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雪の陰翳  作者: 苳子
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第9章 7

 枳月は公的には王都に滞在していることになっている。その彼を表立って探すことはできない。結局、朱華は彼を探すには霜罧を頼るしかなかった。

 霜罧は自分の忠告に従おうとしていることに満足そうに微笑み、彼は珂瑛のところにいるだろうと答えた。

 珂瑛は枳月の出自については知らないが、彼が帯びている役目については知っていた。本来、苴州軍全体を指揮するのは枳月のはずだった。それを彼は珂瑛に託し、療養と称して王都に戻ったことになっている。不在の間、そして今後について、二人には話し合うべきことがあるのだろう。

 夕刻の霜罧の講義を取りやめにして、朱華は先触れなしに珂瑛を訪ねた。前もって知らせてしまうと、彼に逃げられてしまうような気がしていた。そして、それは的中していたことを悟る。

 出入りの商人を装って、彼は珂瑛と二人きりで話し込んでいた。そこへ前触れもなく朱華が訪れたのだ。その時、彼の顔は明らかに動揺していた。明らかにしまったという表情かおをされて、朱華は思わず笑ってしまいそうになった。


「どうされた、姫?」


 枳月の前ならば取り繕う必要はないと、珂瑛は考えているようだった。朱華はいつの間にかこの二人が親密になっていたことを意外に思った。だが、苴州入りの直後から共に軍を任されていたのだから、不思議ではない。


「私も枳月殿に話がある。けれど、それは後でいいわ。先に二人ですべき話を済ませて」


 朱華は悠然と微笑んでみせた。首をかしげる珂瑛の背後で、枳月が目を逸らして体を強張らせるのが分かった。彼はあれをなかったことにしようとしていたに違いない。それを確信し、朱華は余裕を取り戻した。

 主人を待たせるわけにはいかないと珂瑛は主張したが、朱華は強引に黙らせた。部屋の片隅に勝手に椅子を移動させ、腰掛けると仮眠をとることにした。朝からずっと眠くて仕方なかったのだ。

 部屋は広かったこともあり、二人の声は聞こえなかった。朱華が居座りを決め込んだ以上、枳月も諦める他なかったのだろう。まさか、珂瑛の前で昨夜の話はできない。

 どのくらいうとうとしていたのか、朱華は肩を揺すられて目を覚ました。彼女を起こしたのは珂瑛だった。彼の大きな手が、無遠慮に朱華の肩を掴んでいる。


「終わったぞ、姫」

「……ありがとう、珂瑛」


 寝ぼけ眼で礼を述べ、朱華は人目を憚らず大きな欠伸をした。それから珂瑛の肩越しに枳月と目が合い、慌てて口元を覆った。一瞬、どこにいて何をしようとしていたのか忘れてしまっていた。


「殿下と話があるんだろう」

「少々ね」


 枳月に変わった様子はないように見える。少なくとも珂瑛にはわからないだろう。

 珂瑛は席を外すために退室した。そこは軍に出入りする商人などが主に使っている部屋のようだった。内々の話に使われることもあるのかもしれない。

 二人きりになっても、枳月は落ち着いた様子だった。返って朱華の方が落ち着かないくらいだった。

 強気の態度に出てみたものの、さてなんと切り出していいものか。迷っていると、先に枳月が口を開いた。


「昨夜のこと、まことに申し訳ありませんでした」


 あっさり謝罪され、朱華は脱力しそうになった。そして、彼に謝って欲しかったわけではなかったことにも気づく。


「……謝罪していただきたいわけではありません。ただ、どういうおつもりだったのかと」


 朱華の言葉に彼は押し黙る。表情はやはり読めない。困惑しているようにも見えるが。


「その、結婚は相手が誰であろうとできないと仰っておられましたね。だからといって、その……その手の戯れのお相手に、私は向かないとも思いますし……その、私が相手では戯れではすまなくなりましょうし、立場的にも……」


