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雪の陰翳  作者: 苳子
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第9章 3

 翌日、朱華は改めて列洪に礼を述べた。彼は特に感情をのぞかせることもなく、目礼でそれを受けた。


「それにしても、あの子はそなたの子に間違いないわね」


 朱華の言葉に、列洪は不可解そうな眼差しを返してきた。


「妻は不貞を働くような女性ではありませんので、私の子で間違いないと考えておりますが」


 とんでもない誤解に、朱華は慌てて片手を振った。


「そういうことではない……よりにもよって、そのような事を言うわけがなかろう」

「脈絡がないのは違いありませんね」


 一人焦る朱華と対照的に、列洪は全く落ち着いている。


「当然でしょう。私がそのようなことを口にするわけかない……私が言いたいのは、苴州第一というところが似ているということ。流石にそなたの子ね」


 ようやく納得したように列洪はわずかに眉を上げ、もっともらしく頷いた。


「ありがとうございます。らん家の娘であれば当然です」

「そなたははじめて会った時から、苴州の民が、苴州が、だった」


 苴州入りの際のことを思い出し、朱華は苦笑いする。


「浪家の者ならば当然のことでございます」


 百年以上にわたり苴葉家の補佐を務めてきた家柄だけに、その言葉には重みがある。


「そなたの家は初代苴葉公の時から仕えているのだったわね」

「はい――時には主人の留守を預かり、時には身代わりも務めて参りました」


 先代の苴葉公亡き後、彼は何の支障もなく苴州を切り盛りしていた。今も列洪の存在なしには苴葉家も苴州も立ち行かないに違いない。しかし、それは留守を預かったのであり、身代わりではない。


「……身代わり?」


 朱華は訝しげに首を傾げた。


「はい。苴葉城落城の折、私の父であった先代の浪家当主は当時の苴葉公をお逃しし、代わりに城に残りました」

「……では、落城の折に?」


 苴葉城落城の悪夢は、未だについ昨日のことのように語り継がれている。


「妻子を庇って嬲り殺しの最期を遂げました」


 その口ぶりは伝聞ではないように感じられた。朱華は指先を握りこみながら眉根を寄せる。


「……そなたも?」

「私と弟もおりました。父が殺害された後、母は慰みものにされている間に私たちを逃してくれました。私は弟を連れて死体の山に潜り込み、辛くも難を逃れました。その後、程なくして苴葉城が奪還されたので、なんとか助け出されたような次第です」


 列洪は淡々と何でもないことのように話した。朱華は顔色を失い絶句する。苴州を襲った惨禍については散々聞いてきたが、列洪の身の上に起こった話については初耳だった。


「後で両親の遺体を弔うことはできましたのは幸いでした。とは言え……例に漏れず無残なもので、顔だけでは身元が判明しないほどでしたが」


 まるで今日の天気についてでも話しているかのようだった。彼は手元の書類を確認し、それから主人が言葉を失っていることに気づいた。


東葉とうはでは身内に犠牲の出なかった者はいないでしょう。それがどの時点であったかという違いはありましょうが」


 列洪はそう言うと隣の霜霖を見た。

 霜霖は朱華の母の兄に祖父を殺害され、父は朱華の父の従兄弟に重傷を負わされている。

 朱華自身も、会ったことのない祖父を二人とも彼等に殺害されている。


「枳月殿下のように拐われなかっただけ幸運でした。あの方もどれほど苦労なさったことか」


 枳月が事情があって苴葉城や軍から離れていることは、列洪も知っている。ただ、その理由は知らされていない。

 列洪の言葉に、朱華はますます複雑な想いで沈黙する。

 枳月がこの言葉を聞けば、恐らくひどく身の置き所のない思いをしたに違いない。彼が犯した罪ではないが、他人事とするにはあまりに大きすぎる。最終的な目的がなんであれ、許されることと許されないことがある。


「私や枳月殿下のような目に子らに遭わせずにすむためなら、私はなんでも致します」


 滅多と感情を表に出すことのない列洪が、静かだが強い口調で断言した。朱華はその台詞に心の底から同意して頷きながらも、やり切れなさも感じていた。

 枳月の父のしたことは断じて許されることではない。だが、それはもう起こってしまったことであり、もう取り返しはつかない。列洪が味わったような思いをした者は数知れないだろう。落命したも数知れない。その結果を枳月一人に課すには酷すぎるように思われるが、では恨みや悲しみはどこへ向ければいいのか。ことの張本人は葉を去り、もはや生死すら知れない。枳月自身、自分で全ての責と罪をひきうけてしまうのも無理はない。


