契約書は隅々まで読むべし①
家に帰って、お母さんとばんごはんを食べて、お風呂に入る。
いつも通りにすごしてるつもりでも、十時が近づくと、ドキドキしてきた。
そういえば、吹田さんと電話で話すの、初めてかも。
吹田さんの声って、静かなのに芯が強くて、耳元で聞くとなんかおちつく感じ。
イケボってわけじゃないんだけど、心地いいんだよね。
これから、二日に一度は聞けるって、嬉しいな。
ベッドでごろごろしながら、十時になるのを待つ。
九時五十七分になったから、起きあがってベッドの端に座る。
スマホを両手で持って、じっと待ってると、だんだん緊張してきた。
画面を見ながら、小さくつぶやく。
「五、四、三、二、一」
スマホの時計が、十時ちょうどになる。
一呼吸分の間を置いて、着信画面になった。
「ひゃっ」
待ってたのに、びっくりしちゃって、スマホを落としそうになる。
あわててつかみなおして、通話ボタンを押した。
「はいもしもしっ!」
〔……叫ばなくても聞こえる〕
ちょっと不機嫌そうな声がして、思わず愛想笑いを浮かべる。
「すみません、あわてちゃって。
えっと、こんばんは。お疲れ様です」
〔……ああ。
今から一時間ほど話しても大丈夫か〕
「はい。
あ、あの、吹田さんの予想通り、カウンセリング後にケイコ先生が会いにきてくださったので、吹田さんとつきあうことになったって、話しました」
まずは頼まれたことをちゃんとやったって、報告しとかないとね。
〔……知っている。
夕方、主計課長代理がカウンセラーと共に会いにきた〕
「えっ」
なんで?
〔『本気でミケさんを恋人として扱うつもりがあるのか』と、しつこく聞かれたぞ。
いったいどういう話し方をしたんだ〕
あれ、不機嫌そうなのは、そのせいなのかな。
「どうって言われても、洗いざらい全部、ですね」
〔…………そうか。
真白から聞いたが、カウンセラーの女性はおまえの友人なのか〕
「はい。
初対面の知らない人なら、さすがに全部話すかは迷ったと思いますけど、友達だったし、吹田さんと買い物してることとかも知ってたので……。
でも私、『吹田さんの目的がなんだとしても、かわいがってもらえるならオッケーです』って、言いましたよ。
そしたらケイコ先生は、『だったら、外野がよけいな口出しすべきじゃないわね』って、おっしゃったんですけど」
なんでそんなことになったんだろ。
「あ、私が帰った後、詳しい報告をするって言ってたから、つきあうためのプレゼンとか回数交渉とかを聞いて、心配になったのかも?
ボンさん、カウンセラーの人が、『吹田さんのやり方が中途半端すぎて、意図がつかめない』とか言ってましたし」
〔……おまえの話ぶりでは、特別仲が良いわけではないようだったが、主計課長代理はずいぶんとおまえを気に入っているようだな〕
「そうですか?
優しくはしてもらいましたけど、特別扱いってわけじゃないらしいですよ。
他の人への対応を見たことないんで、どれぐらい違うかはわかりませんけど、公私ともにケイコ先生を支えてる執行部の人達に比べたら、私なんて大勢の信者のうちの一人ぐらいのはずです」
〔おまえがそう思っていても、向こうは違うようだ。
『ミケさんは恋愛初心者だということを、くれぐれも配慮してあげてほしい』と念押しされたぞ〕
「ケイコ先生が、そこまで……」
どうしよう、嬉しい。
理由はわかんないけど、とにかく嬉し~~!
〔……おまえの主計課長代理への心酔ぶりは、確かにファンというより信者だな〕
呆れたように言われて、強くうなずいた。
「そうですね、ケイコ先生は神様ですから」
〔………………そうか〕
ため息みたいな声で言った吹田さんは、しばらく黙る。
〔朝に言った、警察関係者以外の友達には、できる限り俺とつきあうことを話すなという件だが〕
「あ、はい」
〔カウンセラーの提案通り、しばらくは秘密にしておいて、話せることが増えてから伝える、という方針にしてくれ〕
あ、ボンさんが話してくれたんだ。
私では上手に伝えられるかわからなかったから、助かる。
「わかりました。
じゃあ、早速ですけど、一回目のデートって、いつしてもらえますか。
できれば今月中にしてもらえると嬉しいです」
〔……その相談の前に、確認したいことがある〕
「なんですか?」
〔おまえは、自分の月経周期を把握しているか〕
「げっけい?」
って、なんだったっけ?
