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雪の陰翳  作者: 苳子
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第9章 8

 その夜、枳月にあてがわれた寝室を訪ねてきたのは霜罧だった。枳月は明日には王都に向けて発つ予定になっている。

 不意の訪問客に、彼は意外な顔はしなかった。むしろ予感が当たったように苦笑いした。


「私が来ると踏んでおられたようですね」


 挨拶もそこそこに、彼はにんまりと笑った。枳月は黙って苦笑いし、彼を部屋に通した。


「狭いですが」

「失礼致します」


 部屋は簡素な寝台と椅子だけという狭さだが、王都からの使者のためのものだけあり、暖炉が作りつけられている。火は小さいが、小さな部屋を暖めるには十分だった。

 枳月は寝台に腰を下ろし、霜霖には椅子をすすめた。霜霖は一言断って腰掛け、そっと枳月を見た。

 彼に変わった様子はない。今朝早くに訪ねた時は寝足りた風ではないくらいものだった。だが、主人である朱華の様子から何かあったのは確かだろうと踏んでいた。


「まずは今朝の話の続きです」


 まずはという言葉に、枳月が小さく苦笑いする。霜霖にも誤魔化すつもりはない。


「山岳地帯を活動の主にする部隊の設立の件ですが、珂瑛殿はなんと?」

「設立については賛成してくれました。ただ、行動は秘密裡でなければなりません。構成員の選定は慎重にした方がいいというのが、珂瑛殿の意見です。私も同意見です」

「それはそうですね。我々はいわば余所者ですから、列洪殿の力を借りた方がいいと考え、相談はしておきました」


 霜霖の先手に枳月は頷いた。苴州にきてまだ一年。苴州の支配層の上部に属す彼らは皆よそ者に違いない。それが大きな反発を受けずに済んでいるのは、偏に王女が臣籍降下したことによる。新たな苴葉公に従ってきた彼らは、領主の一部として受け入れられていると言っていい。


「何か良い案が?」

「古来より山岳地帯で狩猟を主としてきた民がいるそうです」

「〝山の民〟ですね。私が翼波の言葉を教えた伺見かきまみの中にもおりました」

「ご存知でしたら話が早い」


 霜罧はそう言って微笑した。


「彼らは翼波に深い恨みを抱いているそうですね」


 枳月は小さく頷き、そっと息を吐いた。


「翼波侵入の際、最初に犠牲になった民です。集落ごと滅ぼされた村も珍しくないとか。家族親族友人恋人を失った末に生き残った人々は、翼波と戦うためならどんなことでもするでしょう」


 それは、枳月の父である明柊の犠牲となった人々とも言い換えられる。それを知る霜罧は、しかし同情のいろを浮かべない。枳月はそのようなことはとっくに承知しているのだ。


「――こう言ってはなんですが、ものは使いようですね」


 霜罧は眉を顰めて小さく息を吐いた。彼ら山の民は当然ながら枳月の出自を知らない。枳月にも明かすつもりはない。彼らが最も憎む男の息子が、翼波と戦うための武器を教えている。真実を知ったとしたら、彼らはどんな選択をするだろうか。


「そう言っていただけると、かえって気が楽です」


 先ほどの霜罧の言葉が皮肉ではなく、枳月を慮っての言葉だということを、彼は承知しているようだった。枳月自身が自分の過去を武器とすることを選んだ以上、安易な同情はかえって彼を蔑むことになりかねない。


「……しかし、本当にこれで良いのですか?」


 霜霖は眉を顰めて問いかけた。枳月は薄く笑って首を振った。


「私にしかできないことです。翼波の言葉が流暢に話せ、山岳地帯の地図が頭に入っているのは私だけですから」

「しかし……」


 苴州軍の頂点には、正式に珂瑛が就任する方向で話が動き始めている。枳月は療養が長引き、軍の統率は難しいということに表向きはなっている。

 枳月がやろうとしていることは、女王の認可も下りているため、苴州だけの問題ではない。


「勿論、私だけでは意味がありません。微力に過ぎない。彼等に打撃を与えるためには、早急に数を増やさなければなりません」

「その点については異論はありません。だが、論点をずらそうとなさっても無駄ですよ、私は姫のように懐柔はされません」


 霜霖はにこりと微笑する。枳月は眉を上げて苦笑いした。


「霜霖殿を相手にそのようなこと。論点をずらしたつもりはなかっただけですよ」


 枳月は寝台に深く座り直すと、その背後の壁にもたれかかった。木材の軋む音が響く。


「殿下も以前より強かにおなりのようですね。はっきり申し上げなければ誤魔化されてしまうということのようですね。あなたがそこまで手を汚される必要がありますか? 彼等を自らの手で皆殺しになさりたいわけではないでしょう?」


 霜霖は真剣な顔で枳月を見つめた。枳月はそれに穏やかに微笑んだ。


「私にはそこまでの恨みはありません。私は加害者側ですからね――だからこそ、私が彼等の恨みを晴らさなけばならないのですよ。恨みを晴らせば罪を犯すことになる。自らの手で晴らしてこその恨みと考える人もいるでしょう――けれど、私はそれも見たくないのです。やはり、罪は人を傷つける……その代わりに、私が恨みと罪をかぶるつもりです」


