同担歓迎派と同担拒否派の溝は深い②
「何をやってるんだ」
背後から呆れたような声が聞こえて、あわてて振り向くと、着替えた吹田さんが近寄ってきた。
黒縁眼鏡と長袖のボタンダウンシャツとチノパン姿で、たぶん今まで見た中で一番ラフな格好だけど、それでもおぼっちゃま風な雰囲気はあるのがすごい。
……あれ?
「シャワーしたんですか?」
オールバックにして固めてあった前髪が、ふんわりおろされてる。
着替えにいってから五分ぐらいしか経ってないはずなのに、素早すぎない?
「着替えのついでに軽く流しただけだ」
私、着替え抜きでもシャワーに十分はかかるんだけど。
男の人はお風呂でもシャワーでも早いのは、お父さんで知ってたけど、吹田さんも早いなあ。
目の前まで来た吹田さんをまじまじ見ると、髪はまだちょっと湿ってた。
うーん……。
「なんだ」
「前に何かで【濡れ髪の男性はセクシー】っていうのを見たことあるんです。
でも私が直に見たことある濡れ髪の男性って、父だけだったので、疑問に思ってたんですけど。
今の吹田さんを見て、なんか納得できました」
吹田さんの髪は私より艶があって、濡れてしっとり感が増してる。
【セクシー】っていう感覚自体なじみがないから、ほんとにそうなのか微妙だけど、たぶんこんな感じだよね。
「髪にさわってもいいですか?」
「……ああ」
「ありがとうございます」
一応許可をもらってから、手を伸ばす。
そういえば、吹田さんはしょっちゅう私の頭を撫でるけど、私が吹田さんの髪にさわるのは、初めてかも。
指先でそっと前髪を撫でてみる。
「わー、やわらかーい……」
吹田さんの髪は、まっすぐなのに適度なやわらかさとしなやかさがあった。
うーん、これは髪質の違いなのかな、それともシャンプーとかのヘアケア用品の質の違いなのかな。
軽く指にからめると、するんと逃げていく。
もう一度からめても、するん。
もう一度からめても、するん。
なんかこれ、クセになる。
「……そんなに気に入ったのか?」
何度も何度もくり返してると、吹田さんが呆れたようなカオで聞いてくる。
さすがにしつこかったかな。
でも、手を離せない。
「なんか、イイんです。
濡れてるから、気持ちいいんでしょうか」
ずっとさわってたい感じ。
「……………………どうだろうな」
吹田さんはゆっくり言いながら、遠くに目を向ける。
ん? なんだろ。
「お茶が入りましたよ」
背後から声がして、びくっとして振り向くと、トレイを持った朱音さんがダイニングテーブルの横に立ってた。
あれ、いつの間に。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ、ミケさんはこちらにどうぞ」
「はい」
朱音さんが手の平で示した席に座ると、目の前に茶托に載せた湯呑みが置かれる。
隣に座った吹田さんの前にも置くと、朱音さんは一礼してキッチンに戻ろうとした。
「待て。
結婚後の家事について相談したいことがあるから、おまえも座ってくれ」
「かしこまりました」
戻ってきた朱音さんは、トレイを置いて私の前に座った。
「以前も言ったが、改めて言う。
俺達は来週末に結婚する予定だが、同居は来年三月末からになる。
三月まではここで俺の、同居を開始以降は新居で俺達の世話を頼む」
吹田さんの言葉に、朱音さんは姿勢を正して頭を下げる。
「謹んでお引き受けいたします」
「ありがとう。
勤務条件などは改めて契約書を作成する。
基本的には、今までと同様に洗濯、掃除、夕食の準備と片付けが主な仕事になる。
だが、一番重要なのは家事ではなく美景の相手だ」
え、私?
びっくりしたけど、とりあえず続きを聞く。
「美景が帰宅したら、俺が帰宅するか美景が寝るまで共にいてやってほしい。
美景はずっと実家で母親と暮らしていたから、家で一人ですごすことに慣れていない。
安全の為にも、そばにいてやってくれ」
あ、そうか、お母さんのかわりをしてもらうって話だった。
「承知いたしました」
もう一度頭を下げた朱音さんは、私を見て微笑む。
「私がお母様のかわりでは力不足でしょうが、おそばにいさせてくださいね」
「あ、はい、助かります。
でも、あの、それだと拘束時間が長くなっちゃいますけど、大丈夫ですか?
