第26話 かに座の男子 (若松ユウ)
厄介な試験を前にして勉強より部屋の掃除が捗ったり、大型アウトレットモールで予定外の商品を衝動買いしたりと、時として不合理な行為に走ることがあるように、人間の行動原理は決して理論的に説明できるように作られていないものである。
その不一致性や非論理性が、精密機械にはない人間らしさなのだろうが、ままならないだけに扱い難いことに変わりはなさそうである。
ともかく、思考回路が堂々巡りしはじめたら、いっそのこと別のことをした方がかえっていいアイデアが浮かぶものであることに、異論はないところであろう。もっとも、単純な現実逃避に過ぎない場合も多いので、必ずしも打開策が見つかる場合だけとは限らないけれど。
ひとまず、このミステリーの核となるであろうナツと葵校長の対立のこと、それから東夜と正陽の命運は横へ置いておいて、その外郭の様子から見ていこう。場所は青博館高等学校の三階、時刻は始業前である。
「あーたーらしい、あーさがきた。きのーうの、あさーだ。おはよう、皆の衆!」
水面下で色々な権謀術数が働いていたとしても、表向きには、涼介、西荻、そして吉岡の学園生活に変化は見られない。替え歌のような何かを歌いながら教室にやってきた吉岡に対し、日直として職員室前に書かれていた連絡事項を黒板に書き写していた涼介が応じる。
「朝からご機嫌だな、吉岡」
「へっへーん。今朝の占いで、かに座が一位だったんだ。ラッキーナンバーは、4がつく3桁の数字だってさ。カニッカニッ、カニ―ッ」
「まったく。朝っぱらから調子外れな歌を聞かされる、こっちの身にもなって欲しいところだけど。昨日の朝なら、ちっとも新しくないじゃない」
「いよっ! ナイスツッコミ」
両手でピースしながら横歩きで涼介に近付いていた吉岡に続いて、西荻も教室へ入った。西荻は、景気の良い合いの手を返して来た吉岡へ間髪入れずにローキックを見舞って黙らせてから、心の狼に仔羊の皮を被せつつ、背負っていたピンクのリュックを下ろし、ファスナーを開けて中からノートを取り出して涼介に渡した。
「これ、ひょっとしたら南見君のじゃないかと思うんだけど、名前が無くて」
「あ~、これはあいつの字だな。俺から渡しておこうか?」
「そうしてくれると助かるわ、朝の自主トレがまだだから」
「そっか。それは、早く行った方が良いな。じゃあ、預かるよ」
「うん、お願い」
なんとなくぎこちないやり取りを交わしつつ、涼介はノートを受け取り、西荻はファスナーを閉めてリュックを背負い直した。二人の間に芽吹いているであろう両片想いの花の甘酸っぱい匂いを嗅ぎつけた吉岡は、外野から囃し立てる。
「ヒューヒュー、お熱いね。ユーたち、付き合っちゃいなよ。――あいたっ!」
吉岡は、去り際に炸裂した西荻の怒りとも照れ隠しともつかない感情がこもった左ストレートパンチによって、その場に泡を吹いて倒れた。その姿は、かに座の男子らしいと言えなくもないかもしれない。いや、言えないかな。
「お前、口は災いの元って諺、知ってるか?」
「うーん、禍を転じて福と為すなら分かるけど?」
「都合よく解釈するな。お前の頭の中は花畑か」
「いいや、味噌がいっぱい詰まってるはずだよ。カニッカニッ、カニ―ッ」
やれやれ、どうしようもなく困った奴だ。涼介は、そう嘆息しようとした。
しかし、その一刹那前、西荻と入れ替わるようにして、正陽が色白の顔をいつにも増して蒼くさせながら冷汗三斗で駆け込んで来た。




