第34話 この世界 (庵字)
「喉が渇いたな……何か飲まないか」
松林警部はハンドルをひねり、コンビニの駐車場に車を滑り込ませた。
多少の遠慮から、やんわりと断りを入れた正陽に対して、半ば押しつけるように微糖の缶コーヒーを奢ると松林は、一服してくる、と言い残して、自分の分のブラック缶コーヒーを手にしたまま、店舗裏手にある喫煙所に消えた。
正陽は、駐車場の一角でプルタブを開け、“微”と名乗るには甘みが主張しすぎているコーヒーを喉に流し込んだ。
はあ、と吐息を吐き出して、思う。
――このまま、吉岡たちのもとに向かうべきなのか、否か。
松林の一服は、長くとも数分程度で終わるだろう。その間に、決めてしまわなければならない。――が、行くにせよ戻るにせよ、松林には何と話したらいいのか。彼は、明らかに自分を疑っている。しかも……それは自分に着せられた数々の濡れ衣に対してというよりも、もっと根源的な、この一連の事件全体に対しての疑惑、そのように思える。冤罪に対しての疑いだけなら、ある意味、まだそのほうが気が楽だったと言えなくもない。自分がやっていないということは、自分自身が一番分かっているから。――が、今おきている事件、その全貌は、正陽自身、何も理解してはいないのだ。自分の与り知らぬ――力の及ばない事象に対して疑いを持たれてしまったら、自分自身、何も拠り所がなくなってしまう……。
二口、三口、缶に残っているコーヒーを一気に喉に流し込んだ。自覚はなかったが、思いのほか喉の渇きをおぼえていたのかもしれない。空になった缶をコンビニ外付けのゴミ入れに突っ込む。と、そこに、
「大変な目に遭っていますね」
横から声を掛けられ、思わず顔を向ける。そこには、ひとりの男が立っていた。
奇妙な男だった。青年のように見えるが、働き盛りの壮年なのだと言われても納得するだろう。“年齢不詳”という表現がこれほど似合う人間も珍しいのではないか、と正陽は感じた。
「……どちらさま、ですか?」
「そうですね……」男は、少しの間考えるような素振りを見せてから、「“A”とでもしておきましょうか」
「エー? アルファベットの“A”ですか?」
「そうです。『上を向いて歩こう』を作詞した放送作家のほうではありませんよ」
「……」
「それは“永六輔”ですね」
「……」
「――ああ、待って下さい」
危険な匂いを嗅ぎ取り、そっとその場を立ち去ろうとした正陽を、“A”と名乗った男が呼び止める。立ち止まり、ゆっくりと振り向いた正陽に向かって、
「少し……話をしませんか」
正陽は、その要請に応じることにした。男に対する胡散臭さは少しも薄れてはいなかったが、なぜか、そうしなければならないという気持ちが湧き上がってきたためだった。
「南見正陽くん……最初にも言いましたが、君、実に大変な目に遭っているようですね」
「は、はあ――」と、そこまで答えて正陽は、「えっ? ど、どうして、僕の名前……?」
「知っているのか、ということですか? それはもう……」Aは、わずかに口角を上げて、「存じ上げていますとも。なにせ……私は、君の“名付け親”ですからねえ」
「はあ?」
何を言ってんだ、この男? と正陽は思った。その正陽の顔を見ながら、Aは、
「四月生まれの君にご両親は、四月の異称のひとつである“正陽”と名付けました。“万物が生まれ出ようとする気、すなわち陽気が満ちている月”という意味です」
「……そ、その話」
今、Aの口から聞かされたのは、正陽が両親にせがみ、いつか聞かせてもらった自分の名前の由来そのものだった。
「あ、あなたは、僕の両親の……知り合い……なんですか?」
そう尋ねながらも、――矛盾している。と正陽は思った。この男は、自分が正陽の“名付け親”であると称しておきながら、その“正陽”という名前は、正陽の両親が名付けた、とも言っているからだ。
「君……」動揺する正陽を前に、Aは、「例えば、小説の世界の中に、文章で語られていない人物というものは、存在しているのかどうか? こんなことを考えたことはありませんか?」
「……はあ?」
「そうですね……君も読んだことのある小説で言うと……そう、ドイルの『緋色の研究』の登場人物でいえば、ドレッバーとスタンガスンには、父親が存在することが明確に作中で書かれていますが、ジェファスンには、そういう描写はありませんね。さて、この場合、作中でひと言も言及されていない存在――すなわち、ジェファスンの父親、というものは、いったい存在していると考えていいのでしょうか?」
「な……何を言っているんですか? あなたは……」
「どうですか、正陽くん。君は、ジェファスンに父親はいると思いますか? それとも、いないと思いますか?」
