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雪の陰翳  作者: 苳子
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第9章 1

 苴葉公そようこう朱華しゅかによる州軍の前線視察は成功裡せいこうりに終わった。

 史上初の女性王統家(おうとうけ)当主就任は、苴州の人々には困惑を伴いつつも好意的に受け入れられつつあると言って良い。百年にわたる争いに終止符を打った女王は王家の始祖である女神の再来と見なされ、その娘である王女もまたその分身と捉えられている風潮がある。武芸を嗜む元王女朱華の存在は、その端的な象徴として、特に苴州では歓迎された。

 雪解けとともに前線では散発的な戦いが続いた。翼波(よくは)の大規模侵攻は近年見られていない。(よう)の国内事情が安定し国境の守備能力が向上したため、侵略の旨味が減っているのではないかとも言われるが、真相は知れない。

 苴葉公の視察により戦意の高揚した苴州軍は、着実に勝利をおさめた。翼波戦に加わったことはあっても、近衛出身の珂瑛かえいに大軍を指示した経験はなかった。己の力不足を知る彼は側近に歴戦の将を揃え、その上策を用いることで大任を果たした。珂瑛は個人としては武芸に秀でているが、将としては凡庸だった。だが、代わりに人を用いることを得手としていた。

 小規模な戦いが続き、それに効率的な勝利を続けている間に、その余力を兵站の能力の充実に回すよう朱華は指示を出した。それは枳月が発つ前に献策していったことだった。それが早速功を奏することになるとは、朱華も思ってはいなかったのだが。

 この年の夏は冷夏となった。

 領地全体が高地にあり、さらに北に位置する苴州は、そもそも農業に適していない。領民と自前の軍を養う程度の穀物は採れるが、冷夏となればその収穫量は一気に減ってしまう。長期間にわたる翼波戦、続く領主の戦死と交代で、まともな飢饉対策はとられてこなかった。幸いなことに長らく冷害に見舞われることはなく、それが問題となることはなかった。

 雪解けの後も寒さが続き、苴州とはそういう所かと思い始めていた朱華に、列洪(れっこう)が浮かない顔で進言したのは春の終わりだった。


「今年は嫌に寒さが長引きます。ご用心なさったほうがよろしいかと」

「用心?」


 続く寒さと用心という言葉が結びつかず、執務机に向かっていた朱華はぽかんと列洪を見上げた。


「冷害が起こるやもしれません」

「冷害……」


 朱華には想像のわかない言葉だった。

 彼女の生まれ育った王都は西葉さいはにあり、南方に位置し温暖な気候と沃野に恵まれている。内乱前後の年は飢饉も起こったが、平時にはその言葉とは無縁な土地柄である。そもそも王族出身であり、統治とは無縁な一生を過ごす予定だった朱華には接することのないことばかりだった。


「冷たい夏が続くと農作物の収穫が減ってしまいます。となれば、秋から来春以降にかけて多くの餓死者を出すことになりかねません」

「――領民に死者が出るということか」

「端的に言いますれば」


 具体的な想像はできないが、多数の領民を死なせることになるかもしれないということくらいは朱華にも理解できる。是が非でも避けたい事態には間違いない。そもそも領民を死なせることは本意ではないし、苴葉公就任早々の大失態として進退を問われることにもなりかねない。あらゆる意味で避けなければならない。

 考え込む朱華に、列洪はそのための対策が後回しにされてきたことを率直に打ち明けた。


「……今からでも打てる手は?」

「あることはありますが、万全ではありません。どの程度の被害が出るかを正確に予想することは難しいことでもあります。最終的には州の外から食料を購入するしかありますまい。その場合、他の州でも同様の事態が考えられますので、価格の高騰は避けられないでしょう」

「前もって備蓄のために購入しておくという手は?」

「保存の問題もありますし、事前から動けば他州も同様の動きをとるかもしれず、そうなれば今から高騰を招きかねません」


 列洪の言葉はもっともなように思われた。かと言って、初心者同然の朱華に他の方法が思いつくわけもない。自席についたまま手を止めて二人の話に耳を傾けていた霜罧だが、いつの間にか朱華の前に立っていた。

 困り果てていた朱華は、何か考えがあるのかと問うように彼を見た。


「つい先日ですが、公は兵站を充実させるよう指示を出されましたね?」

「ああ――枳月殿の提案に基づいてのことだけれど。余力のあるうちに念には念のために、と……」


 枳月にはそれ以外にも考えがあってのことなのだろうが、ここでそれに触れるわけにはいかなかった。列洪は枳月の正体について知らないのだ。


「それには保存のきく食料の調達も含まれる。それに冷害に対する備蓄も上乗せされては如何ですか? 州外より輸送する手段は同じです。購入後に州内でそれがどのように分配されようが、そこまで注意を払うものはいないでしょう。その指示は冷夏の兆候の前に出されたものです故」


