第29話 松林新兵衛警部とナツの謎 (Kan)
青博館高等学校で問題を起こした生徒が閉じ込められる謹慎室、正陽はここに無理矢理連れてこられた。
錆びついた鉄のドアを開くと、リーゼントの不良生徒が椅子に固定されていて、無数の傷が刻まれているその体から真っ赤な血を滴らせながら、彼はがっくりと首を垂れて、脱力していたのだった。
「おい、交代だっ……」
リーゼントの不良生徒は、不良対策の体育教師にそう声をかけられ、拘束具を外されると驚いて顔を上げた。
「なんだと……?」
「お前を懲らしめるのはこれぐらいで充分だろう。もう他校の生徒と揉め事を起こすなっ! 刑事さんがこの部屋で生徒からちょっと話を聞こうとおっしゃったおかげで、お前は出れることになった。幸運だったな……」
「チキショウ……手ぬるいことしゃあがって……俺はまだ音を上げてねぇぜ……」
不良生徒は床に唾を吐くと、うめき声を上げながら、体育教師に引っ張られて廊下を歩いて行った。彼の姿が見えなくなってからも廊下の先からは「殺す気で来いよぉっ!」と怒鳴る声が響いていた。
正陽は、こんな荒っぽい学校だったっけ、と疑問と不安を感じ、首を傾げながら謹慎室に押し込まれた。
「さあ、君、ここに座りなさい。君には色々と話を聞かなくちゃならないようだからね」
正陽は先ほど不良生徒が拘束されていた中央の椅子に座らされる。良い気持ちはしない。その上、刑事の一人がじろりと睨みつけてくるのだ。狭い正方形の部屋で、小さな窓には鋼鉄製の格子がかけられている。白い壁には得体の知れないシミが沢山ついているのだった。
「ぼ、僕は何もやっていません」
「とにかく、君があの生徒に何をしようとしていたのか、それを話してほしい。ことによると先生方ではなく、我々が担当しなくてはならないことかもしれないのでね……」
「本当に何もしてないんです!」
「君の行動はすでに調べさせてもらっているが、不審な点がやたら多い。そして今回の一件、一体何をしようとしているのだね。我々としても君を疑わずにはいられない状況なのだよ。分かるかね。えっ?」
正陽は怯えてしまって、何と言ったらよいのか分からず、口の中でもごもご、未知の言語を呟いているばかりだった。
「二人ともそこまでだ……!」
二人の刑事はその声に驚いて振り返る。そこには江戸時代の藩主か将軍のような立派な顔立ちをした威風堂々たる大男が仁王立ちしていた。角張った輪郭をしながら、美しい切長の眼が色気を漂わせ、歌舞伎役者のような粋な雰囲気を醸し出している。
「松林警部……!」
「その生徒が青博館高等学校で巻き起こっている一連の騒動の真犯人だというのは確かに面白い。しかし、そう高圧的な事情聴取をするものではないぞ。まあ、ここは俺にまかせてくれ……」
松林警部は、自信たっぷりの微笑みを浮かべながら、歩み寄ってきた。二人の刑事はオロオロしながら引き下がる。
「南見正陽といったな、君は。わたしは松林新兵衛警部だ……。女子生徒に危害を加えるなど男として言語道断だが、この青博館高等学校で起きている騒動の異常を考えると、単純に君が一連の騒動の犯人だと結論づけるわけにはゆくまい。そこで、君がこれまで体験したことをできる限り、正確にわたしに話してほしいのだ……」
「は、はい……」
南見正陽は今まで自分の身に起こった不思議な出来事を語った。この人だったら分かってくれるのではないかという期待から、ところどころ興奮して早口になってしまった。その度に松林警部は「まあ、落ち着かれい……」と言って、優しく微笑んでいた。
「なるほど。バナナの皮、そしてナツ。君はこの数日間のうちにこの青博館高等学校の裏の面を覗いてしまったというわけだ。ふっふっふ。よかろう。君はこの世界に足を踏み入れてしまった以上は、この謎の真相を知る権利があるというものだ。よし、残りの者は全員、この部屋から出てゆけ……」
二人の刑事を始めとして、その場にいた人々は松林警部の威光に慌てた様子で、謹慎室から出ていった。
「まずピラール殺しの犯人についてだが……わたしはピラールは何者かに殺されたものと考えている。そもそも何もないあの場所で転倒するのはおかしい。この学園では確かに何事か、重大な事件が起こっている。君もご存知の通り、この学園ではナツとそれを信仰するナツ派とそれを弾圧する影の校長を始めとするカトリック勢力が渦巻いているのだ……。
ピラールの遺品を調べたところ『第七代 影の校長は440or440』と記されたメモ書きが発見された。わたしはこれを見て、ある一人の生徒を影の校長だと断定していいだろうという考えに至った……」
「それは誰ですか……?」
松林警部はふふっと微笑む。
「漫才同好会の吉岡義雄だ。このメモをよく読んでくれ。「440」は「よしお」と読み、「or」は並立を意味する「か」と日本語訳していいだろう。つなげて読むと「よしおかよしお」になる。ピラールは影の校長である吉岡義雄と手を組んで、ナツ派の人々を探っていたのだ。それがこのようにして死亡したということは、単純に考えると、ナツあるいはナツ派の人々に殺されたのだという風にみえる。ところが、そのように見える状況だということと、それが真実か否かは、まったくの別次元の問題なのだ」
「吉岡が、まさか、そんな……」
正陽はあまりのショックに椅子から転げ落ちそうになる。しかし、どうにか下半身の筋力で全身を支えた。
「君が今後、窮地に陥ったら、吉岡義雄に助けを求めるといい。彼はこの学園の安全を守ろうとしているのだ。しかし、真実を知りすぎていることをあまり匂わせたならば、君もナツ派の人間と誤解されるだろう。その時、君は吉岡義雄に樹木のように伐採されるだろう。くれぐれも気をつけたまえ。