…………あ。
え!?
な、んで、そんなこと、え、ええー!?
〔……ろ、美景〕
強く呼ばれて、パニクってた意識がちょっとだけ鎮まる。
「……ぁ、の」
だけど何を言ったらいいかわからなくて、あわあわしてると、ため息が聞こえた。
〔デリカシーがないと思うかもしれないが、逆に配慮するために聞いている。
朝に相談した時は一回目のデートを月初と想定したが、もしいつもその頃なら、結局毎回予定を変更することになるし、無理してでかけても楽しめないだろう。
体調不良の時期を避けて予定を組むために、教えてくれ〕
静かな口調で説明されたのは、納得できる内容だった。
確かに、そうなんだけど。
気遣ってくれるのは、嬉しいんだけど。
そんな話、お父さんともしたことないのに。
恥ずかしいよぅ。
何度も深呼吸して、気持ちをおちつかせる。
「……だいたい、月末、二十日から二十五日の間ぐらいから、一週間程度です」
〔周期は安定しているほうか〕
「……はい」
〔痛みはあるほうか。薬を常用しているか〕
「……多少は痛むけど、使い捨てカイロであっためたら、なんとかなるぐらいです。
薬は、すごくつらい時だけ飲みます」
〔耐えられなくて仕事を休んだことはあるか〕
「…………仕事じゃないですけど、大学生の頃に、一度だけ。
ほぼ徹夜で二日間イベントに参加した後で大学行ったら、予想より早く始まって、めまいと頭痛がひどくて動けなくなって、お母さんに車で迎えにきてもらって早退して、その後三日間寝こみました。
あ、最後に薬飲んだの、その時です」
淡々と質問されると、なんだかお医者さんと話してるみたいな気分。
それでも恥ずかしいけど、電話だからちょっとマシ。
〔それは、寝不足や疲労と重なったせいで悪化したということか〕
「そうだと思います。
お母さんに話したら、当たり前だってめちゃくちゃ怒られました」
始まるのは数日後のはずだったから、大丈夫だと思ったんだよね。
「それ以来、予定日の数日前からなるべく安静にしてすごすようにしたら、薬を飲まなきゃいけないほどつらくなったことはないです」
〔そうか。
だったら、当初の想定通り月初に一回目を設定してよさそうだな。
ただし、時期がずれたり、風邪などで体調不良の場合は、当日でも言え。
無理して来られて、介抱するはめになるのが一番面倒だ〕
「……はい」
そうだよね、忙しい中で時間作ってくれるんだから、会いたいからって無理につきあわせちゃダメだよね。
言い方は優しくないけど、はっきり言ってくれるのは助かる。
ほんと、エリートの気配りってすごいなあ。
……あれ。
「……もしかして、シロさんの周期も把握してるんですか?」
〔直接聞いたことはないし真白も言わないが、調子が悪い時は見ればわかる。
そういう時は、なるべく体を使う仕事をさせずに、定時であがらせるようにしている〕
やっぱり。
そっか、ずっと一緒にいるシロさんへの対応で慣れてるから、私にも気配りしてくれたんだね。
友達が大事にしてもらってるの、嬉しい。
「えーと、じゃあ、一回目の設定は月初として、時間は十時間でいいんですよね?」
まだちょっと残ってる恥ずかしさをごまかすように、話題を最初に戻す。
〔ああ〕
「ちなみに、時間のカウントってどうなるんですか?
たとえば、いつもの買い物の時みたいに、目的地で一時間以内に終わった時は、他のお店に行くとか、ぶらぶら歩くとかして、一時間になるように調整してもらえるんですか?
