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雪の陰翳  作者: 苳子
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第9章 6

 翌朝、朱華はいつもより早く目を覚ました。いつもなら夕瑛に起こされるまで転寝しているのだが。

 昨夜は寒さに震えながら自室に戻り、寝衣に着替えもせずそのまま寝台に潜り込んだ。夕瑛の準備してくれた湯湯婆ゆたんぽはまだ仄かに温かく、それを抱き込んでほっとした直後からの記憶がない。おそらく数時間しか眠っていないだろう。

 朱華は頭まで引っ被っていた掛布団から顔を出し、室内の冷気にまた引き戻る。炉の火は絶えてしまったようで、室内はすでに冬の寒さと変わりない。夕瑛が火を熾しに来てくれるまで横たわったまま体を丸めることにした。

 冷気をふさぐため、窓は鎧戸で塞がれている。朝の光は差し込まない。夕瑛が来ていないということは、まだ早朝なのだろう。

 眠れそうにないと思っていた割に、よく眠れたような気もする。それから、ようやくそう思った理由に行き当たった。

 昨夜のあれは、他に解釈のしようのないことには違いない。そのくらいは朱華にも分かる。ただ分からないのは、それをしでかした当人がああも驚いていたということだ。朱華から仕掛けたわけではなく、確かに彼からだった。自分からあのようなことをしておいて、驚くとはどういうことか。

 気が付くと、朱華は指先で自分の唇に触れていた。初めてのことでもあり、それもほんの一瞬触れただけのことだった。柔らかかったが、やや荒れていたような気もするが、はっきりしない。その接触そのものには特に感慨はない。ただ、それがどういう事かとなると話は別だ。

 思い返しただけで耳まで熱くなる。鼓動も早鐘を打つようだが、それが何故なのか朱華には分からなかった。


「――だいたい、あれほど結婚はできない、しないって言っておいて……」


 気が付くと、そんな独り言を漏らしていた。

 思考がますます混乱するようだった。こういうことと、結婚は別の話だということくらいは朱華も知っている。特に朱華のような身分の者の結婚は義務の一つでもあり、特に男性は気に入った女性がいれば、妻とは別に関係を結んでも非難されることはない。

 枳月は確かに結婚はしないと言ったが、それは即ち女性とそういう関係を結ばない言うことではない。ただ、そう言った付き合いの相手に朱華は向かないはずだ。では、どういうつもりだというのか。

 朱華は溜息をつく。そもそも、彼の思惑をどうこう言う前に、自身の気持ちもはっきりしない。本当に一瞬の出来事で、自分がどう感じているのかを知る余裕もなかった。こうして考えてみたところで、答えは出そうにもない。

 もし、彼がもう一度同じことをしようとしたらどうだろう。

 ふとそんな考えが浮かんだが、朱華は結局苦笑いした。彼は恐らくもう二度と同じことはしでかさないだろう。かれは先ほど朱華が考えたようなことそのものすら、避けたがっているのは確かだった。彼の望みは自分の血筋を残さないことなのだから。

 次に浮かんだのは霜罧のことだった。

 彼は朱華の心がはっきりしないからこそ、()()彼女との結婚はできないというような主旨のことを言い張る。彼は朱華の両親が見込んだ夫候補であり、能力的にも血筋的にも釣り合っている。苴葉公の夫としては申し分ないはずということだ。朱華の結婚は領主としての役割の一環でもあり、そこに朱華の気持ちは関係ないはずだ。それどころか、そういうことは返って問題を生じかねない。

 彼女の両親のように、義務としての結婚に気持ちまで伴い、それが長年保たれることが稀であることは、王都で育った娘であれば誰もが知っていることでもある。妻に老いが忍び寄れば、夫は若い女性を傍に置く。妻はそれには何も言わないのが通常だ。そこにどのような感情が入りの混むのかは、朱華には分からない。ただ、そういうものだろうと考えていたし、今でもそう思っている。枳月の希望はまだ理解できるが、霜罧の言わんとすることはそんな朱華には分からない。

 枳月が自分の血筋を残さないために結婚を望まないことは、朱華には理解できる。だからこそ、というわけではないが、彼の希望を尊重したいと思う。それは何故だろう。今のところ、朱華に彼への特別な――そういうたぐいの気持ちの自覚はない。ああいうことがあったとしても、驚きはあっても感情にそういう動きは見られない。それでもそう思うのは、そういうこととは別の問題だからなのだろう。

 朱華はぼんやりと霜罧の言っていたことを思い出す。朱華が周囲の人々や領民のことを案じるのと同じことだと。朱華はそこでようやく腑に落ちたように感じた。霜罧だけでなく、特に夕瑛からよく言われることだ。自分のことよりも朱華のことが大切だと、彼女はよくそういう。朱華とて同じ気持ちだが。


「……ああ、もう、私は……」


 霜罧が言っていることも、それと同じだということがようやく理解できた。頭を抱えるような思いで、ぐいっと掛物をさらに引っ被って小さくなる。夕瑛が言っていたのはそういうことだ。彼は確かに朱華のことを大切に思ってくれているのだろう、自分の気持ちよりも。

 それに思い至らず、随分と酷いことを言ったものだと思う。彼を軽んじているつもりはなかったが、思いやる気持ちは朱華には欠けていた。苦手意識と嫌悪が先立っていたせいもあるかもしれないが。それでも、彼は今なお朱華の気持ちを優先しようとしてくれている。あの時朱華の申し入れを受け入れていれば、今頃彼は彼女の夫となっていたことだろう。そうなっていた場合、朱華の心情はどういったものだろうか。