「苴州を守ることは私の子らだけでなく、ひいては葉そのものを守ることにもなるのです。その責が公の双肩にあることをお忘れなきようお願いいたします」


 列洪は立ち上がると深々と身を折った。彼の態度は最初から見事なほど一貫している。苴葉公が果たすべき責任。彼が口を酸っぱくして言うのはそれだけとも言える。

 何かあれば、処分も覚悟で厳しい言葉を口にする。彼にはそれだけの覚悟があるということでもあった。


「……分かっている」


 枳月に対する同情は同情に過ぎず、それは朱華にはどうしようもないことでもある。彼より先に多くの被害者がおり、それこそが大多数の人々にとっての現実であり、朱華が見つめなければならないものだった。


「それにはそなたの力が必要だということも」

「最善を尽くしてお仕えいたします」


 列洪は再び頭を垂れた。朱華は小さく頷きながらも、気づかれないように小さく息を吐いた。

 最終的には自分で選んだ道である。朱華がやらなければならないこと、すべきことの数々は最早明らかだった。




 短い夏が終わる頃、今年の凶作が明らかとなった。冷夏と長雨のため、穀物は例年の半分も実をつけなかった。

 春の終わりに対応策はとられていた。密かに苴州全体に向け雑穀の追加栽培を命じる令が下された。それは夏の初めにまいても秋には収穫でき、さらに寒さと長雨にも強い植物だった。だが、あくまで非常食であり、日頃食されるものではない。

 ある程度より上の年齢の者たちには、内乱前の飢饉の記憶があった。いつまでも冷涼とした風とその命令で、彼等はそのことを思い出した。そのため、辛うじて生き残っていた古老らの知恵が乞われ、人々は打てる手を打ってことに備えた。

 それらの動きはじきに州外にも漏れ、穀物の高騰を招いたが、苴州はその前に必要とされそうなだけの量の購入を終えていた。


「餓死者は出さずにすむかもしれません」


 あらゆる資料の検討を終えた列洪と霜霖からその報告を受けた朱華は、安堵のあまり涙ぐみそうになった。この夏多忙を極めたのはこのためでもあった。


「とは言え、まだ油断はできません。来年の夏までの目処はつきましたが、飢饉は数年続くこともございますので」


 列洪は楽観的な見解は示さなかった。


「苴州が凶作ということは、恐らく翼波も同様でしょう。来年は侵攻が増すかもしれません。冷たい夏は人の死と翼波を招くとは古来から言われてきたことです」


 ほっとしたのも束の間、翼波の攻勢が増すとの見解に、朱華は頭を抱えるような思いで溜息を吐いた。そんな姿に霜罧が苦笑いする。


「凶作も翼波の侵攻も、古来から何度も繰り返されてきたことです。前代未聞の凶事ではありません。大したことではありませんよ」

「――それはそうだけれど」


 朱華はもう一度溜息を吐き、椅子の背にもたれて天井を仰いだ。


「……この先も問題が尽きるということはない」

「その通りでございます」


 相槌を打つ霜罧を睨むようにして見据え、朱華はわざとらしいほどの大きな溜息をもらす。


「――生きている限り、個人においてもそういうものではあるわね」

「領地を治めることも同様でございます」


 列洪が珍しく口をはさむ。暎渮えいかとの一件以来、彼は以前より口数が多くなった。同時に口うるささも増したが、嫌な気はしなかった。


「気長にやっていくしかないわね」

「時には臨機応変に電光石火の対処も必要となります故、あまり鷹揚でも困ります」


 霜霖の台詞に、朱華はむっとする。依然として判断力にも決断力にも自信はない。


「私の才は高が知れているのだから、そのためにそなたらが居るのであろう。馬鹿殿ばかとのには有能な補佐役がつくものと決まっているのだから、当てにしているわよ」


 朱華は半ば自棄気味に呟いた。霜罧は苦笑いし、列洪は生真面目に頷く。


「聞く耳さえお持ち合わせいただければ結構です」


 列洪のその言葉は、皮肉か、それとも偽らざる本音か。朱華は眉を顰めて考えかけたが、結局途中で放棄した。その言葉はそのままに受け取ればいいような気がした。


「父上からも言われている――成果は期待はしていない、ただ謙虚であれと」

「……至言かと存じます」


 朱華はじろりと霜霖を睨み、ふんと鼻を鳴らした。


「自分の才覚は弁えているつもりよ。後は如何に担がれるかということね」

「その際の担ぎ手の選定はお任せするより他ございません」


 朱華は面白くなさそうに眉根を寄せながらも、二人を見比べるように視線を走らせた。


「そなたら以上の担ぎ手はおらぬであろう――そのくらいのことは理解かっているつもりだけれど」

「ならば重畳でございます」


 朱華はまるで無能だと言われているようでむっとしかけた。だが、有能ではないことは確かなため、当たらずも遠からずということかと思い直す。


「恐れながら我々にできることは、次々と起こる問題に粛々と取り組んでいくことのみです」

「それこそ至言ね」


 朱華は列洪らしい言葉にふっと笑った。常日頃の彼の行動そのものだ。そうやって彼は主人不在の間も苴州を治めてきたのだった。





 そして、短い秋の終わりに枳月が苴葉城に戻った。

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