第28話 包囲網 (庵字)
「――!」
振り向かれた東夜の顔を見て正陽は、思わず息を呑んだ。
――綺麗だ。
改めて、そう思うと同時に、
――何か、変だ?
とも感じた。そもそも、彼女とは数えるほどしか会ってはいないのだが、それでも……いつもの東夜鈴と、どこかが、何かが違っている? おぼろげながら確信に近い――矛盾する表現だが――気持ちが正陽にはあった。
しかし――いつまでもこうして目を合わせ続けているわけにはいかない。その、いつまでも見つめ続けていると吸い込まれてしまいそうな――本当にそうなってしまうのでは?――東夜の双眸から一瞬だけを逸らし、その間に、正陽は言うべき言葉を頭の中で整理した。
「あの――」
脳内で構築した長い言葉を、しかし、正陽は最初の二文字しか発することが出来なかった。彼の台詞をせき止めさせたのは、教室のスピーカーからのチャイムと、その直後に流れた校内放送だった。
『2年A組の南見正陽さん、至急、応接室までお越し下さい。お客様がお見えです。繰り返します……』
「……えっ?」
正陽は思わずスピーカーを見上げる。放送は同じ呼び出しを二回続けてから、チャイムを鳴らして終わっていた。
「あなたのことでしょ」
「えっ?」
視線を戻した正陽は、再び二つの瞳を真正面から見た。くすり、という擬音がよく似合う笑みを浮かべてから、東夜は、
「行かなくて、いいの?」
「あ、そ、そうだね……」
正陽は――別段、そうする必要などなかったのかもしれないが――「ごめん」と一言詫びてから東夜に背を向けた。教室を出るまで、彼女の視線がずっと背中に突き刺さっていたように感じたのは、決して正陽の思い込みではなかった。
応接室の扉をノックしたあとに、「どうぞ」とかけられたジョリーの声に応じて、「失礼します」正陽は扉を開けて入室した。会釈をして顔を上げると、来客用の上座のソファには、背広を着た二人の男が腰を落としていた。歳は三十から四十台といったところだろうか。正陽の知らない顔だった。
「南見」
と、その対面に座るジョリーは、自分の隣の席に来るよう正陽を促した。それに従って正陽は、もう一度会釈をしてからソファに腰をあずける。その間も、二人の男の視線はひとときも正陽から狙いを外すことはなかった。
「南見――」ジョリーは改めて正陽を呼び、「こちら……」と対面の二人を手で示すと、「刑事さんだ」
「――えっ?」
それを聞いて、初めて正陽は二人の男と真正面から視線をぶつけた。ノックに応じた声といい、自分に向ける表情といい、(変だ、いつものジョリーじゃない)と正陽は感じ取っていたのだったが、その理由が今、わかった。
「お前に、話を訊きたいそうだ」
緊張か、不安か、あるいはその両方か、やはりいつもとは違った調子で発せられたジョリーの言葉を皮切りに、二人の刑事の片方――やや年上に見えるほう――が口を開いた。
「南見正陽くん、単刀直入に訊こう……一昨日の深夜、時間にして、午後十一時から午前零時くらいの間、どこで何をしていたか、憶えていないかい?」
「おと……とい?」
二つの音節に分けて返答した正陽の声に、質問をしてきた刑事は、ゆっくり頷いた。
「……その時間なら、家にいましたけれど」
高校生が、しかも平日に出歩く時間ではない。
「証明できる?」
「はぁ? ちょ、ちょっと待って下さい、それって……」
――まるで、アリバイの確認じゃないですか。
そう言おうとして正陽は、“一昨日の深夜”に何があったかを思いだした――いや、思い出すまでもなく、頭に浮かんだ。
「れ――礼拝堂?」
「そうなんだよ」刑事は、正陽のほうからその単語を出してくれたことを嬉しがっているような口調で、「実はね……一昨日の午後十一時半頃、この学園の礼拝堂近くで、君の姿を見かけたという話を聞いてね――」
「ま……待って下さい」正陽は、手の平を向けて刑事の言葉を制しつつ、「そ、それって、ぼ、僕が疑われているってことですか?」
「先に、私の質問に答えてもらえないかな」やれやれ、というふうに、刑事は薄い笑み混じりの声で、「その時間、君が家にいたということを証明できるのかな?」
――おじさんと、おばさんが……
そう言いかけた正陽だったが、その二人は夜が早いため、その時刻にはすでに床に就いている。自分が在宅していたことを証明するのは難しいだろう。そんなことを思いながら、まったくの予想外の展開に、額に汗を浮かべてしどろもどろになっている正陽に、今度は、
「それだけじゃないぞ」と隣の若いほうの刑事が、「昨日の午後五時半、どこで何をしていた?」
「えっ? き、昨日?」
昨日の午後五時半、いったい何かあっただろうか? 正陽が思い出すのと、若い刑事が言葉を継いだのは同時だった。
「そっちでも、目撃情報があるんだよ。君が神父を道路に突き飛ばしたっていうな」
――ピラール神父!
「お二人とも、少し落ち着いて下さい。相手は高校生なんですよ」
見るに見かねたのか、ジョリーが正陽と刑事らとの間に割って入った。
「そ、それって……つまり……」
舌がくっつきそうなほど急速に渇き始めていた正陽の喉に、そのあとの言葉を継ぐ力はなく、
――礼拝堂の放火と、ピラール神父殺害の容疑が、僕にかかっているということですか?