Aとしばし視線をぶつけてから、正陽は、
「……さ、作中に、書かれていようがいまいが、その人物が存在している以上、親もいるに決まっているじゃないですか……」
その答えを聞くと、Aは、にこりと微笑み、
「それじゃあ、もっと身近な問題で考えてみましょう……」と、コンビニ建物の奥を指さして、「案内板に寄れば、あの角の先には喫煙所があるそうですね」
正陽も顔を向ける。壁に張られた案内板に、喫煙所が設けてあることの文面と、その場所を案内する矢印が書き込まれていた。
「正陽くん、その向こうに、本当に喫煙所はあると思いますか?」
正陽は、まじまじとAの顔を見つめる。
「……何を言ってるんですか?」
「どうですか? 喫煙所は、ありますか? ありませんか?」
Aは、何かを挑むような笑みを浮かべながら、建物の向こうを指し示し続ける。
「あ、ありますよ……」
言うなり正陽は駆け出し、案内板の矢印に従って建物の角を曲がる。果たして、そこには、トタンで三面を囲われ、中央に円筒型の灰皿が置かれた、紛れもない“喫煙所”があった。
「あ……ありましたよ」
歩きながら戻ってきた正陽は言った。若干、その息は荒くなっている。喫煙所はあって当たり前。明らかすぎる事実を確認してきただけだというのに、なぜ自分はこうも安堵しているのだろう、という不可解は気持ちを抱えながら。それに対して、あくまで涼しい表情を崩さないAは、
「それは……少し違いますねぇ」
「な、何が違うっていうんですか?」
むっとして正陽が詰め寄ると、
「喫煙所は……正陽くんが確認しに行ったから、そこに現出したわけです」
「……はあ?」
「もし、君が、わざわざ喫煙所を見に行かなかったとしたら……喫煙所は存在していなかったんです」
「……あ、あなた……大丈夫ですか?」
明らかに怪しむ視線を向けられても、Aは少しも態度を崩すことなく、
「これが、この世界の理、です」
「……」
「腑に落ちませんか?」
「お、落ちないも……何も……」
「ところで……正陽くん、君、喫煙所に行ってみて、何か違和感を憶えませんでしたか?」
「い、違和感……?」
正陽は、今しがた訪れた喫煙所の様子を思い出す。トタンに囲われ、灰皿が置いてあり、喫煙所として何もおかしなことはなかったが……。
「――あっ!」正陽は、違和感の正体に気づいた。「……松林さん!」
そうなのだ。自分に缶コーヒーを渡したあと、一服しに行ったはずの松林が、喫煙所にはいなかった!
勢いよく首を左右に振り、正陽は松林を捜す。が、コンビニの駐車場、その脇の道路にも、松林の姿はどこにも見られない。彼が運転してきた車だけが、駐車スペースに駐められているだけだった。その車内にも、松林はいない。
正陽は視線をAに戻す。そのAは、わずかに会釈してから、
「君と二人きりで話したかったので、少しの間、松林さんには消えてもらったんですよ」
「き――消えた?」
「最初のほうに、松林さんの行動を、“喫煙所に消えた”と書きましたが、あれは比喩でも何でもなく、言葉そのままの意味だった、というわけで……。反則ですけれどね」
「な、何を言ってるんだ? あ、あなた――」
「正陽くん」
「は、はいっ?」
Aの表情が引き締められたものに変わり、思わず正陽は背筋を伸ばした。
「私が、こうして君に会いに来て、“この世界の理”を教えたのはですね……もう、終局が近づいてきたからです」
「しゅ、終局?」
「そうです。終局です。この事件……そう遠くない未来に、結末を迎えます」
「えっ?」
「この先、君や、君の大切な人たちに、どんな事が起ころうとも、それはすべて、“この世界の理”のもとに成されたのであるということ、それを分かってもらいたく、そして、覚悟をしてもらいたくて、いささかルール違反ではあったのですが、私は、こうして君と話をしに来たと、そういうわけなのです」
「……あ、あなた、いったい、何者なんですか?」
「……このくらいにしておいたほうがいいでしょう」
「えっ?」
と、そこに、
「おお、すまん、すまん」
聞き慣れた声を耳にして、正陽は顔を向ける。そこには、ばつの悪そうな顔をして駆けてくる松林の姿があった。
「ま、松林さん、い、今まで、いったいどこに?」
「いや、すまん」松林は、片手で正陽を拝んでから、「一服してたら、妻から電話がかかってきてな。君に聞かれるのも恥ずかしかったので、喫煙所を出て、さらの建物を奥に行って通話してたんだ。待たせて悪かったな」
「い、いえ……」
「じゃあ、行こうか」
「はい――あ! ま、待って下さい!」
「ん?」
正陽は振り向いた。が、
「……」
そこにAの姿はなかった。




