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第108話

 最初の異変は、十六夜が弟のお見舞いに行く途中で起きた。


 駅前を歩いていた七星は、


「十六夜!」


 不意に十六夜の手を掴むと、その場を飛び離れた。


「七星君?」


 戸惑う十六夜の目の前に、飲食店の看板が落下したのは、その直後だった。


「大丈夫か、十六夜?」

「う、うん。ありがとう、七星君」


 七星のおかげで無傷だっだものの、そうでなければ看板は十六夜に直撃しているところだった。


「危ねーな、たく」


 七星は、店の管理不行き届きにムカつきこそしたものの、このときは偶然の事故としか思ってなかった。

 そして病院に着いた2人が弟の病室に向かうと、そこには九十九の他に同年代の少女の姿があった。


「お邪魔しちゃったかしら?」


 十六夜は遠慮がちに女の子を見た。


「そんなことないよ。あ、紹介するね。この娘は花宮咲ちゃん。隣の病室の娘なんだけど、この前友達になったんだ」

「よろしく、花宮さん。弟と仲良くしてくれてありがとうね」

「花宮咲です。よろしく」


 そう会釈した少女の目は、両方とも閉じられていた。


「驚いた? でも咲ちゃん、目は見えなくても凄いんだよ。どこに何があるとか全部覚えてるし、記憶力はもしかしたらお姉ちゃん以上かもしれないよ」

「そうなんだ」

「じゃあ、姉さんも来てくれたことだし、皆でゲームやろうよ」

「え? でも、花宮さん、目が」


 十六夜は気遣わしそうに花宮を見た。


「大丈夫だよ。そりゃ、TVゲームとかは無理だけど、盤ゲームとかトランプの神経衰弱とかなら。言ったろ、美姫ちゃん、記憶力が凄いって」

「そうなの、花宮さん?」

「は、はい、駒の移動先を教えてもらえれば」

「そう、本当に凄い記憶力なのね」


 十六夜に誉められた花宮は、照れくさそうに頬を赤らめた。


「駒の移動は、ボクと姉さんでやればいいし。ね、やろうよ、姉さん」

「そうね」


 十六夜は七星を見た。すると七星は、今日も早々に熟睡していた。


 その後、十六夜たちは神経衰弱や将棋で遊んだが、そのすべてで花宮がトップだった。


「本当に凄いわね、花宮さん」

「咲でいいです。それに凄くもないです。こんなの、自然と身に付いただけですから。そうしないと、暮らしていけないから……」

「……咲ちゃん」

「ご、ごめんなさい。わたし、つまらないこと言って」

「ううん、こっちこそ、ごめんなさいね。何も知らずに、無神経なこと言っちゃって」

「そんなことないです。お姉さんが誉めてくれて、凄く嬉しかったです。わたしにできることなんて、これぐらいしかないから……」


 花宮は、ぎこちなく笑った。場の空気が再び重くなったところで、


「ふあーあ」


 七星が目を覚ました。時計を見ると、すでに5時を過ぎていた。


「それじゃ、お姉ちゃん、そろそろ帰るね。また来週来るから」

「うん、待ってる。でも、無理はしないでね、お姉ちゃん」

「大丈夫よ。じゃあ、美姫ちゃんも元気で。これからも九十九と仲良くしてあげてね」

「はい、お姉さんもお元気で。今日は一緒に遊べて楽しかったです。どうも、ありがとうございました」

「こちらこそ」


 十六夜は弟たちと笑顔で別れた。


 そして第2の異変は、その帰り道で起きた。


 十六夜が歩道を歩いていると、駐車場から乗用車が飛び出してきたのだ。

 今回も寸前で七星が助けたものの、そうでなければ十六夜は完全に撥ねられているところだった。とはいえ、ここでも2人は単なる乱暴運転としか思っていなかった。

 しかし十六夜の周りでは、その後も自転車との衝突未遂や野犬の襲撃など、アクシデントが相次いだ。