心中で正陽は、刑事が訪問してきた理由を質した。直後、
「――むっ」
やおら、ジョリーは立ち上がると、扉に向かって大股で歩いて行き、ドアを引き開けた。すると、廊下側で扉に寄りかかっていたためだろう、数名の生徒が室内になだれ込んできた。
「お前ら――!」
「やばい!」
ジョリーの一喝を浴びた生徒らは、蜘蛛の子を散らすように応接室の前から霧散していく。
「2年A組の……」「南見正陽が……」「放火犯……?」「それだけじゃなくて……」「ピラール神父を……?」「殺した……?」
口々にそう言いながら、生徒らは走り去っていった。
ジョリーは、正陽たちのほうに向き直ると、
「刑事さん、申し訳ないが、今日のところは……」
これ以上“容疑者”を糾弾して、校内が騒がしくなることに責任を感じたのだろうか、二人の刑事は――年嵩のほうは、やれやれ、というふうに、若いほうは、渋々といった表情で――立ち上がると、教師の言葉に素直に従い応接室を出て行った。すれ違いざま、若い刑事は正陽の顔に鋭い視線を投げかけるのを忘れなかった。
ジョリーから何か言葉をかけられたはずだったが、正陽は何も記憶に残らないまま、ひとり校舎裏で佇んでいた。午後の授業をサボタージュすることとなってしまったが、そんなことには何も感じなかった。校舎を挟んだグラウンドにこだまする、体育の授業を行っている生徒らの歓声も耳に入らないまま、正陽は、
――誰なんだ?
自分を目撃した、などという根も葉もない証言をした人物は何者なのか? そのことばかりを考えていた。――と、そこに、土を踏む足音が聞こえてきて、
「……あ、東夜……さん」
東夜鈴が姿を見せた。正陽と一メートル程度の距離を置いて、東夜は、にやり、と笑みを浮かべる。
――違う。
またしても正陽は、そう感じた。
初めて、まだ焼け落ちる前の礼拝堂で出会った、あの少女と、今、目の前に立つ少女は……。あのとき、東夜鈴は、両手にフルートを抱えて……。
「――!」
正陽の記憶が呼び覚まされた。そう、あのとき、東夜鈴と初めて出会った、あのとき、彼女は自分に対して……。
「あ、東夜――い、いや、き、君……」正陽は、少女の目をじっと見つめて、「さっき、教室で会ったとき、君は僕のことを、『あなた』って呼んだね」
「それが、どうかしたのかしら?」
不敵、とも表現できる笑みを絶やさないまま、東夜鈴は答える。
「君は……僕のことを、『南見先輩』って呼んでくれていたはずなのに……」
それを聞いた東夜鈴は、一瞬だけ眉根を寄せた。
「き、君は、いったい、誰……なんだ?」
「あはは」乾いた笑い声を上げた東夜鈴は、また表情を元のような笑みに戻して、「何を言ってるんですか、南見先輩。私ですよ……東夜鈴に決まってるじゃないですか……」
そう言いながら、ゆっくりと近づきつつ、制服のリボンに手をかけると、するりとそれを解いた。そのまま東夜鈴は、次に上着を脱いだうえ、シャツのボタンを上から外し始めた。
「な……何をしているんだ……?」
応接室でのショックが抜けないうえに、まったく予期せぬ展開に直面した正陽は、体が硬直してしまい、一歩も動けない。
東夜鈴は、ボタンを全て外したシャツの隙間から、透けるような肌と下着を覗かせた格好になると、正陽の十数センチ手前で立ち止まり、
「……」大きく息を吸い込むと、「いやっ!」
悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。
「――えっ?」
何が起きているのか分からない正陽の目の前で、東夜鈴は地面に横たわり、身を守るように体を縮める。と、そこに、
「おい! 何やってんだ!」
野太い男の怒声が浴びせられた。目を上げると、声の主であるジャージ姿の体育教師が走り込んでくるのが見えた。その後ろには、体育の授業を受けていた男子生徒たちが、ぽかんとした顔で立ち尽くしていた。
東夜鈴は立ち上がると、
「先生!」
目に涙を浮かべながら体育教師の向かって駆け出す。まるで、必死に正陽から逃げるかのように、脚をもつれさせながら。体育教師に体を受け止められた東夜鈴は、きっ、と涙を浮かべた目で正陽を睨み付けると、
「あ、あの人が……私のことを……無理やり……」
そこまで言うと、激しく泣きじゃくった。教師の後方で男子生徒たちもざわつき始める。
騒ぎを聞きつけたのか、校舎からも何人もの生徒、教師らが出てきて、遠巻きに様子を窺っていた。その中には、涼介、吉岡、西荻、ジョリー、ミラーのほか、まだ校内に残っていたのか、応接室で会った二人の刑事も混じっていた。群衆の中から、真っ先に近づいてきたのは、その二人だった。
「何があったのか、ちょっと話を聞かせてもらわないといけないみたいだね……南見正陽くん」
正陽の手首を掴む若い刑事の目は、獲物を狙う猟犬のようなそれをしていた。
体育教師に両肩を掴まれて俯く東夜鈴が、口元に笑みを浮かべているのに気づいたのは、吉岡義雄ただひとりだけだった。




