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雪の陰翳  作者: 苳子
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第9章 5

 霜霖がなかなか戻ってこない為、朱華は枳月にかけるようすすめた。炉辺の前に椅子を並べて腰かければ、波立っていた心中が凪いでいく。

 焔は温かく、狭い室内の隅まで照らすにも十分だった。

 そしてようやく、大変な一年だったのは彼の方だったことを思い出す。にもかかわらず、ろくに労いもせず、逆に励まされてさえいるような始末だ。己の至らなさを自覚する度に、消え去りたいような心地になる。そんな衝動をぐっと堪えて、朱華は言葉を探した。


「先程のお話を受け売りだと仰っておられましたが、どなたから?」


 おそらくは彼の心の内を察して発せられた言葉だろう。他人と関わらないようにしている彼が、そのようなやりとりをしているのは意外だった。


「力を貸してくれている算師(測量技師)からです……春先から半年以上、主に起居を共にしています。口数の多い男ではないのですが、見るべきところは見ているようで、時折どきりとしますよ――実は何もかも知っているのではないかとね」

「師のような人物なのですね」


 二人にはせん志邨しそんという共通の武芸の師匠がいる。師は枳月の出生について知らされていないが、弟子が何かを抱えていることについては気付いていたようだった。


「――そうですね」


 枳月は小さく息を吐いた。彼にも思い当たる節はあるのだろう。朱華は記憶を探った。


「……私が他の姉妹よりも武芸に没頭したのは、そうすると父が喜んでくれたからです――それを見透かされたのでしょうね、師から叱られたことがあります」


 苦笑いまじりに昔話を始めた朱華に、枳月は先を続けるよう微かに頷いた。


「私は他の姉妹より賢いわけでもなく、美しくも愛らしくもありませんでした。そんな私を両親がどう褒めようか迷っていたのは、幼心にも分かっていました。物心つくころには既に人垣の中心は三の姉上で、気が付くと後から生まれた妹にも人の輪ができていて、私は常にその外にいました。他人の無関心が普通のことだったので、特に不満に感じた記憶もありません。ただ、太刀に興味を示して、他の姉妹よりその筋がいいと分ると、殊の外父が喜んでくれたのが意外でした――何より、喜んでもらえたことが、私もとても嬉しかったのです。そうなると、父の関心を引くために稽古に励んでいたような節もありました」

「……その点を指摘され、叱責を?」


 枳月は穏やかに先を促す。


「春が来れば父は苴州に赴くため、不在になりました。そうなると、つい、怠け心が芽生えてしまうわけです」


 朱華は肩をすくめて苦笑いした。空位となった苴葉公の座が朱華の手中に転がり込んできたのは、王女のなかでも特に武芸に巧みとされていたおかげでもある。だが、そのきっかけは褒められたものではないことは承知している。


「特に茜華せんかと遊んでいると、夢中になってしまい、稽古の時刻になっても愚図愚図してということが何度かあり、結局師から諭されました」

「公が稽古をさぼっておられたわけですか――少々意外ですね。幼い頃から真面目に精進されていたのだとばかり」

「根は怠け者です」


 朱華は恥じるように肩をすくめ、枳月に苦笑いしてみせた。彼もそれを受けて微かに笑う。


「で、師はなんと?」

「誰かのためだけで続けることは難しい、とだけ――他に自分のやりたいことがあるなら、それをやりなさいと言われました」


 朱華は膝の上で手を組みと、ふっと懐かしむように微笑した。


「他にやりたいことなどありませんでした。音楽も手芸も苦手で、舞踏も好きではありませんでしたし。体を動かすことだけは好きでしたが――ただ、無心に形を習うことは好きでした。結局、他にやりたいこともなく、向いていそうなこともなかったので……改めて弟子入りをお願いしに参ったとき、師は苦笑いしておられました――そんな私の心中などお見通しだったのでしょうね」