 朱華は自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。話せば話すほど、言いたいことから遠ざかる。


「戯れなどとんでもない、そのようなつもりは!」


 枳月は慌てた様子で否定したが、また自分の発言に驚いた顔をして黙り込んだ。そこで黙り込まれても朱華も困ってしまうのだが。

 とりあえず、離れて座っていると話しにくいため、椅子を移動させることにした。

 長方形の簡素な机を挟んで対角線上の位置に椅子を戻す。真正面に座るのはなんとも気まずくてできなかった。

 枳月はそこにかける朱華をちらりと見たが、やはり口を開かない。堪り兼ねて先に口を開いたのは朱華だった。


「では、いったいどのようなおつもりで?」


 詰問するというよりも、困り果てたような口調で問う。彼は机に肘をつくと、頭を抱えるように俯いてしまう。

 誤魔化しや言い逃れをしようとする様子はないため、朱華は辛抱強く待った。

 やがて、彼はようやく顔を上げた。朱華を一瞬見たが、じきに目をそらして困りきった様子で溜息をついた。


「……お嫌でしたか?」


 絞り出すような呟きに、朱華はびくりと身動ぎしてしまった。椅子ががたんと音を立てる。予想外の反問に、次に答えに窮するのは朱華の番だった。

 朱華は瞬時に首まで赤くなってしまった。赤面して絶句する朱華を、枳月が盗み見るようにする。


「……分かりません、ただ驚いてしまって」


 顔を伏せてなんとか答えたが、今度は顔を上げられない。

 枳月が微かに息を吐くのが聞こえてきた。


「あのようなことをしでかしておいて、このようなことを申し上げるのは申し訳ないのですが……私も自分のしたことに正直なところ驚いています」


 いかにも情けなさそうに、彼が呟いた。偽らざる本音には違いないのだろう。朱華は俯いたまま思わず笑ってしまった。

 いい年齢としをして、自分たちはなんの話をしているのだろう。

 彼は女性との関わりを避けて生きてきたのだろう。朱華もその手の鈍さにかけては自信がある。まったく経験も免疫もない二人だけに、お手上げ状態だった。


「……私は一時の戯れであっても女性とかかわったことがありません……ましてや、姫を相手にそのようなこと……その、つまり……」


 枳月もなんとか言葉を探そうとするが、結局口ごもってしまう。


「……困惑しておられると?」


 朱華の助け船に、彼は申し訳なさそうに頷いた。それから小さく首を振った。


「いや、その……あの時は……あなたが愛らしくて堪らぬように思えたのです」


 その言葉に、朱華は耳まで赤くなってしまった。枳月はあくまで真面目に口にしているようで、むしろ困惑しながらの言葉だった。


「恥ずかしがられる必要などないにもかかわらず、頬を染めて必死に否定なさろうとされ――私はあのような女性の姿を目にしたのは初めてでしたが、なんとも微笑ましいような愛おしいような気がしまして、気が付くとあのような真似を……」


 そこまで口にしたのち、枳月は何とも言えない顔でまた黙り込む。朱華は狼狽しながらも、彼の言葉を反芻する。


「……珍しいものを目の当たりにされて、つい衝動にかられた、というようなところでしょうか?」


 彼の言葉を分析すれば、そういうことになるのか。口にしながらも、朱華としては複雑極まりない想いだった。


「――それではあまりに失礼ではないかと……」

「けれど、当たらずも遠からず、ではありませんか?」


 枳月は気まずげな表情かおをしながらも、否定はしなかった。朱華は心のどこかでがっかりしつつも安堵もしていた。無難な落としどころを求めているのは、お互いさまのようでもあった。

 朱華は俯いていた顔を上げ、そっと彼を見る。すっかり日焼けした彼の顔色までは分からない。それでも、昨夜のことを最も持て余しているのは彼当人だということは、朱華にも分かった。なかったことにしてくれと言えるような立場にないことは理解しているだろうし、言い出すような人物でもない。この件での決定権は朱華にある。

 彼は朱華を主人と見なしており、朱華が苴葉公の地位にある以上、今後もその関係は変わらない。これからのことを考えれば、なかったことにするしかないのは朱華にも理解できる。そして、そうできるのは彼女しかいない。


「――今回の件、私は忘れます。それで良いですね?」


 ぱっと顔を上げた枳月の顔は、心底ほっとしているようだった。朱華としては複雑極まりない想いだったが、顔に出すわけにはいかない。


「……申し訳ありません」

「――謝っていただくようなことはありません……そういうことですから」


 朱華は苛立ちまじりにそう言い捨てた。言葉尻がきつくなったような気がしたが、そこまで制御はできなかった。そもそも、何故、自分は落胆したような心地がするのか。

 朱華は苦笑いしたくなるのを堪え、悠然と微笑んでみせる。


「では、失礼いたします、枳月殿」


 優雅に一礼してみせ、朱華はそそくさと退室した。扉を閉めると、そこには珂瑛の姿があった。朱華は驚きのあまり声を上げそうになったが、辛うじて堪えた。外に漏れるような声量では話していないはずだった。冷静を装い、話は済んだと珂瑛に告げた。

 珂瑛は片眉を上げ、じっと乳兄妹の顔を見据えた。


「――まことにもう良いのだな?」


 何故念を押すのかと問いたい心地を堪え、朱華は苦笑いしてみせた。


「所用は済んだ故、もう良い」


 珂瑛は「さようでございますか」と応じると、朱華と入れ替わるように部屋に入っていった。


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