 そのひとつひとつは、確かに誰にでも起こり得る、些細な事故に過ぎなかった。しかしそんな些細な事故も、これだけ度重なると、偶然だけで片づけるのは無理があった。


 幸い、ここまでは十六夜も無傷で済んでいたが、これから先も無傷で済む保証はどこにもないのだった。


「おい、ドS女」


 木曜日の夜、七星は夕食の席で静火に話しかけた。


「今度の対戦相手の住所わかるか?」

「それは調べればわかりますが、知ってどうするつもりです?」

「決まってんだろーが。今度は、こっちから仕掛けてやるんだよ。偶然の事故ってやつをな」


 七星の目は本気だった。


「黙ってりゃー、どこまでも調子に乗りやがって。殴ったら殴り返されるってことを、ラッキーガールに思い知らせてやんよ」

「ダメだよ、七星君。まだ幸さんの仕業だって、決まったわけじゃないんだから」


 十六夜は必死に引き止めた。


「この状況下で、他に誰がいるってんだ?」

「ほ、本当に偶然だって可能性もあるし」

「あるか」


 七星は十六夜の意見を一蹴した。


 この4日で、十六夜の周りで起こった事故は、大小合わせて20を超える。これだけの事故が偶然に起こるなど、誰が考えてもありえないことだった。


 十六夜がケガで出場できなくなれば、幸は不戦勝で勝ち上がれる。確実に勝ち上がるために、対戦前の十六夜を襲うことは十分考えられることだった。実際、幸の1回戦は不戦勝だし、2回戦も改めて見直してみると、田沼の頭には包帯が巻かれていた。


 問題は、あるのが状況証拠だけで、決定的な証拠がないことだった。そして、そう思えばこそ、七星も今日まで我慢してきたのだが……。


「くそ、あのとき看板調べてれば、何か物証が手に入ったかもしれねーのに」


 七星は悔しそうに舌打ちした。


「七星君、いくらなんでも考え過ぎだよ」

「いえ、その可能性は十分考えられます」


 静火が言った。


「あなたがたには黙っていましたが、この大会ではセレブの間で、誰が勝つかの賭けが行われているのです。ですから、自分が賭けた選手を勝たせるために、その手の刺客を雇う人間が現れたとしても、なんら不思議ではありません」

「ありそーな話だな」

「今回の件については、確かに不審な点もありますので、すでにこちらで調査を始めています。明日にも結果が出るはずですから、それまで軽はずみな行動は控えてください」

「まーいーけどな。でも、だとしたら、これから先も十六夜を無駄に外出させるのは考えもんだな。ドS女の話が本当だとすると、たとえ今回の件が片付いたとしても、いつ十六夜が狙われるかわからねーってこったからな。それこそ狙撃でもされた日には、防ぎよーがねー」

「いくらなんでも、そんなこと……」

「いえ、十分考えられることです」


 静火の声に、今までにない力強さが込もった。


「それに、十六夜さんが外出しないとわかれば、賊を装って襲撃をかけてくる可能性もあります」


 静火は常盤を見た。


「旦那様、襲撃される可能性があるとわかった以上、ここにこのまま旦那様を住まわせておくわけにはまいりません。すぐにホテルを手配しますので、事が済むまで、旦那様はそちらでお休みになってください」


 静火はそう言うと、さっそくホテルに電話をかけた。


「七星君、わたくしは旦那様をホテルに送り届けてまいりますが、あいにくと北海道のホテルしか予約が取れませんでした。ですので、今夜は帰れないと思います。この館のセキュリティは万全を期しておりますが、万が一ということもあります。もし、その場合は逃亡を許可します。そのせいで、最悪この館が全焼することになったとしても、それはそれで致し方ありません」