それとも、五分刻みぐらいでカウントですか?」
〔基本的には一時間単位での行動になるよう考えている。
……話がそれるが、先に言っておきたいことがある〕
「なんですか?」
〔あのクマのぬいぐるみの店には、俺が同行できない時には、絶対に行くな〕
「え……」
強い口調で言われて、びくっとする。
そりゃ、五回行ったうちで二回トラブルがあったし、昨日はすごく恐かったし、さすがに一人で行く気はないけど。
『絶対に』って言われる理由がわからない。
「危ないとこにあるのはわかってるので、一人で行く気はありませんけど……」
〔一人でも、友達とでも、やめろ。
立地だけでなく、店そのものにも問題がある〕
「店……?」
〔あの店を思い浮かべてみろ。
出入り口は一つしかなく、ドアは窓のないスチール製で、窓はあるが高い位置で、おまえでは手が届かない。
入ってすぐにデスクがあって、若い男の店員が座っていて、店内には物があふれて死角が多く、目的のものは店の奥の壁際にある。
他の客はほとんどおらず、店内には大音量の音楽が流れている〕
「……はい」
細かい説明に、頭の中にはっきりイメージが浮かぶ。
〔おまえが一人であの店を訪れて、他の客はいないとする。
ぬいぐるみを選んでいる間に、店員がデスクを動かしてドアを塞いで、背後にしのびよっていたら、おまえはそれに気づけるか?〕
「え……?」
しのびよる、って。
なんで?
〔ドアを塞がれたら、逃げ道がない。
大声を出したとしても、音楽がうるさくて外には聞こえない。
スマホを奪われたら、助けを呼ぶ手段がない。
男が力ずくで襲いかかってきたら、抵抗する手段がない。
だから、一人でも友達とでも、行くな〕
淡々とした説明は、かえって現実味がない。
「……でも、店員さんが、襲ってくるなんて、そんなこと」
〔店員が客を狙った事件は、いくらでもある。
あの店の店員にそういう疑いがあるわけではないが、店の構造そのものが危険だから、警戒しろと言ってるんだ。
あの店だけでなく、同様の構造の店も警戒が必要だ。
初めて行く店は、必ずドアを開けた時点で構造をチェックしろ。
問題があれば、中に入らずに引き返せ〕
うーん。
相変わらずの心配性だけど。
「今まで、そんなこと言ってなかったのに、なんで急に……」
〔今までは、誘われた時は偶然いつも都合がついたから、言わずにいた。
それに、たまに買い物する程度の仲では、そこまで行動に口出しできないと思っていた。
だが、恋人になったからには、はっきり言っておく〕
「ええー……」
『恋人になったからには』、なんだ。
〔なんだ〕
「今まで、身辺に気をつけろとか、男との距離感に気をつけろとか、色々口出しっていうか、心配してくれてましたよね?
すごい心配性なんだなって思ってたんですけど、吹田さん的には、あれでも抑えめだったんですね」
あれ以上となると、注意事項が増えすぎて、おぼえきれなくなりそう。
〔……口出ししすぎた自覚はあるが、おまえは警戒心がなさすぎる。
温室育ちでしかたないとはいえ、何かあった時に傷つくのはおまえ自身だ。
もう少し自衛することをおぼえろ〕
「はぁ……」
『温室育ち』って、高校の先生達によく言われたなあ。
『学校という温室の中では、あなた達はのびのび自由に生きられますが、外の世界はもっと厳しいんですよ』って。
でも私は大学も女子大で、職場では【同志】に助けてもらえて、ある意味温室のままきちゃってるから、外の世界の厳しさが実感できずにいる。
吹田さんは、その厳しさを知ってるから、心配してくれてるんだろうけど。
うーん。
「それじゃあ、疲れませんか?」
〔……どういう意味だ〕
「吹田さんは頭がいいから、いつも最悪の事態を想定して、そうならないような予防策とかを考えてるのかもしれませんけど。
いつもそんなにいろいろ考えこんでると、疲れちゃいますよ。
もっと気楽に、自分のやりたいように生きたほうが、人生楽しいですよ」
〔……………………〕
長い沈黙の後、深いため息が聞こえた。
〔おまえは、そういう性格だったな……〕
「そうですよー。
でも、心配してくれるのは嬉しいし、気をつけます。
何かあったら、シロさんだけじゃなくて、吹田さんも悲しませることになっちゃうんですよね?」
ハニトラ疑惑の時に、『おまえに何かあったら真白が悲しむから、身辺に気をつけろ』って言われた。
これからは、恋人の吹田さんも含まれる、はず。
〔そうだ。
何もないのが一番だが、もし何かあった時は、できる限り早く連絡しろ。
俺に連絡がつかない時は、真白でもかまわないから、とにかくすぐに連絡しろ。
わかったか〕
しつこいぐらいの念押しに、こっそり笑う。
ほんと、心配性だな。
「わかりました」