「けれど、その後は精進なさったのでしょう?」

「一度は見放されたわけですから――他に自身の価値を見出すすべもなく……師には失礼なことだったと思いますが……他に道はなかったというのも大げさですが」


 与えられた選択肢の中から、自分を活かせるものと言えばそれしかなかったともいえる。


「師は公のことを褒めておられましたよ。淡々と続けることが苦にならないようだと」


 枳月は火傷の跡のないほうの顔を晒し、朱華に微笑みかけた。朱華は僅かに震えたが、気づかないふりをした。


「一度は破門されかけたのですから当然です――他にできることもありませんでしたし……」


 そこまで話したところで、朱華は口をつぐんだ。話していて自分でも情けなくなってきた。聞かされている方も気分のいい話ではないだろう。特に真摯に励んできた人には。

 朱華の言葉の何かが触れたのか。枳月はふっと視線を遠くへ向けた。


「私は己を粗末にする人間は弟子にしないと言われましたよ」

「……」


 朱華は咄嗟に彼の横顔を見た。その表情は落ち着いたものだった。彼女は微かに肩を震わせ何か言おうとしたが、結局言葉にはならなかった。かわりに俯いて唇を噛み締めた。

 枳月は彼女のそんな様子には気づいたようで、その気をそらすようにふっと笑った。


「結局のところ、王配殿下と師が何か話し合われた結果、側仕えのような形で採用となったようでしたが」

「……師の住居すまいで枳月殿が調理されていたのは、そういう経緯だったのですね」

「そういえば、公にも私の手料理を振る舞ったことがありましたね」


 朱華は何も考えずに昼時におしかけた上、空腹で腹が鳴ったことまで思い出した。耳まで一気に熱が走る。


「あの時は……その、美味しかったです」


 結局動揺を誤魔化しきれず、朱華は赤面して再び俯いた。


「それは良かった」


 枳月も流石に朱華のバツの悪さには気づいているようだった。穏やかにそう受け流してくれる。


「師からは武術だけでなく家事一般まで教わりました……今回のことでつくづく教わっておいて良かったと思いました」


 戦場では自分で何でもできた方がいいと言われたことを、朱華は思い出していた。


「野営などでは必要ですね」


 朱華自身も何度か野営したことがあるが、苴葉公という立場もあり、見ているだけだった。結局、まともに火を熾すこともできないままだったことも思い出す。


「……もっと昔から翼波戦に加わりたいという希望は出していたのですが、結局却下され続け、なかなか実際に役立てることはできませんでした。今回ようやくです」


 この手の話になると、朱華は返す言葉を失ってしまう。迷った挙句に結局話題を変える他なかった。


「私はまだ火も熾せないままです」


 情けなさそうに呟くと、枳月がふっと笑った。


「そういえば、そういうことがありましたね――公は頬に炭をつけておられた」


 枳月はそう言いながら、記憶を辿るように自分の頬を指さしながら朱華に笑いかけた。朱華はそれにまた赤面する。焦った様子で身を退き、背中が椅子の背にどんとぶつかる。


「もう、そのような恥ずかしいことはお忘れください」

「そのように恥じるようなことではないでしょう――今でも微笑ましく思い返すほどに可愛らしくいらっしゃいましたよ」


 朱華は息が止まるような想いだった。この程度の台詞、霜罧の囁きとは比べ物にならない。彼にしてみれば、子供を褒めたのと然程変わらないに違いない。真に受ける方がどうかしているというよりも、真に受けるという言葉に値するような言葉ではない。にも拘わらず、朱華は狼狽を隠せなかった。


「ですから、そのようなことは……」


 耳まで紅潮させ、必死のていで恥ずかしそうに朱華は抗議した。目も合わせられないほど狼狽しながらも、なんとか枳月の言葉を否定しようとする仕草はなんとも可愛らしく映る。

 なんとか睨みつけようとすると、微笑む枳月と目があった。よく日に焼けた顔の半分は髪に隠れ、もう半分も無精髭に覆われている。春先に別れた時の生白い若者の面影はもうなかった。

