第16話 "ベル" (羽野ゆず)
正陽は、あらためて目の前の老人をまじまじと見つめた。
怒った形相は恐ろしかったが、こうして微笑んでいると、西洋風の好々爺といった感じだ。
「ところで、一体どういうことかね」
ピラール神父は厳しい顔つきに戻る。
「常利先生が、火災を起こしたのは君と疑っているって?」
「正直な話……僕にも訳が分からないんです」
しどろもどろに正陽は答えた。
嘘は吐いていない。疑われているのは、昨日のワイン事件が原因だろう。
しかし、あの後、誰が、いつ、どうやって、なぜ――礼拝堂が焼け焦げるに至ったのか。何が何だか分からないのは本当だった。
ピラールは、ふん、と鼻を鳴らす。
「だがね、南見君とやら。それは君が校長室に忍び込んだことと何か関係があるのか? どうなのかね」
「……」
ぐっと黙り込む。
校長の帰宅命令にはじまり、謎が深まるばかりの青博館高等学校。
自らの潔白を晴らすとともに、謎を解く手掛かりを発見するため校長室に侵入したが、すべて正直に打ち明けるべきか否か。
白い顎髭をゆっくりとした手つきで撫でているピエールは、この件をどう対処すべきか思案しているようであった。彼のすぐ傍らにある、歴史を感じさせる本棚。そのガラス扉に映る老神父を一瞥し、正陽はふいに思い立つ。
「――あの。ピラール神父は、校長とは古い付き合いなんですよね? 古くからこの学園に勤めていた」
「いかにも。校長が新人で赴任した頃からな。当時から、わしらは妙にウマが合った」
何十年前の出来事だろう。正確にはわからないが、学校の内情には通じていそうだ。
いっそ彼にも聞いてみようか。“ナツ”について。
いや、待て……。下手なことを口にして、これ以上、立場が悪化する事態だけは避けたい。正陽は誰かに話して、すがってしまいたい気持ちを抑えた。
「うむ? これは――吹奏楽部じゃないか」
突然、神父の口調が変わった。
何かと思えば、豪奢な机の上で開きっぱなしになっていた、卒業アルバムに注目しているのであった。
「吹奏楽部を知っているんですか」
「知っているもなにも」愚かな質問を、とばかりに続ける。「わしは吹奏楽部の名誉顧問でな。そうそう、この代の吹奏楽部は普門館に行ったんじゃ。だからよく憶えておる」
「ふもんかん?」
「そんなことも知らんのか、君は。全日本吹奏楽コンクールの会場じゃよ。吹奏楽の甲子園みたいなもんだ。やぁ、あの頃は素晴らしい逸材が揃っておったな」
ピラールは懐かしむように目を細めている。
普門館は分かったが、名誉顧問ってなんだ? 正陽はモヤモヤしつつも、写真の、フルートを吹く少女を指した。
「じゃあ――この女子生徒を知っていますか!?」
興奮のせいで、声が上擦っていた。
六年前のアルバム。当時の三年生と思しき、東夜鈴にそっくりな少女。
いまにも、その正体が暴かれようとしている。おもわぬチャンス到来に、正陽はごくりと唾を呑み込んだ。
「もちろん。憶えているとも」
ピラールは威厳たっぷりに頷く。そして、物々しく口を開いた。
「この女子生徒は、フルート吹きの名手でな」
その瞬間、奇妙に言葉を止め、首をひねった。
「いや、ちょっと待て……憶えておらん!」
憶えてないのかよっ!!?
力んでいた正陽は、応接セットのソファにずっこけた。ピラールは混乱したようすで、白髪を掻きむしっている。
「いやいや、知っている……知っていた。ここに」と脳天を指し、「たしかに氏名が在ったのじゃが、急に消えてしまった……もしや悪霊の仕業か!?」
言い訳がましい神父を横目に、正陽は卒業生のクラス別紹介のページを探る。
そう、ピラール神父さえ現れなければ、最初からこうするつもりだったのだ。
慎重にページを捲っていく。三年A組に少女は掲載されていない……B組、C組にも。最後に残されたD組のページを開くと、
「「な、なっ、なんだこりゃあ!!?」」
二人はそろって悲鳴を上げるはめになった。
というのも、ページの一部が不自然な黒い染みで汚れていたからだ。染みに隠れて、幾人かの生徒の顔と氏名が見えなくなってしまっている。
他の顔写真を見渡す限り彼女は見つからず、染みの下に彼女がいたとしても確認のしようがない。
「校長の奴、コーヒーでもこぼしおったかの」
さすがのピラール神父も動揺を隠せずにいる。気まずそうに、ごほんと咳払いした。
「しかし、君。なぜこの生徒について知りたがる?」
「一年生に同じ顔の子がいるんです。彼女もフルートを吹いていて」
「顔がそっくり、ということは、姉妹か何かの」
そっくり、というか同一人物としか思えない程なのだが。
「残念なことに、わしは去年から体調を崩し休んでおった。今年の一年生までは把握していないのじゃ」
「……でしたね」
正陽はがっくりと肩を落とす。
「ささ、早く帰るのだ。南見正陽君。校長室に無断侵入した件は、とりあえず、わしが預かっておこう」
大人しく従ったほうが賢明だろう。
踵を返したとき、正陽の膝が飾り棚に当たり、鐘のような音が響いた。置物同士がぶつかった音だろうか。やけに反響していた。
「そういえばの」
何かを閃いたのか、ピラールの目に光が宿っている。
「思い出した。さっきの、フルート吹きの少女。友人から愛称で呼ばれておった」
「愛称? あだ名ですか」
「ああ。――“ベル”とな」
ベル。
正陽は、あ、と小さな声を漏らす。
ベル――すなわち、“鈴”。
思い返せば、校長の帰宅命令。あのとき礼拝堂に東夜鈴がいた。
バナナの皮で滑ったときも、ワイン事件のときも、彼女は常に奇妙な出来事のそばにいた。
すべて偶然だろうか?
無意識にうちに、唇を強く噛みしめていた。正陽は決意を固める。
確認するしかない、そう、鈴、本人に。