 朱華はがばっと起き上がり、頭をかきむしった。霜罧に対する申し訳なさと、同時に戸惑いも感じる。自分はそこまで思われるに値するような人間ではないというのに。

 霜罧は朱華に対する気持ちも態度も明らかにしている。では、枳月はどうなのだろうか。昨夜の意味を考えてみると、やはり朱華には分からない。彼に確信があれば、ああも驚いた顔はしなかっただろう。

 ふぅっと息を吐いたところで、扉が控えめに叩かれた。返事を待たずに入ってきたのは夕瑛だった。まだ主人あるじは寝ていると思っていたのだろう。


「あら、姫さま、お目覚めでしたか」


 寝台の上で身を起こしている朱華に気付くと、驚きを隠しもしない。火の気の絶えた部屋で、寒がりの彼女が上掛けをはねのけて起きているなど予想外には違いない。


「――ああ、ええ」

「おはようございます――すぐに火を熾しますね」


 夕瑛は優雅に一礼すると、返事を待たずにすたすたと暖炉に向かった。灰のなかから熾火をかき出し、手早く火を大きくする。無駄のない動きを朱華はぼんやりと見つめていた。


「そなたも火を熾せるのよね」

「それはまぁ一応、女官ですから」


 いったい何を言い出すのかと説いたげな表情かおで、彼女は振り返った。そこでようやく主人の様子に気付いたようだった。


「……いったいどうなさいましたの? 隈ができておりますわよ」


 朱華は今更込み上げてきた欠伸を噛み殺す。


「あまり眠れなかったの」

「――冷え込みましたものね」

「そうね」


 夕瑛の思い込みを朱華はそのまま受け入れた。まさか、枳月が戻ってきているとは言えない。


「夕瑛、火の熾し方を教えて」

「……いったいどうなさいましたの?」


 唐突な申し出に、夕瑛は眉を顰めて立ち上がった。足早に寝台の傍まで寄ると、「失礼いたします」と断った朱華の顔を覗き込む。


「火が消えましたら、夜半でも呼んでください」

「――自分でできたほうが早いでしょう」

「それはそうですが……」


 夕瑛は渋ったが、朱華がもう一度繰り返すと肩を落とした。日中、朱華が執務室に行っている間私室の火は消されている。夕刻、朱華が引き上げて来る頃を見計らって、夕瑛が準備をしていた。その時に一緒にやることで話はついた。


「いったいどうなさったのですか……」


 夕瑛が不審に思うのも無理はなかったが、朱華も話すわけにはいかず、ただ課題を思い出したのよ、とだけ返した。




 いつも通りの時刻に、朱華は執務室に入った。あまりにも隈がはっきりしていたため、夕瑛に食い下がられて今朝ばかりは薄い化粧をほどこしていた。それに霜罧が早速気づいたようだった。


「――昨夜は申し訳ありませんでした」


 今日の分の書類を渡し説明をしながら、その合間に彼は声を押さえて囁いた。同席している列洪は枳月の帰城を知らない。


「別にどういうことはない」


 朱華はそう言いながらも、込み上げてくる欠伸を誤魔化しきれなかった。短時間とは言えぐっすり眠ったつもりだったが、やはり眠りは不足しているのだろう。

 

「――そなたはあれから枳月殿とは?」


 目尻に涙を浮かべながら、朱華も声を潜める。霜罧が黙って首を振った。


「お話は後程」


 列洪が居てはできない話なのだろう。朱華は小さく頷いて、彼に下がるよう身振りで示した。


「私は各署の巡回に行ってまいります」


 彼は毎日各部署をまわって急ぎの書類の受け渡しなどを行っている。いつもより早い申し出だったが、気を回してくれたことくらいは見当がつく。いたずらに言い繕ったりしたりせず、その気遣いを朱華はありがたく受け入れることにした。二人でしかできない話があることなど誰もが承知している。

 列洪が退室するなり、霜罧はしたり顔で話を再開した。


「今朝、お会いしました。多少お疲れのようでしたが、特段お変わりはありませんでした。昨夜の話のうち、打てる手のあるものは打っておくとご報告しておきました」

「あれから今朝にかけてね――仕事の早いこと……そなた、寝たの?」


 朱華の気遣いに、彼は喜色を隠そうとはしない。嫣然と微笑むと、恭しく一礼する。 


「多少は。お気遣いありがとうございます」


 彼は気持ちを隠すことはしないと明言したとおり、二人きりのときは特に態度に示す。それに朱華はいつものように当惑しながら眉を顰めてしまう。いつまでたって慣れないことだった。


「そなたに倒れられては困るのは私だから」

「心得ておきます」


 その態度は一々勿体ぶっていて、朱華の振り回される姿を楽しんでいるのではないと疑ってしまうが、口にするわけにもいかない。彼の気持ちにはっきりした態度をとれない朱華には負い目がある。


「明日か明後日には王都へ発たれるそうです――お話がおありでしたらきちんとなさっておいた方が」


 訳知り顔に朱華はむっとしつつも、戸惑いも隠せない。


「……そなたは心が広いわね」


 嫌味半分の言葉に、彼は口の端を上げた。悪い笑い方だった。


「逆ですよ――確実に後顧の憂いを断っておくためです……私は嫉妬深いので」


 朱華は背筋に泡立つものを感じながら、未だに城の女性の多くを魅了するその顔から眼を逸らした。


「――少し怖いわね」

「その際にはお覚悟ください」


 彼は再び嫣然と微笑した。



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