さっきも言いましたけど、私はほぼ家事出来なくて、丸投げになっちゃうと思うので、朱音さん一人では大変だと思うんです。
和裁のお仕事もあるし、自由時間がなくなっちゃいませんか?」
でも、私もやる、とは言えない。
よけいな手出しして、逆に手間取らせちゃいそう。
「和裁の仕事は家族からの依頼しか受けておりませんし、納期はあってないようなものですから、毎日自分のペースで進められます。
今でも家事にかかる時間は毎日三時間程度ですし、問題ございません。
一人ですごす時間が減るのは、私にとってもありがたいことです」
「え、そんなに短時間なんですか?」
少なくとも半日はかかると思ってた。
「はい。
掃除は、毎日していれば汚れが溜まらないので、すぐ済みます。
洗濯は、最新式の洗濯機が乾燥まで自動で終わらせてくれるので、畳んで片付けるだけです。
料理は、時短できる便利な道具が色々ありますし、姉や自分の分も一緒に作っていますから、一食分当たりの時間はたいしてかかっていません」
朱音さんは、静かな口調で説明してくれる。
「それに、全て私だけでやっているわけではございません。
食材や日用品は玄関まで配達してもらいますし、本格的な清掃は専門業者に半年に一度依頼していますし、吹田様や姉のスーツやシーツなどの大物はクリーニング店に頼んでいます。
ミケさんは、ご自分が手伝えないことを気になさっているようですが、得意な者に任せる、あるいは外注に出すと思ってみていただけませんか」
「そうだ。
そもそも家政婦として雇用して家事を頼むのだから、信頼して任せておけばいい」
吹田さんにも言われて、ようやく納得する。
そっか、家政婦さんなんだから、家事を任せるのは当然だった。
吹田さんちの元使用人ってイメージが強かったから、なんか無理させてる気がしてたけど、正式な雇用契約なら口出しするのが間違いだね。
……あれ、でも。
「そうすると、むしろ私の相手をしてもらうほうが、家政婦としてはイレギュラーなお仕事なんじゃないですか?」
「常に一緒にいろというわけではない。
共に食事をした後は、おまえが相手を望まなければ、朱音にはリビングで自由にすごしてもらう予定だ。
おまえは今でも実家で母親と夕食を食べた後は、一緒にテレビを見たりお互い自分の部屋ですごしたり、自由にしていると言っていただろう」
「あー、まあ、そうですね、お互い好きなようにしてますね」
うーん、それなら朱音さんの負担は少ない、のかな?
「今決めているのは、あくまで方針だ。
試してみてうまくいかなければ、話し合って改善していけばいい」
それもそうか。
「わかりました、よろしくお願いします」
ぺこっと頭を下げると、朱音さんは嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
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お茶を飲みながら雑談した後、おかわりを淹れてから、朱音さんは隣の自分の部屋に帰っていった。
「次は、俺とおまえで相談したいことがある」
「はい、なんですか?」
「見てもらいたいものがあるから、少し待っていてくれ」
「はい」
吹田さんは奥の部屋に行って、大きめの封筒を持ってすぐ戻ってくる。
私の向かいに座ると、封筒を開けて中身を私の前にさしだした。
「婚前契約書と、俺の財産目録だ」
ん?