 静火の話を聞いて、常盤が飲んでいたワインを吹き出した。


「何言ってるの、静火君!? この家には、僕の大事なコレクションが山ほどあるんだよ!? そんなことになったら、その子たちまで灰になっちゃうじゃないか!」

「常盤家の名誉を守るためです。お諦めになってください」

「いらないから! そんな名誉いらないからあ!」


 常盤は泣き叫んだが、静火は聞く耳を持たなかった。


「では、まいりましょう、旦那様」

「待って! そうだ! ホテルに行くなら、十六夜君を行かせればいいんだよ。そうすれば、万事解決だ」

「それでは、世間に常盤家のセキュリティに不安があると受け取られかねません」

「その理屈だと、私が逃げても同じじゃないか!」

「違います。旦那様だけであれば、北海道に急な用事ができたと言えば、皆も納得なさいますので」

「だいたい、どうして北海道なの!? ホテルなんて、北海道じゃなくても、東京にいくらでもあるじゃないか!」

「申し上げたはずです。あいにく、どこも満席だと」

「どこもって、電話かけたの1件だけだったよね!?」

「いつ何があるかわかりませんので、日本のホテル事情は、すべて事前に把握しておりますので」

「じゃ、じゃあ、あの子たちを一時的に安全な場所に非難させよう。1時間もあれば、すべて移動させられる」

「そんな時間はありません。今このときにも、賊は侵入してくるかもしれないのです」


 静火は常盤の手を取ると、無理やり駐車場へと引っ張っていった。


「やめてえ! 離してえ! ボクのコレクションが燃えちゃううう!」

「ご心配には及びません。この館のセキュリティーは万全ですので、賊が屋内まで侵入してくる可能性は「ほとんど」ありませんので」

「どうして、そこで「ほとんど」を強調するの!? てゆーか、本当に大丈夫なら、僕が逃げる必要だってないじゃないか!」

「それは申し上げた通り「万が一」のことが起きた場合に備えてです」

「だから、どうして「万が一」を強調するの!?」

「さあ、まいりましょう、旦那様」


 静火は常盤を助手席に押し込むと、


「いやあああああああ! 僕のコレクションがあああ!」


 泣きわめく常盤を無視して、車を発車させたのだった。


「七星君、わたしたちは、どうすれば……」


 2人もいなくなった後の常盤邸で、十六夜は不安そうな顔を七星に向けた。


「どーする必要もねーよ」

「え?」

「さっきはあー言ったが、あれはあくまでも可能性の話に過ぎねーし。だいたい、マジで刺客雇っておまえを襲わせるなんて、デメリットのほーがでかいだろ。そんな真似して、もしバレたら失格になるし、下手に常盤家を怒らせたら不老不死の恩恵にも与れなくなるかもしれねー。この大会の裏で、いくら金が動いてんのか知らねーけど、そんなリスク冒してまで寝こみ襲いにくるとは思えねーよ」

「そ、そうだよね」

「けど、まー、そーだな」


 七星は龍華を見た。


「とりあえず、お嬢様は実家に帰ったほーがいーかもな。万一の場合、ここにいたら、とばっちり食うことになりかねねーし」

「冗談じゃありませんの。龍華家の次期当主として、敵に背など見せられませんの」


 龍華は断固として拒否した。


「それにお父様からも「十六夜さんに勝つまで帰って来るな」と、きつく言われておりますの」

「しゃーねーな。じゃあ、お嬢様には十六夜と一緒に寝てもらおーか。そのほーが何かあったとき動きが取りやすいし、部屋に襲撃者が忍び込んだ場合でも、2人なら対処のしよーもあるからな」