吉岡義雄については補足説明しないとならないことがある。彼は大瞑家という霊能力者の家系の出らしい。これについてわたしが調べたところ、彼はそこにいるにも関わらず絶対に見つからないという霊能力を持っているらしい」
そんなことを言われても到底理解できる話ではない、と正陽は思った。
「礼拝堂を焼いたのは誰ですか?」
「分からない。ただ、わたしは、礼拝堂を焼けたことと、六年前の死亡事故は関連しているとみている。六年前の騒動は事故死と捉えられているが、本当は密室で行われた犯罪だ。今回の一件は、君が礼拝堂に立ち入って、抜け穴を調べはじめたことに焦った犯人が証拠隠滅のために礼拝堂を焼いたのだ。やはり礼拝堂には抜け穴があった……。そう考えると自然だろう」
「そもそも、六年前の死亡事故の真相は何なのですか?」
「わたしの考える限り、あれは撲殺事件だ。死体の傍らにバナナの皮を置いて、バナナの皮を踏んづけて転倒したことによる事故死に見せかけたのだ。つまりナツによる犯行にね。ところが、これを行ったのはおそらくナツでもなければナツ派でもない、とわたしは考えている。
ちなみに、わたしはこの事件を解明した暁には、小説にして出版しようとしている。その時、わたしは警察関係者であることを明かさずに「フリードリヒ・ヴィルヘルム」という筆名を使用しようとしているのだ……。はっはっは。わたしの尊敬しているドイツの王様の名前だよ……」
「は、はあ……。しかし、なぜ、ナツやナツ派の犯行ではないとお考えになるのでしょうか」
正陽は高笑いをする松林警部に若干呆れながら、話題を本筋に引き戻した。
「推理小説の謎解きの公式というものがある。「あからさまにAの犯行に見える場合、それはAの犯行ではない」というわけさ。実は青博館高等学校では明治時代からバナナといえばナツを連想するものと決まっている。なんでそんなに詳しいのか、という顔をしているね。わたしもこの学校の生徒だったのだよ……」
これは現実なのに推理小説の公式なんて関係ないじゃないか、と正陽は呆れて思った。
松林警部は、この学校の卒業生らしい。どうりで普通の刑事にしては、学校の内情に詳しすぎると思った。正陽は納得すると頷いた。
「いいかね。ナツやナツ派の犯行に思われるものこそ、まったく真反対のものの犯行の可能性があるということだよ」
「しかし、僕は現にナツによって何度もバナナで転がされています」
ナツの存在が疑われているような気がして、正陽は必死に自分の身に起こった不思議な出来事を語り始めた。
「それは本物のナツの仕業かもしれないね。しかし、勘違いしてもらっては困るのだが、わたしはナツの存在を否定しているわけではない。よく聞きたまえ。こういうわけだよ。一連の事件の流れ中に、ナツの犯行に見せかけて思いを遂げんとしている者が潜んでいるのさ。たとえば、ナツがピラールを殺そうと思ったとする。そしてナツはピラールを殺したと思う。ところが、同時刻に、他のある人物もピラールを殺そうとしている。この二つの行為が重なってしまって、二つの出来事が同時に起こっていたとしたら、ナツの知らないところで他に暗殺者が存在していたということもありうる。つまり物事の運動は単純に一つの事柄からなりたっているとは限らないということだよ。ナツの認識の外にもう一人、陰で動いている人物がいるとしたら……。
あるいはナツがピラールを殺そうと意識したとして、ナツの意識とコンタクトしている意識の持ち主がどこかにいて、その人物が殺しに走った可能性もある。それが意識的か無意識的かは分からないが、この世にはテレパシーというのは実在するらしいからね。いずれにしても、ナツ以外の人間が同時進行的に犯行に及んでいる可能性は拭えんのだ……」
「それは一体、誰ですか……」
「わたしには分からない。そもそも、あくまでも可能性の話だ。ところが、たとえば、卒業アルバムの東夜華鈴の名前がしみのようなもので黒塗りにされていたことは明らかに人間の作為の痕跡ではないか。過去の騒動を隠蔽しようとしている人間の意識が働いている。もし、これがナツの仕業なら、卒業アルバム自体を消去してしまえばいいのだ。例えるなら、赤ペンで文章を校正するようなものさ……。それをしなかったというのは、どこかで人間が暗躍しているのさ……。
いずれにしても、正陽君、君はこれからナツと一対一で対話する機会を得なければならない。それは青博館高等学校の創立から守られてきたタブーに違いないのだが、そうしなければ、どんな人間の企みが並行して起こっているのか、一体、何が神の所業で何が人間の悪事なのか、はっきりしてこぬのだよ……」
「ナツと一対一で対話。どんなことをすればそんなことが叶うでしょうか」
正陽は、重荷を背負わされたような気持ちになった。そもそも神と対話することなんて不可能じゃないかという気持ちもあった。しかし、松林警部は余裕のある微笑みを浮かべて、正陽の顔をじっくりと眺めている。
「わたしの想像では、ナツはすでに地表に現れている。君の知り合いの中に、ある時から、言動が極端に変わってしまった人物がいなかったかね? ナツは今、君のそばにいるはずなのだよ。その人物と直接対話をしてみることだよ。そして君とナツとで協力して……いうならば和平交渉をして、青博館高等学校で起こったいくつもの謎をふたりで解き明かしたらどうだね!」
松林警部はそう言うとすぐにさも愉快そうに大きな笑い声を上げたが、すぐに表情を引き締め、鋭い眼差しで正陽の瞳を覗き込んだのだった……。




