワインの匂いぐらいじゃ酔っ払わないですよ。それに前にいた正陽の様子がおかしかったから……」
「だとするとなおさらおかしいわ。階段から転げ落ちるようにして倒れた南見くんを、ワインを踏まずに助けられるわけがない。たかがワインだと思っていたのであれば、別に靴を汚すなんて大した問題じゃないでしょう。知っていたのね、あの液体に『麻酔成分』が入っていたことを。そして証拠を真っ先に隠蔽しようとしたんだわ。南見くんが担ぎ込まれるまでの間――時間的にそれができたのはあなたしかいない」
「俺がそんなことするわけないでしょう。あ、そうだ。あのあと、新しい靴に履き替えたんだ。もう古くなっていたから……」
「そうか? 俺には同じ靴に見えたが……」
「同じものを二つ買ってあったんだよ、よくあるだろ、お気に入りのスニーカーをコレクションするみたいな――」
「それは、事実ですか。涼介のお母さん」
唐突に投げかけられた問いに顔面を蒼白にした中年の女性。視線が一点に集まる。
「涼介……」
高齢の女性の声が静寂に響いた。涼介は構わずに話し続ける。
「いや、参ったよな。正陽みたいに飲酒疑惑をかけられたらたまったもんじゃないし――」
「涼介!!」
ヒステリーじみた声が礼拝堂に響く。吉岡と西荻が、同時に背中をびくりと震わせた。
「もう、いいのよ、涼介。皆さん、涼介を疑うのはやめてください」
涼介の母は、両手で顔をおおった。
「私がやったのよ。すべては――ナツの力を手に入れるために。息子二人、東夜姉妹と同級生になるように狙いすまして産んだのにこのザマよ」
「おい、嘘だろ……」
脩介は言葉にならない様子で、呆然と母親を見つめている。涼介は泣きそうな声で訴える。
「俺が話しちゃったんだ。礼拝堂に秘密の抜け道があるって……兄貴に口止めされていたのに。家族だったらかまわないだろうと思って――だから知ってたんだよ。母さんが怪しいって。だけど、そんなこと言えるかよ」
涼介の母はゆっくりと顔から手を外すと、大きくため息をついた。
「あの日、華鈴と待ち合わせをしたわ。話したいことがあるからと言って」
涼介の母は、ちょうど灯りの下にいる。それが顔に刻まれた深いしわを強調し、正陽の目からはまるで別人のように見えた。
「話の内容は――息子についてね。華鈴がなぜ、脩介を選んでくれないのか問い質すつもりだったわ。その時に知ったのよ、東夜姉妹のうちナツの加護を受けているのは妹の方だと。ついでにはっきりと言われた。『鈴が涼介を選ぶことはありません』とね。聞いたところ下の息子はもう、縁結びの神と契約を結んでしまったらしい。私の知らないうちに、すでに好きな人ができていたのね」
涼介は悔し気な顔で、ちらりと西荻に視線をやった。自嘲気味な語りを止めない母を、脩介は信じられない、という顔で見つめている。
「思い通りにならないなら、邪魔な奴はこの手で殺してやろう。それがナツの意志に沿うことになると……そう思った時、偶然目に入ったのよ、バナナの皮が。天の許可が下りた――そんな気がしたわ。冗談に思えるかもしれないけれど、私はそれを仕掛けた。ナツの力が本物ならば、華鈴を殺せると」
鈴は厳しい顔で、涼介の母を見つめている。無理もないだろう、相手は唯一の姉を奪った人間なのだから。
「狙い通り、華鈴は私の元を立ち去ろうとして、後頭部を打って死んだわ。地面に落ちたバナナの皮を踏んで死ぬなんて、不注意よね? これが未必の故意と言える?」
「正陽――」涼介がこちらを向いた。「悪かった。お前に罪をなすりつけようとしたのは、俺だ。俺は母さんを裏切れなかった、だから――」
「あっははははっ! ナツ! 大いなる存在よ。あなたの力は本物。あははは! このくだらない世界に終焉を!」
涼介の母は狂ったように笑いながら天を仰ぎ、呪詛と祈りの言葉を繰り返す。
正陽はゆっくりと瞼を閉じた。周囲の空気が徐々に変わり始める。
――僕の探偵としての役割は、ついに終わりを迎えようとしている――