 彼が最後に小さく息を吐いた。霜罧は思わず腰を浮かした。椅子ががたりと音を立てる。


「しかし、それはあなたの罪ではない。父親の贖罪なら、今なさっておられることで十分なはずです。何故、必要以上にご自身を堕とそうとなさるのですか!」


 霜罧は怒りに駆られて語気を荒げた。身分差を忘れて問いただしたくなる。そんな彼を枳月はどこか不可解そうに、けれど詫びるように見つめる。


「これは贖罪だけではありません――父の夢をかなえることでもありますから」


 夢をかなえるという言葉に、霜罧は毒気を抜かれたような顔をした。


「……夢、と仰いましたか」


 大きな違和感を伴う言葉でもある。彼のその表情と口ぶりに、枳月は小さく頷いた。彼を拍子抜けさせて、怒気を抜く目的もあったのだろう。


「正確には計画、目標というべきかもしれません――内乱を終わらせ、翼波の侵入による恐怖を葉全体に刻み込み、さらに東西の葉の間にくすぶり続けるであろう敵対心を共通の敵である翼波に向けさせることで、その一体化を加速させ、最終的には翼波をも滅ぼす」


 枳月は淡々と話す。霜罧は目を瞠り、まさかというように彼を見た。


「父からはっきりとそこまで聞かされたわけではありません……葉に帰り、その役に立てるように私を仕込んだということは、最終的な狙いはそこにあるのではないかという考えに至っただけです」


 静かな口ぶりで話す彼に、春先までの青年の面影はなかった。以前の彼は親の罪にただ押しつぶされそうになっていた。霜罧とて我が身のこととなれば平静ではいられないような大罪には違いない。記憶を取り戻した彼は、その罪悪感から逃げ出すように任務に赴いたようにも見えた。

 だが、今の彼はそれだけではないように感じられる。徒に親の罪の重さに喘ぐだけでなく、先ほど自分が言ったように強かさを増したような印象も受ける。


「それほどの規模の計画でしたか……」

「それでも、許されるわけではありません――幸い、私の役割は葉に害をなすことではない。その点、気は楽でもあります」


 枳月は静かに微笑む。霜罧は諦めと何かがよくわからないものが入り混じった溜息をついた。


「なにがおありになったのですか?」


 首を振りながら問うと、彼は「特に何も」と呟いた。それでも探るような眼差しを続ける霜罧に、彼は苦笑いしてみせた。


「ただの会話から思い至っただけのことです――特に何かあったわけではありません」

「会話、ですか」

「今回の任務の相方の算師さんしはちょうど王配殿下やあなたの父上……私の父くらいの年齢の男です。起居を共にしていれば、何気ない会話も増えます。話の経緯は忘れましたが、ある指摘をされたのですよ」


 枳月は記憶を探るように目を細めた。霜罧は黙って続きを待った。


「現状にただ苦しむのではなく、その真実を明らかにして認め受け入れ、その先どうすればいいのか考えれば、ただただ苦しいだけではないと」

「――枳月殿下……」

「苦しみから逃れようなどということは許されないのかもしれませんが――ただただ私が苦しんでだけではその先はない。それで終わりです……苦しみを活かす術があるなら、私はそうしたい」


 その口ぶりは穏やかだったが、霜罧は眉を顰めた。


「しかし、それでは殿下が救われるわけでは――」

「私は改めて父のしたことを考えました。そして、私に託されたものについても――そして、ようやく思い至ったのです。父がしようとしたことを。許されることではありませんが、もう起きてしまったことです。私にはどうしようもない……けれど、ここで私がそれを引き継がなければ、何のために父は罪を犯し、あれほどの人が命を落とすこととなったのか……無意味になってしまうとは言いませんが、やはり中途半端に終わらせるにはあまりに犠牲が甚大過ぎます」


 枳月は自問自答を繰り返すようにそこまで話すと、片手で前髪をあきあげた。人目を引いていた傷の残る顔の半分を隠すものはない。日焼けと無精髭が火傷のあとを誤魔化し、あとは前髪をおろしてしまえば以前ほど目を引くものではなくなっていた。

  

「父の意図は私に自分の犯した罪を償わせることではなく、計画の完遂ではなかったかと考えました。どちらであれ、結果は同じですが――他人ひとから聞く父の人物像からはそちらのほうが相応しいようにも思えます。罪を償うなどという殊勝な人ではなかったようですし」


 ちらりと苦笑を浮かべ、彼は壁にもたれて目を閉じた。


「そのためには私はどうすればいいか――ただ、それだけのことですよ」


 何かが一層悪くなっている気がして、霜罧は落ち着かない気分だった。ただ、何が悪いのかは咄嗟には分からなかった。


「この話は姫――公にもしたのです」


 不意の話題に霜罧は顔を上げた。枳月は特段含むところのない表情だった。


「あの方はご自分の無力さ無価値さに苦しんでおられる――そうではないにもかかわらず。けれど、それはご自分で何とかなさるしかないことでもあります。霜罧殿、あなたにもあなたなりの苦しみがある……苦しいのは私だけではありません」


 霜罧に感謝するように微笑むと同時に、それ以上の立ち入りを拒むような表情だった。霜罧は己の無力さに奥歯を噛みしめたが、結局それ以上のことはできなかった。


「……私にお力になれることはないのですね」

「それだけで十分です――私は霜罧殿、あなたに感謝しています……心の内を明かせるのはあなただけです」


 彼は霜罧に静かに微笑み、それから頭を下げた。霜罧はさらに無力感を噛みしめながら、しかしかける言葉も見つからなかった。


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