「結構ですの。庶民に命令されるのは不本意ですけれど、この場合仕方ありませんの」

「十六夜もいいな?」

「う、うん」

「よし。じゃー、オレは夜まで1階で侵入者が来ねーか見張った後は、お前らの部屋の前で寝ることにする。そのほーが、何かあったとき、すぐに駆けつけられるからな」

「そんなこと言って、寝こみを襲う気じゃありませんの?」

「しねーし。つーか、そんな真似しよーと思えば、今までいくらでも機会はあったろーが。それこそ作戦会議中は、ずっと十六夜と2人っきりだったんだし。だよな、十六夜」

「う、うん。そう…だね」


 十六夜は伏し目がちにうなずいた。


「……まあ、いいですの。わたくし、龍華家当主のたしなみとして格闘技も学んでおりますし、襲ってきたとしても返り討ちにすれば済むだけの話ですの」

「だから、しねえっつってんだろーが」


 七星は不本意そうに言うと、食べ終えた食器を台所に持っていった。

 そして入浴後、十六夜と龍華は七星に言われた通り、一緒に十六夜のベッドで横になった。


「十六夜さん」


 4日ぶりに高級ベッドで横になった龍華は、天蓋を眺めたまま十六夜に声をかけた。


「はい?」

「あなた、あの下僕のことが好きなんですの?」

「え!?」


 突然、予想もしなかった質問を投げかけられ、十六夜は動揺を隠しきれなかった。


「図星ですの。まあ、人の嗜好はそれぞれですけれど、あまりいい趣味とは言えませんの。今からでも、考え直したほうがいいんじゃありませんの?」

「そ、そんなこと……」


 十六夜には考えられないことだった。


「それに、七星君がわたしのことを、どう思っているかも、わからないし。基本的に、他人のことに興味のない人だから」

「わかりませんの。それだけ甲斐性なしだとわかっていて、どうして好きでい続けられるんですの? あなたは、わたくしほどではありませんが見栄えがしますし、その気になれば男など、より取り見取りですの。あんな甲斐性なしにこだわる必要なんて、どこにもありませんの」

「……七星君には、これまで何回も助けられてきたんです」


 十六夜が最初に七星に助けられたのは、彼女が幼稚園のときだった。


「わたしが他の男の子たちにからかわれているのを見て、その子たちを止めてくれたんです」


 このときのことを、十六夜は今でも鮮明に覚えていた。もっとも、それは彼女だけで、七星のほうは幼稚園で十六夜と同じクラスだったことすら覚えていなかったのだが。


「その後も何度も助けてくれて。だから、わたしにとって七星君は、感謝してもしきれない恩人なんです」

「……つまり、あなたにとって、あの甲斐性なしは、自分が困っていると助けに現れてくれる、白馬の王子様というわけですの」


 龍華に改めて言われた十六夜は、恥ずかしさに頬を赤らめた。


「まあ、あなたが誰を好きになろうと、わたくしには関係ない話ですの。ただ、色恋にうつつを抜かして、万が一にも後れを取るようなことがないよう、一言言っておきたかったんですの。なにしろ、まぐれとは言え、あなたはわたくしに勝ったんですの。そのあなたが、そこらの雑魚に負けてしまったのでは、わたくしが困るんですの。そのことを忘れないでくださいましの」

「……はい」

「結構ですの。では、おやすみなさいですの」


 龍華は目を閉じ、


「はい、おやすみなさい」


 十六夜も眠りについたのだった。


 そして一夜明けた正午過ぎ、静火が常盤邸に帰ってきた。


「やっと戻ってきやがったか」


 報告結果を待ちわびていた七星は、さっそく静火に詰め寄った。


「で、調査結果は? 証拠は見つかったのか?」

「いいえ。調査の結果、幸恵さん側から、一切不正行為は見つかりませんでした」

「なんだと!?」

「信じられないかもしれませんが、今回十六夜さんの身に起きたことは、本当に、すべて不慮の事故なのです」

「事故? あの看板や犬が襲ってきたのもか?」

「そうです。それに幸さんの1、2回戦の相手のことも調べましたが、どうやらこちらも本当に事故だったようです。1回戦の相手は、単なる寝坊。2回戦の相手も、自分で階段を踏み外したとの証言が取れました。もっとも1回戦の選手については、なぜかその日に限り、目覚ましが正常に機能しなかったそうですが」

「…………」

「つまり今回の1件に関して、幸さんには一片の非もないということです。そして非がない以上、当然処分の対象ともなりません」


 その調査結果は、七星にとって到底納得できるものではなかった。しかし今さら調査をし直す時間はなく、またその根気もなかったため、渋々引き下がったのだった。


 そして、その後も極力外出を控えた十六夜は大きな事故に遭うこともなく、なんとか無事に試合当日を迎えることができたのだった。





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