第13話 ボジョレー・ヌーヴォーの疑惑 (孫遼)
(なんだ? 様子がおかしいぞ)
朝霧だろうか、今朝の空気はぼんやりと濁っている気がする。
正陽は自転車のペダルを漕ぐ足を止め、スピードを落とした。登校中の生徒ぐらいしかいないはずの道がなにやら騒がしい。前方の通行人たちが興奮ぎみに話しているのが見えて、さりげなく聞き耳を立てた。
「昨日の夜?」
「そうだよ、めっちゃ煙出てた」
(煙? なんのことだろう)
彼らを追い越して自転車はゆるやかな坂道を惰性のまま進んでいく。最後のカーブを曲がるときに、学校の正門の様子が視界に入ってきた。
無数の人だかり。数台のパトカーと、真っ赤な消防車。
「火事!? ひょっとして学校か……」
自転車をあわてて路肩に止めると、首を伸ばして人垣から学校の敷地をのぞき込んだ。火はすでに消し止められているようだったが、学校のシンボルともいえる礼拝堂が真っ黒く焼け焦げていた。石造りであることが幸いし建物の形こそ留めているが、ところどころ骨組みが露出しているのが痛々しい。
登校してきた生徒たちは所在なげに校庭に集まっていた。正陽も校庭にむかって歩きながら周囲を軽く見回してみるが、涼介の姿はない。そのままぼんやりと立ち尽くしていると、ジョリーこと常利先生が拡声器をもって生徒に声をかけはじた。
「授業は中止! 礼拝堂には近づくな。今すぐ自宅で待機ー!」
そのとき、空中を旋回するヘリの音が拡声器の声をかき消した。ジョリーが眉を潜めて頭上を見上げるのを見て、正陽も視線でヘリを追う。
――校舎の上空にヘリはやりすぎじゃないか?
おそらくテレビの報道なのだろう。騒音を撒き散らしながら他人事のように旋回している。視線をジョリーの方に戻したとき、こちらを見ていた彼とふと目が合った。拡声器を口元から外しながらジョリーは正陽に向かって歩いてくる。
「南見、ちょっとだけ話せるか?」
正陽がうなずくと、
「じゃあ教室で少し待っててくれ」と言い残し、拡声器で生徒を誘導する仕事に戻っていく。
(いったい、何が起こってるんだ?)
正陽はバッグを持ち替えて肩をすくめた。
(先生が僕の話を聞きたいって言うなら、僕も先生に聞くか……火事のこと)
*
教室はしんと静まり返っている。
明るく広い部屋に自分だけというのも心細いものだ。
「待たせたな、南見」
ジョリーは前のドアから顔を覗かせると、少し離れた椅子に腰掛けた。
「校長から事情を聞いてこいと言われてね」
「事情聴取ですか」
冗談めかして言うと、ジョリーは乾いた声で笑った。
「真面目な話、校長自身が警察から事情聴取を受けているんだよ」
「どうしてですか」
「正確なことはわからない。おそらくは昨日の火事に疑わしき点があった、ということだろうな」
「疑わしき点って……放火ってことですか?」
ジョリーは無言で青い顎をこすった。
肯定、と捉えてよいのだろうか。
「誰か、亡くなったとか?」
「いや、それはない。深夜で無人だった礼拝堂が焼けただけだ。地下から出火したようなんだが、燃えるものが少なかったのが幸いした」
「地下……」
東夜のことが脳裏をちらついて、ゆっくりと目を閉じる。
あの思い出の場所が焼けてしまった――
「昨日礼拝堂で事件があっただろ。ワインがぶちまけられたっていう。あのとき、なにか気づいたことはないか? 怪しい人を見たとか」
それが本題か。
正陽はようやくジョリーの意図を理解した。
「気づくも何も。即気絶だったんですよ、弱い体質みたいで……」
「そいつは気の毒にな」ジョリーは哀れみの視線を向けてくる。「つまり何も見なかったと」
「ええ。見てません」
正陽はジョリーの方をまっすぐと見据えて、強くうなずいた。
「あ。しいていえば、バナナの香りが少し――したような」
「バナナの香り?! まさか……ナ」
「ナ?」
ジョリーは口を押さえ、大げさに身体を大きく後ろに引いた。しばらくその状態で静止していたが、何かに気づいたように目を見開く。
「ミラー先生……」
声の向かう先は、正陽の肩越しの背後五メートル。振り向いた瞬間、ドアの近くに立っていたミラー先生がにっこりと微笑む。
「ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなかったんだけど」
どうも白々しい。
正陽が無言で睨み返すと、冷静さを取り戻したらしいジョリーが口を開いた。
「彼の担任は私です。あまりちょっかいを出さないでいただきたい」
「別にちょっかいを出す気なんてないわ。私は私で、生徒の飲酒疑惑を調べろと校長から言われているの。それにしてもバナナの香りなんて……うふふ」
「何がおかしいんです?」
「南見くんは、あれがボジョレー・ヌーヴォーだったとでもいうつもり?」
(ボジョレーヌーヴォー?)
頭に疑問符が沸いた正陽のかわりに、ジョリーが答えた。
「今は夏ですよ? ボジョレー解禁はまだ先では」
「そのとおり。この時期、ボジョレーは逆に手に入りづらいからあり得ません。そもそもあのワインからは、ボジョレー・ヌーヴォーを作る葡萄、ガメイの匂いは一切しませんでしたわ」
「匂いだけでわかるんですか?」
「もちろん。あれはピノ・ノワールで間違いありません。ロマネ・コンティの葡萄と言ったらわかる?」
南見はうなずいた。ロマネ・コンティは未成年の自分でも聞いたことがある、有名なワインだ。
「でも高いんでしょう、ロマネ・コンティとやらは」
「そう。床に飲ませるなんてありえないと断言できるほどにね。昨日のワインはもっと大衆的――せいぜいカリフォルニア産ってところ。そのへんのスーパーにもあるぐらいだから、購入者を特定するのは難しそうね」
ほう、とジョリーは感嘆の声を漏らす。
「ずいぶんお詳しいんですね」
「ええ、教師でなければ、ソムリエになっていたかも」
ミラー先生はにっこりと微笑みながら顔を傾けた。
「何がいいたいかというと、『バナナの香り』なんてとっさにつく嘘にしては稚拙すぎるってこと。あなたの生徒は本当のことを言っていると思いますわ、常利先生」
それを聞いて、正陽は思わず椅子から立ち上がった。
「僕の言っていることが嘘だと……ひょっとして僕を疑ってますか?」
ジョリーもあわてた様子で立ち上がる。
「そんなつもりはない、純粋に話を聞きたかっただけだ」
「でもこんな風に呼び出されたら、疑われているのと同じです! 僕は飲酒なんてしてない!」
(ちくしょう!)
正陽は机を拳で叩きたい衝動に襲われた。先生の前でなかったならば、間違いなく実行していただろう。
「先生たちが疑うんなら、僕は自分で身の潔白を証明します!」
正陽は傍らに置かれたカバンをすばやく拾い上げると、身を翻して教室の外に駆け出した。
「南見! 南見!!!」
廊下を走れば走るほど、ジョリーの声がどんどん遠ざかっていく。息を荒げながら、正陽は心の中で強く叫んだ。
(いったい誰がやったんだ……絶対に犯人を見つけてやる!)




