第33話 大混乱の果てに (孫 遼)
車が街灯の下を通るたび、端正な顔立ちが視界の端にちらりと入ってくる。松林は信号のない山道を走りながら、助手席の彼を密かに観察した。
南見正陽の印象は、出会った時と変わらない。実年齢より大人びて見えるが、今夜はさらに顔色が悪く、老成して見えた。唇には血の気が感じられず、深く思慮にふける表情がますます彼を高校生らしさから遠ざけているようだ。
(捜査に主観は禁物だが)
松林は静かに現状を分析する。
(とても犯罪を犯すような少年には見えない)
正陽からの電話で、勤務中のこちらに配慮しながら喋りだす様子が、これまで相対してきた少年犯罪の参考人像とは一致しなかった。反社会的な行動に走る青少年は、松林の経験上、多かれ少なかれ自分中心に物事を考える傾向にある。となれば正陽の目上の大人に対する気遣いはどこで培われたものなのか。聞いたところ、青博館高校に入学するため、親元を離れて親戚の家に下宿しているという。
(皮肉なことだ)
カーブを曲がり切ると、ざらりとしたフェイクレザーの感触がハンドルの感触が第三関節を滑っていく。
(親元を離れてまで転校してきた学校で、こんな事件に巻き込まれてしまうとは)
「ナツ……」
その存在を口に出すと、助手席の正陽の肩がびくりと揺れた。
「影の校長――つまり吉岡君が『あの存在』と接触しようとしていると、そういうことなんだね?」
真っすぐにフロントガラスから道路の先を見つめていた正陽が、ゆっくりと口を開く。
「……はい。あいつは何でもかんでもお笑いに結び付けたがるので、いまいち本音がわからない奴です。だけど理由もなくわざわざこんな隠喩めいたメッセージを送ってくるわけはない、と思います」
「だが、解せぬな」あえて正陽の言葉を遮る。「ならばなぜ、その情報を渦中の君ではなく西荻さんに送りつける? 君たちが一緒にいたのはたまたまと聞く。わたしは確かにナツと直接対話する必要があると君に説いた。だがそれを吉岡君がお膳立てしたと仮定して、どうもやり方が回りくどい気がする。そのあたりどう考えている?」
「それは……」
正陽が口ごもった瞬間、車内がぱっと明るくなる。携帯のディスプレイの光のようだ。
「はい。もしもし……吉岡?! 今松林警部とそっちに向かって――えっ、来るなって? どういうことだ!」
ただならぬ気配だ。松林は素早くハンドルを切り替えると、路肩に車を停車した。
「松林警部。吉岡が……」
ディスプレイの光に包まれた正陽が、くるりとその光源をこちらに向けた。
画面には、椅子に座って首を垂れたおかっぱの髪型らしき少女の姿が映っている。
「ナツが、消えたって……」
*
こめかみのあたりから、じとりと汗がにじむのを吉岡は感じていた。
(うーん、ちょっと、無理しすぎたかな?)
賭けには勝つ自信があった。相手がどのような存在であろうと、一度人間に憑依してしまえばその個体以上の能力は発揮できまいと高をくくっていたのだ。
その見積もりは半分は正しく、半分は間違っていた。
多弁な吉岡の挑発につられて、初めのうちはおちょくるように反応を返していたナツも、いよいよ不毛だと気付いたのか薄ら笑いを浮かべて無言を決め込んでいる。
ハタと気づいた。単なるかくれんぼや鬼ごっこであれば、女性である東夜鈴に対してまだ男の吉岡の方が利がある。ケンカに自信はないが、逃げ足だけは相当鍛えてきたし、いざとなれば能力がある。
しかし、持久戦となれば話は別だ。
相手は人智を超えた存在であり、悠久の時を生きる。それに対してただの人間でしかない吉岡は、飲食を取ることもあれば、睡眠も排泄もする。数日意識を仮に保っていられるとして、相手はその耐久力を優に超えてくるだろう――それこそ、東夜鈴の肉体が滅びるまで。
だからこっそりと、ポケットの中に「予約」してあったメールをそっと送信した。相手にそれとなく白旗と気づかせぬよう、最大限の注意を払いながら。
そうして瞬き一つしない怪物と30分ものにらみ合いが続いた頃である。
バーン!
