第37話 不可逆的分岐とパトナムの仮説 (若松ユウ)
――不条理な真実か、好都合な新世界か、どちらかを選ばなければならないとしたら、どちらを選ぶ?
西荻の呼び声により、正陽は陰鬱な森を抜け出した。
そして六年前の事件の関係者が青博館高等学校に勢ぞろいし、すべての謎が解け、真相が白日の下に晒される秋が来た。
そう思われたのだが……
「……おかしい」
「『たしかに、この見当から声がしたはずなのに』とでも言いたげだね、南見正陽くん」
「!」
正陽は、新たな声の出処を探した。仄聞した感じでは、スピーカかステレオから流れてくるようなザラザラとしたノイズ混じりで、ミュージックソフトでプログラミングした合成音声のようだ。
しかし、周囲天地八方何処を見渡しても、どこにも何の姿も無い。
それどころか、ラテを流したかのような深い霧に覆われているばかりで、地面もいつの間にか、草木の生えた腐葉土から砂塵ひとつ落ちていないタイルに変わっている。
「『僕はどこに居るのだろうか?』とでも考えているのかね?」
「誰?」
「仮想現実世界の預言者とでも言おうか。個人名が良いなら、北条泰時とでも名乗ろうか。ちょうど、授業で習ったところだろう?」
「えっ?」
「『どうして、そのことを知っているんだろう?』といったところかな。まぁ、深く考えるのは止めにして、ひとまずありのままを受け容れておきたまえ。さて、そろそろ君に、こちらからの贈り物が届く頃合いのはずだ」
正陽の脳内に指数的な勢いで疑問符が量産されていく中、頭上からミニサイズのパラシュートに結わえ付けられた小包がゆらりゆらりと落ちてきた。
危険物ではないかと怪しみながらも好奇心を抑えきれず、ハムレットよろしく手を付けるか付けまいか悩む正陽。そこへ、オラクルが説明する。
「中には2種類の薬用カプセルが入っている。好きな方を選びたまえ」
「ちょっと待ってください。もっと詳しく説明してください」
「おやおや、いささか拙速だったかな。それでは、哲学界では有名なたとえを使って説明してみよう」
まったく状況が読めないながらも、話が長くなりそうだと踏んだ正陽は、耳を傾けつつも腰を下ろしてタイルの上に座り込み、十字に結んである紐を解いてパラシュートを外し、縛ってあった箱を覆っている新聞紙を剥がそうとし始めた。正陽は気にも留めなかったが、新聞には「表現の自由の暴走か!?」という見出しや、英弘十八(2098)年という未知の年号が印字されている。
「小さい頃、一度は『どうして眠っている時に夢を見るのだろうか?』と考えたことがあるだろう。漢文に明るければ、一炊之夢や胡蝶之夢といった故事を思い出すかもしれないね。そういった不思議な感覚を延長して理詰めしたものの一つに、水槽の脳という仮説がある」
「水槽の、脳?」
箱を開け、中に凸型にパウチされた2個の錠剤があることを確かめた正陽は、耳慣れない用語を復唱した。するとオラクルは、いい質問だとばかりに滔滔と説明を続ける。
「培養槽に浮かぶ脳という言い方もする。非常に懐疑主義的な思考実験で、細かな定式化の過程を省いて簡略的に結論だけ申し上げれば『我々が体験していると思い込んでいるこの世界は、本当は培養槽に浮かぶ脳が見ている夢に過ぎないのではないか』という学説さ。水槽の中には脳細胞の活動が維持できる特殊な培養液が満たされていて、脳の神経細胞に電極と刺し、そのコードの先を高性能なコンピュータに繋ぐ。そして、コンピュータによって脳波を操作されることで、あたかも脳が生身の身体を得て自由意志で動いているかのように錯覚させられるという仕組みになっている。我々は、実はこのように幻覚を見ている1個の脳に過ぎないのではなかろうかと問われたら、一筋縄では反論できそうにないだろう?」
合成音声のくせに朗朗と語り出したかと思いきや、唐突に同意を求められ、正陽は困惑しながらも、滂沱のごとき情報が忘却の大河へ注ぐのを堰き止めて脳内整理する。
「えーっと。つまり、僕が実在すると思っている高校生活は、虚構かもしれないってことですか?」
「左様ごもっとも。所詮、君たちの存在は、小説上の登場人物に過ぎない。舞台が千秋楽を迎えれば役者は用済みになるように、読者から徐々に存在を忘れられていき、いずれは消えてなくなる運命にあるわけだね。まっ、フェイクにしては随分と不都合な真実だから、君に選択肢を与えようというのが、この空間を用意した理由だ」
「……その、選択肢というのは?」
ごくりという音が聞こえそうな生唾を飲み込み、赤と青の錠剤が封されたパウチを握りしめながら意を決して訊ねた正陽。
その緊張を愉快げに感じながらも、努めて冷静に提示するオラクル。
「くっくっく。では、不都合な場合から説明しよう。もし、赤い錠剤を選べば、君は学園へ向かう道中を北川脩介が運転する車内で目を覚まし、後部座席に陣取る涼介、西荻、そして助手席の吉岡の3人から体調を心配されることになっている。つまり、これまでの生活の続きに繋がっているわけだね」
「なるほど。それなら、赤い方を……」
「まぁまぁ、説明は最後まで聞きなさい。反対に青い錠剤を選べば、君は虚構の存在を抜け出し、本物の世界で目を覚ます。つまり、煩わしい事件に悩まされず、気まぐれな創作家によって徒に運命を左右されない、こちら側の人間に生まれ変わることが出来るわけだね。どうだい。魅力的で、捨て難い選択肢だろう?」
「でも、そうなると僕が居なくなった方の世界は、どうなるのですか?」
「はっはっは。愚問だね、実に面白い」
今の自分の発言の何処が面白いのだろうかと、正陽は首を傾げる。オラクルは、それに構わず話を続ける。
「君が居なくなったことで空いた穴は、別の誰かが代役を務めるまでさ。何の罪悪感を抱く必要も無い。むしろ、何の罪も無いのに両親と離れて遠縁の親戚に預けられ、おまけに事件に巻き込まれてしまうという貧乏籤を引かされているにもかかわらず、それを当たり前のように受け容れている方が、こちらとしては異常に感じるまでもあるよ。――さぁ、あだしごとはこれくらいにして、そろそろ心を決めてもらおうかな。あまり長く一ッ所に居ると、ナツに勘付かれてしまうからね」
「僕は……、僕が望むのは……!」
正陽は、しばし手にしている赤と青のカプセルを交互に注視したのち、えいやっと片方の錠剤を押し出し、一気に口へ抛り込んだ。
はたして、霧が晴れた先に正陽が見た光景は……
――大作家エラリー・クイーンなら、ここで読者への挑戦状を挿むところだろう。実は前話までで既に全ての謎と鍵が提示され、ある一部分は解決されている。だが、他の大部分は未解決のままだ。ページをめくる前に、少しで良いから自分の頭で結末を推理をしてもらいたい。ただ、事件を解決する方向へ物語が進むかどうかは、今話で少しばかり雲行きが怪しくなってしまったけどね。
……考えはまとまったかね? それでは、次頁へ進みたまえ。