「最終的には弁護士に依頼して正式な文書にするが、これはまだ素案だから、希望があれば遠慮なく言ってほしい」
「……えーっと、まず『婚前契約書』ってなんですか?」
どっかで聞いたような気もするんだけど、なんだったっけ。
「簡単に言えば、結婚後の生活についての考え方やルールをまとめたものだ。
他に、共有財産の扱い方や、万が一離婚することになった際の条件などを協議しておくことで、トラブルを減らす目的もある。
海外では一般的だが、日本ではまだあまり知られていないようだな」
「……あー、そういえば、テレビのワイドショーで、海外セレブの離婚問題をやってる時に聞いた気がします」
そうだ、結婚前から離婚する時のこと考えとくのすごいなって思ったけど、実際離婚することになってモメてるんだから、必要なんだなって納得したんだった。
「念の為に言っておくが、いずれ離婚しようと思っているから協議する、という意味ではない。
だが、俺がおまえの為に出来ることを可能な限り盛りこんでおいた。
おまえへの誠意の表れなのだと思ってほしい」
「あー、そこは疑ってないんで、だいじょうぶです。
えっと、とりあえず見せてもらっていいですか」
「ああ。ゆっくり見てくれ」
吹田さんは、ちょっとほっとしたように言う。
あれだけ溺愛されてて、早く結婚したいって言われてるのに、離婚されるかも、なんて考えは浮かばないよね。
内心苦笑しながら、まずは婚前契約書を手に取る。
ぺらっと表紙をめくると、細かい字でびっしり書かれてた。
うーん、ワードのMS明朝かな。
字が細かい契約書とかは、見にくいからゴシックか教科書体にしてほしかった。
大きめの字になってる見出しだけをざっと見ていっても、【家事について】【育児について】【親族とのつきあい方について】【生活費について】【財産について】【離婚について】ともりだくさん。
数枚に渡ってびっしり書かれた項目は、読みこむのにかなり時間がかかりそう。
吹田さんは『誠意の表れ』って言ってたけど、重いなあ。
「……全部読むのは時間かかりそうなんで、持って帰っていいですか?」
「かまわない」
「ありがとうございます。
で、えーと、こっちの財産目録は、どう使うものなんですか?」
「基本的には、婚前契約書の財産分与等に関する項目に付随するものだ。
だが、俺に何かあった時に、出来る限りのものをおまえに残せるようにする為にも、まとめておいた」
静かな説明にちょっとむっとしたけど、我慢する。
吹田さんが常に最悪の事態を想定して先回りして動こうとするのは、いつものことだし。
警察の仕事は、一般のサラリーマンよりはるかに危険だから、突然の別れが来ることは、考えたくないけどありえなくはない。
考えたくないけど。
考えたく、ない、けど……。
「……どうした」
困ったような声の問いかけに、うつむいてぎゅっと唇を噛む。
「美景」
ダメ、今声を出したら、絶対よけいなこと言っちゃう。
吹田さんの目標に、覚悟に、水を差すようなことは言いたくないし、言っちゃいけない。
だから、我慢しなきゃ。
「……美景」
ゆっくり立ちあがった吹田さんは、テーブルを回って私の横に立つ。
ふんわり抱き寄せられて、吹田さんの胸元に顔を押しつけた。
「すまない。
おまえを悲しませたいわけではないし、置いていきたいわけでもない。
それでも、おまえより先に死なないとは、約束できない」
静かだけどきっぱりとした言葉は、吹田さんらしいまじめさだった。
「…………わかって、ます」
吹田さんの腰に腕を回して、ぎゅっと抱きつく。
「そこで、『絶対にひとりにしない』なんて、守れる保証のない約束をしない吹田さんだから、好きになったんです。
でも、……私は、シロさんほど強くないから、……不安になっちゃうのは、許してください……」
シロさんみたいに、何があっても吹田さんを信じてついていくって言えるほど、私は強くない。
「許しを請わなければならないのは、俺のほうだ。
おまえを幸せにしたいと思っているし、その為の努力は惜しまないが、おそらく不満を持つことも、不安になることも多いだろう。
以前おまえが言っていたように、本当に愛しているなら身を引くべきなのだろう。
それでも、俺はもうおまえを手放せない。
ずっと俺のそばにいてほしい」
まるで祈るような、せつない声に、抱きつく力を強くする。
「私だって、吹田さんが好きで、一緒にいたいから、プロポーズオッケーしたんです。
いまさら、やっぱりやめようなんて言われたって、やめてあげませんから。
高いものは苦手とかワガママ言って、キャーキャーはしゃぎながらカワイイもの見せて、美味しいもの食べて一口ちょうだいってねだって、吹田さんを振り回しちゃうんですから。
覚悟しといてくださいね」
わざと軽い口調で言うと、吹田さんはくすっと笑った。
「ああ。望むところだ」