突然背後から扉が開く大きな音がして、後頭部を風を切る音がかすめていった。瞬間的にしゃがんで頭を守っていなければ、おそらくヒットしたであろう水平蹴り。
「吉岡……念のため聞くけど、まだ生きてる?」
西荻の声がした。まるでロールプレイングに登場する剣士のようなポーズで、鈴と対峙している。ただ唯一、彼女が両手に持っている武器は剣ではなく、立派な大根であった。
「わお、麗ちゃん。銃刀法に違反しないあたりさすが一流アスリート。でもさ、対象を自分で攻撃しておいて、無事かどうか聞くって……ある種のまいっちんぐボブじゃね?」
「今すぐ全世界のボブさんに謝罪しなさい。マッチポンプと言いたくてボケたんでしょうが、あえて突っ込まないでおきます」
その言葉にかぶせるように、舌ったらずな少女の声が響いた。
「影のこーちょー!!! 大丈夫?」
素朴なワンピースを翻す少女と、葵校長が部屋に飛び込んできた。少女の手には巨大な杖型の飴が握られている。
「麗ちゃんから、ここにナツがいるって聞いたから。来たよー!」
車を飛ばしても一時間はかかる距離をどう短縮したかなど、あえて聞く必要もないようだ。
「お前ら……何しにきたんだよぉぉ!!!! 邪魔なんだよ死ね!」
東夜鈴――正確にはその体を乗っ取ったナツが歯ぎしりをする。西荻は臆せず中指を立てた。
「大丈夫。心配しなくても吉岡は私が殺すから」
西荻はそのまま親指を立てると、くるりと手を翻してこちら側に向けた。まったく状況が飲み込めず、言葉を失うナツ。
(ほらね作戦大成功……大根持った助っ人が俺に攻撃してくるなんて神でも予想できまい!)
「麗ちゃんはね、幼馴染であり遠縁であり殺し屋なんだよね。俺が追い出された大瞑家の血を引く仲でも戦闘力がずば抜けててさ。フィギュアスケーターは世を忍ぶ仮の姿、その本当の姿は、舞うように戦う舞闘姫ってわけよ。ほら、俺ってば勘当されてから覚醒しちゃった一族の厄介者じゃない? 本来ならば消される運命、みたいな」
吉岡は漫才、いや、お笑いを愛している。それゆえ、どんなシーンにおいてもユーモアを欠かすべきではないと、彼なりに常に研鑽を積んできたつもりである。しかし西荻麗は彼の想像を超えていた。吉岡を殺しにくる存在であり、彼の発するどんなボケも殺しにくる笑いの逸材。
「麗ちゃんが漫才研究会に入るまで絶対死なない……ヴォエ!」
腹に一閃、鋭い痛みが走った。壁まで体が吹っ飛ばされる。
「#闇の校長 #マジウザイ #殺す」
「そのハッシュタグ間違いなく炎上するから止め……あっ、燃えた礼拝堂に掛けてるのか。それはきづかなかったアグッ」
腹をかばうように組んだ両腕へ、西荻が容赦ない蹴りを入れる。
「入部なんて絶対拒否。ここがあんたの死に場所よ」
(親戚でなければ、そしてこんなバイオレンスな性格でなきゃ、一緒に夫婦漫才で天下取れたのにな……)
真っ白い世界へ意識が飛ばされかけそうになったその時、ナツと葵紀ノ未の声がした。
「ああ、メンドクセェ!」
「くらえ、天誅っ!」
「まてっ! そいつとはまだ話したいことが……」
伸ばした腕の先で、あらゆるものが動きを止めた。体感にしておおよそ10秒。
振り返れば西荻も、口を開いたまま硬直している。
(まさか俺、別の異能に目覚めちゃった? 時間停止的な……そんなはずないか)