 混乱した頭の片隅でぼんやりとそんなことを考えていると、ふっと視界が暗くなった。柔らかな感触が唇に重なる。何が起こったのかわからないまま呆然としていると、同じく驚いた様子の枳月の顔が間近にあった。

 何がおこったのかを先に理解したのは、彼の方だった。飛び退るような勢いで身を引き、その反動で椅子ががたんと音を立てる。さっと顔を逸らしたが、その表情が強張っているのは見えた。これほど動揺した彼を見るのは、朱華ははじめてだった。

 朱華は未だに何が起こったのかわからないままだったが、彼のその様子から只事ではないことだけは察せられた。朱華が何の反応も見せないため、枳月も困惑しているようだった。

 暖炉の薪が崩れ、火の粉が散った。その音に、朱華はようやく現実に引き戻された。どう見ても枳月は狼狽えており、朱華自身も未経験のことに驚いている。ただ、それがどういう事かということは知っており、意味も思い出しつつあった。


「……枳月殿?」


 同じことを霜罧からされたなら、朱華もここまで驚かなかったかもしれない。最も無縁、しでかしそうにないと見なしていた相手からの行為だったからこそ、未だに呆然としているのだろう。そして、当人も自分の衝動的な行動に衝撃を受けているようでもあった。釈明の言葉も出てこないほど動揺している姿に、朱華は次第に冷静さを取り戻していった。だからと言って、事態の理解に気持ちが追い付いてこない。

 朱華の声に、枳月はぴくりと肩を震わせた。一瞬彼女の方を見たが、目を合わせられないと言った様子だった。彼にとっても予想外の出来事だったには違いない。朱華はその意味を考えようとしたが、思考は空回りしている。今最も重要なことは、自分はどうすればいいのかということだが、見当もつかない。

 二人して無言のまま途方に暮れるという事態に陥っていると、扉が外から叩かれた。二人共に霜罧が枳月の寝室の手配に行っていたことを思い出し、心の底からほっとした。

 

「遅くなって申し訳ありません――」


 詫びながら入室した霜罧は、一瞬黙って奇妙な顔をした。だが、すぐに何事もなかったかのように手間取ったが手配が整ったことを報告し、朱華に帰室を促した。


「枳月殿下にはじきに案内の者が来ますので、もうしばらくこちらでお待ちください。公は私が部屋までお送りいたします」


 何があったのか、霜罧に気付かせるわけにはいかない。朱華はなるべく落ち着いた様子で立ち上がり、欠伸を噛み殺す振りまでした。


「そうね、もうすっかり遅くなってしまったことだし――では、枳月殿、私は先に失礼します」


 朱華は微笑して軽く頭を下げた。枳月も立ち上がり、身を折る。その立ち居振る舞いは普段の彼に戻っているようだった。


「遅くまでお引止めしてしまい申し訳ありませんでした。ゆっくりお休みください」


 その言葉に、朱華はうっかり笑いそうになってしまった。とても眠れそうにもないのは、恐らくお互い様だろう。だが、そんなことはおくびにも出すわけにはいかない。

 霜罧に続いて廊下に出た朱華は、思わず体を震わせた。狭い室内はいつの間にか随分温まっていたらしい。


「――いよいよ本格的に寒くなってきたわね……」

「廊下は屋外と変わりませんからね。すっかり遅くなってしまい申し訳ありませんでした」


 寒さのあまり二の腕をさすりながら歩く朱華に、霜罧が振り返って改めて詫びる。朱華はもういいと言うように首を振った。


「――お話は弾みませんでしたか?」

「……弾んだというほどのことではないけれど、師の話などを少し」


 嘘は言っていない。ただ、何があったかは言わないだけだ。朱華はまた欠伸を噛み殺す振りをした。


「そうですか」


 霜罧は得体の知れない微笑を浮かべると、また前を向いた。朱華はその背中を睨みつけたくなった。

 本当に手間取っていたのかどうか怪しいところだ。この男にしても彼にしても、いったい何を考えているのか。朱華にはまったく読めない。自分自身の心も分からなくなっていた。



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