 朱華は眉を顰めた。


「急に調達量を増やせば、逆に疑念を招くことになるのでは?」

「公は就任なさったばかりですので、昨年の資料がまず存在しません。多少多めに購入なさったとしても、用心深い性質たちの方だという評判をたてておけばよろしいでしょう。それに大量に購入すれば、その分購入価格を安く抑えることが可能です」


 数字に弱い朱華は、霜罧の提案について計算することは放棄した。何もかも丸投げは確かによくないが、かといって何もかも自分で判断することも不可能。霜罧という人物の能力については把握しており、他者からのお墨付きもある。任せてしまうことに抵抗はない。


「承知した。後のことは任せる。他にも打てる手があるなら打つように。他にも献策があるならいつでも言うように」


 領主の言葉に二人は恭しく首を垂れた。




 列洪の予想通り、この夏は涼しいものとなった。執務室の窓から見上げる空は曇りがちで、例年よりも雨の日が多かった。


「例年のこの地の夏はどちらかと言えば清涼で晴れた日が多く、戦線が固定されてからは避暑目的で滞在する王侯貴族も多かったのですが」


 執務の合間に空を見上げる朱華に、珍しく列洪が近づき声をかけてきた。夏とはいえ、主は官服の上に薄物を羽織っている。生来寒がりだと聞くだけに、夏まで肌寒いのは気の毒なようでもあった。


「そう――私にとっては初めて夏だったのだけど、残念なこと」


 朱華は溜息まじりに苦笑いを見せ、また空を仰いだ。


「郊外に一面花の咲く原があります。短期間しか見られませんが、今年もなんとか咲いたそうです。一度訪れてみられては如何でしょうか?」


 列洪の提案に、朱華は目をむく勢いで振り返った。背後で、自席についていた霜罧ががたっと物音を立てた。


「――それは是非見てみたいものね……けれど、そなたの口からそのような話が出るとは思わなかったわ」

「出過ぎた真似をいたしました」


 朱華の言葉をどう解したのか、列洪は詫びるように頭を下げた。朱華は慌てて首を振る。


「効率第一のそなた故よ、そのようなこと、何の足しにもならぬと……」


 咄嗟に口走りかけた言葉を、朱華は辛うじて飲み込んだ。だがそれはもう遅かった。列洪はここにきて初めて朱華に笑みをみせた――苦笑いではあったが。


「私事ではありますが、私には娘がおります。つい昨日さくじつ、その娘が母である妻と共にその原まで赴いたようで、実に感慨深かった故、公にも是非お勧めすべきだと主張致しまして」


 かすかにはにかんだような色合いもにじむ物言いに、朱華は慄くように身を震わせた。ちらりと見れば、彼女の補佐役も俯いて肩を震わせている。


「……それはなんともありがたい提案ね。是非とも見てみたくなったわ」

「――恐れながら、公、本日のご予定の変更は可能です」


 そう応じる霜罧の声も、気のせいかわずかながら震えているようだった。

 午後、朱華は恒例となっている城下の視察をする予定だった。もちろん、お忍びである。警備の手配も済んでおり、それが郊外となったところで大きな変更ではない。


「ならば、是非そうすべきね。高原の花の期間は非常に短いとも聞く」

「今年は特に涼しいですので、そうかもしれません」


 列洪は真顔でそう追認する。その響きには誇らしさも感じられ、朱華は何とも言えない心地で吐息を漏らした。それと同時に、ふと悪戯心が沸き上がる。


「ならば、案内あないはそのご令嬢が?」


 朱華の提案に、列洪の動きが止まった。しばしの沈黙ののち、満更でもない様子で主の顔を見る。


「公のご希望であれば」


 人並みに親の情を感じさせる声音に、朱華は思わず顔を伏せて肩を震わせた。それと同時に霜罧の言葉を思い出していた。列洪は効率のばかりの人物ではないと言っていたが、確かにそうではないらしい。

 朱華がでは、と応じると、列洪はさっそく自宅への使者の手配を済ませた。


「――そういえば、そなたには娘御が何人かいるのだったわね?」

「はい。三人ばかり」


 朱華の言葉に、列洪は執務の手を止めて返答をする。その声音に特段の感情はない。


「言いにくいのだけれど、その、男の子は?」


 王家を除けば、一般的に跡取りは男子と決まっている。


「側室を置いてまで、とは考えております。そこまでしたところで、優秀な子が生まれるとは限りません故。いっそ、娘にこれと見込んだ婿を迎える方が効率的かと」


 生真面目に返す言葉に、朱華は一瞬呆気に取られながらもその言葉も尤もだと感じていた。


「――そうね、いくら男子が複数いたところで、原則跡取りは長子。その子が兄弟の中で最も優れているとは限らないものだし……」


 そう話しながら、自然と目線はその隣の霜罧に向く。長子よりも優れた評判でありながらも、次子故に生家を継ぐことのできなかったのが、霜罧だった。

 黙って二人の珍しい会話に耳を傾けていた霜霖は、ようやく口を開いた。


「そのおかげで好きに己の未来を選択できるのですから、悪いことばかりではありませんよ」

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