当然、時間は動いている。その証拠に、葵紀ノ未がゆっくりと後ずさった。
「……どういうこと、なの。あんたどうしてくれるのよぉ!」
葵紀ノ未が怒りをあらわにすると、唐突に動かない東夜に突撃した。葵校長が両手ですくい上げるようにしてその小柄な体を捕獲する。少女はぎゃいぎゃいと何かをわめきたてながら、バタバタと両手両足を動かし拘束を外そうと試み始めた。
あっけにとられているうちに、視界がピンク色のラメのスニーカ―で遮られる。西荻は二人にゆっくりと近づくと、あちこちに振り回され手から振り落とされる寸前の巨大な飴を、葵紀ノ未の口に押し込んだ。
「落ち着いて」
「私たちには何が起きたかさっぱりだ。状況を教えてほしい」
葵校長がなだめるように声をかけると、ぴたりと反抗は収まった。
「ナツの気配……消えちゃった。私の技が決まる前に」
「「えっ」」
その場にいた誰もが、耳を疑った。
「一体、なぜ?」
「わからないよ。あいつの思考はね、宇宙より混沌としてるの。ねぇ早く自由にしてよ」
葵校長がそっと葵紀ノ未を床へ降ろし、三人は東夜のそばに集まりはじめた。
吉岡も壁に体を預けながら、やっとの思いで立ち上がる。西荻は振り向いたが、攻撃するそぶりは見せなかった。『停戦』――その意図を感じ取った吉岡は、ゆっくりと東夜鈴の方に歩みを進めた。
人智を超えた存在に体を乗っ取られた後でも、東夜の髪は相変わらずつやつやとしている。しかしその体が動く気配はない。
「ナツ……俺は、お前に引導を渡すつもりだったんだ。他にやり方はなかったのか?」
東夜鈴からの返事はなかった。
「まったく無理をして。少しは手段を選ぶべきでは? ピラール神父のようになるところだったんですから」
葵校長は咎めるような視線をこちらに向けた。西荻は腕を組んで仁王立ちしたまま、こちらをにらみつけている。
(残念だ。謝らなきゃな、あいつに)
吉岡は携帯を取り出すと、正陽の番号を押した。
*
『というわけだ。ごめんな南見』
ビデオ通話の向こうで吉岡が説明を終えても、ディスプレイの中の東夜鈴の体が動き出す気配はない。
『で、お前これからどうする?』
予想もしていなかった展開と吉岡の問いかけに、正陽は聞いた言葉をただオウム返しすることしかできなかった。
「どうする、って」
吉岡の言う通り、ナツが消えた今、自分が行くよりは皆の戻りを待つ方がいいだろう。とはいえ、常に最悪の事態を想定しておく必要はある。
「ナツはもう復活しないのか?」
『知らん。だが神がどこにも気配がないっていうんだから、消滅したと考えるのが自然だろ』
『うん。ふっかつするかもしれないけど……いなくなっちゃったって方向で考えたほうがいいかも』
正陽はその声を聞いて確信する。
――神様と名乗っていた、昨日の不思議な子だ。
『せーよー、犯人つかまえられそう? 昨日あれだけ頑張ってたから、もう犯人誰だかわかってるよね?』
呼吸が浅くなる。全身から汗が噴き出すのを感じる。
(今、その話は、まずいよ)
松林警部の表情が、まるで歌舞伎の見得のように鋭く変化した。
『おぬし、何かを隠しておるのか?』
今にもそんなことを言い出しそうな気配である。
正陽はあわてて首を横に振ると、くせ毛を撫でながら必死に考えた。ナツとの直接対話が不可能となった今、他にできることはなんだろう、と。




